朝ドラ「あんぱん」(NHK)では今田美桜演じる“のぶ”が昭和20年7月、高知大空襲に遭い、親とはぐれた子どもを連れて逃げる。当時の新聞や回顧録を読んだライターの村瀬まりもさんは「実際に自分の子を連れて逃げた母親もたくさんいた。
■「あんぱん」でヒロインが空襲に、戦争のリアルな描写
のぶの母・羽多子(江口のりこ)「高知が空襲に……。歩いてでも行きますき」
のぶの祖父・釜次(吉田鋼太郎)「待たんか! そんな、羽多子さんまで空襲に巻き込まれたらどうするがじゃ!」
羽多子「けんど、居ても立ってもいられんがです!」
6月20日放送の「あんぱん」(NHK)で描かれた1945(昭和20)年7月4日未明の高知空襲。結婚したのぶ(今田美桜)は高知市に住んでおり、母や妹たち、祖父母が住む実家の後免与町(現在の南国市にある後免町がモデル)からは、少し離れていた。ちなみに後免駅から高知駅までは電車で30分ほど、歩くなら10kmほどの距離になる。
のぶのモデルである、やなせたかしの妻、小松暢(のぶ)が、やなせと同じ後免町の出身というのはドラマの脚色だが、暢の最初の夫・小松総一郎は当時、高知で療養中だったということで、高知市中心部の自宅が倒壊するような爆撃にあったというのも、史実どおりかもしれない。
■翌日、新聞が報じた250機のB29による「中国・四国空襲」
この終戦の年、高知は何度も空襲に見舞われているが、死者400人超を出し、高知市中心部の80%を焼き尽くした7月4日の「高知大空襲」は、その中でも最大のダメージだった。7月5日付の読売報知新聞では、「中小都市の暴爆激化 B29二百五十機 姫路、徳島、高知、高松へ」という見出しで、こう報じられている。
中部軍管区司令部 大阪警備部発表 昭和二十年七月四日十時
一、 南方基地の敵B29約二百五十機は七月三日深夜より四日未明にかけ五部に分かれて管轄内敷地に波状侵入せり
二、 敵の攻撃を受けたる主なる地区次の通り
若狭湾及び大阪湾、山口県西部沿岸に機雷投下、姫路、高松、徳島、高知各市に焼夷弾及び爆弾投下。
三、 損害及び戦果は調査中
(第一波、第二波に)続いて土佐湾に侵入したB29(略)は二時から逐次高知市に侵入、凡そ二時間に亘り焼夷弾攻撃ののち三時すぎから同四十分ごろの間に土佐湾洋上に脱去
同日の朝日新聞でも「B29頻(しき)りに中小都市を狙ふ 二百五十機分散来襲 姫路、高松、徳島、高知へ」という見出しで、小さくではあるが報道されている。しかし、新聞報道は空襲直後の速報で数字に間違いもあり、戦後の『高知市戦災復興史』では、こうまとめられている。
昭和20(1945)年7月4日:午前2時、B29編隊50~80機潮江地区、小高坂方面、市街中心部に油脂焼夷弾大量投下。
(総務省「高知市における戦災の状況(高知県)」より)
■高知の死者401人、自国の「制空権」を失う恐ろしさ
終戦1カ月前のこの時期、日本は既に自国の「制空権」を失っていた。全土がアメリカ軍のターゲットになり、ほとんど迎撃はできない状態で、毎日、毎晩のように戦闘機が飛んできて爆弾の雨を降らせていた。高知大空襲の体験談にも「(B29の連隊は)監視隊の人の話では、太平洋をどうどう低空(飛行)できた」とある。
空襲がどんなに恐ろしいかということは、2025年の今、破壊され尽くしているガザの惨状を始め、イスラエルとイランが長距離ミサイルを撃ち合い、テルアビブやテヘランという大都市が爆撃され、両国で暮らしていた日本人が陸路で退避中という現実からも、とてもリアルに感じられる。
7月4日の四国・中国地方空襲のアメリカ軍作戦資料が公開されているが、「ターゲット・ヒメジ」、高知を爆撃する「ミッション」などの英語を見ると、綿密な計画の下で空襲が行われたことが実感できて、より恐ろしくなってくる。当時のアメリカ軍にとっては遂行すべき軍事作戦であったわけだが、軍事施設だけではなく、一般市民が住むエリアを爆撃する必要はあったのだろうか。
■爆弾の雨の下、燃えさかる火の中で市民はどうしたのか
爆弾の雨の下にいた高知市民たちはどんな思いをしたのだろうか。
高知新聞社が1979年に発行した『ここも戦場だった 145人が語る高知大空襲』(市原麟一郎・編)に、たくさんの体験談が掲載されている。ぜひ口絵に掲載された空襲直後の変わり果てた街の写真も含めて読んでみてほしい。
空襲の体験談は本当に悲惨な話ばかりだ。その中では焼夷弾や爆撃、建物の破壊、火事によってどんどん人が死んでいく。
市中心の桟橋通りに住んでいた当時37歳の女性の証言は、空襲の始まりをこう語る。
「七月四日午前二時すぎ、地底に響くような、気味悪いサイレンが鳴り渡った。三日の奉仕で疲れていたが、飛び起きた」「ピンクとオレンジ色を混合したような、明るい色の丸い大きな玉がフワリフワリと地上におりてくる時であった。(中略)これがアメリカの投下した照明弾とは後日知った。
私は町内の防空係をしていたので、すぐメガホンでふれて歩いた。(中略)一巡してわが家に帰りつくと、隣近所、全部火の海であった。目前にわが家が焼けているのにぼう然と立ちつくし、すぐに百石町に逃げた」
照明弾の投下から焼夷弾が落ちてきて火事になるまでが、あっという間だったことがわかる。その後、女性に起こったことが、とても衝撃的だ。
■バケツを頭にかぶって逃げたが、なぜか落ちたバケツを「取れない」
「(百石町の田の道にいたとき)なにか急に身に迫るような空気の振動を感じた。歩くのを止めて、すっとしゃがんだ途端に、大きな力で、背中の方からゆさぶられる様に、身体が前後にゆれた。今にも倒れそうであった。ちょうど大風に吹かれて飛びそうな感じであった。ピリピリ身体に電気がかかったようであった」
このとき、自覚はなかったが、女性は爆弾の破片に当たっていた。
「(飛んでいったバケツを)近づいて拾おうとしたがとれない。何回くり返してもとれない。おかしいと思った。(中略)左手でとったの(バケツ)を地面において、右手でとってみた。やはり取れない。(中略)ふと右手を見た。袖がちぎれて右手もない。なにか地面に白い物が見える。近づいて何気なく拾いあげると、手だった。しかも、それが大切な自分の右手だった」
右肩のつけねから右手全体を吹き飛ばされたが、不思議と痛みはなかったのだという。女性は「谷間に落ちてゆく」ような悲しみに襲われながら、あとで病院で縫い合わせてもらえるならと思い、右手をバケツに入れて先へ進んだ。しかし、焼け出された人にバケツだけを盗まれ、捨てられた右手は犬がくわえて持ち去ってしまった。
■子を亡くした母親の話は、涙なしには読めない
自分が大けがをした話もつらいが、子どもを亡くした体験談も、涙なしには読めない。
当時、帯屋町に住んでいた38歳だった女性には、小さい子どもが7人いた。1歳から16歳まで五男二女。高知市が空襲されるようになり、夫が疎開先を見つけてきて明日には出発しようという夜に、大空襲に遭った。
「主人は三男(6歳)を自転車にのせ、私は五男(1歳)を背負い、長女(16歳)が四男(4歳)を背負い、長男(14歳)、次女(12歳)、次男(9歳)の三人はそれぞれ走ることにしました。出発のまぎわ、主人が『決して、うしろを振りかえってはいかん。前に進むことよりほかは考えるな』と、みんなに言って出ました。」「もう、どこも火の海です。(中略)逃げていくうち、帯屋町三丁目あたりで、人がひとり倒れています。抱きおこしてみると、(一緒に走って逃げていた)長男です。(中略)背中の子どもはギャーギャー泣くので、あと髪ひかれるものの、長男は動こうとしませんので、このままおったら、親子ともに焼け死にますから、ヨタヨタと出てきました、背中の泣き声につられて――」
■「長男をどうしても助けることができずに、捨てて逃げた」
女性は先に進んでいた夫に再会し、「長男が焼夷弾でやられて倒れているのを、どうしても助けることができずに、捨てて逃げてきた」と言うと、「そうしなければ、みんな焼け死んでしまったから仕方がなかったんだ」と励まされた。
結局、長男は焼死、同じく火傷した次男も病院に運ばれたが死亡、次女も火傷から破傷風を起こして死亡、長女が連れて逃げた四男も頭を強く打って死亡した。
「七人の子のうち四人までを空襲で奪われてしまいました。
『ここも戦場だった 145人が語る高知大空襲』(高知新聞社)
■朝ドラで描かれる空襲の場面が、戦争の恐ろしさを実感させる
この女性のように、この夜、高知で子どもを失った母親はたくさんいた。焼夷弾の雨で街全体が火事になったので、市民の多くは中心部を流れる鏡川に逃げ込んだが、川の中にもB29が容赦なく「1メートルごとに」焼夷弾を降らせたという証言がある。
NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)のほとんどは女性が主人公なので、戦争は兵隊として戦地に赴いた男性より、本土に残った女性の視点から空襲の場面で描かれる。
近年の作品だけでも「カムカムエヴリバディ」では岡山の空襲、「ごちそうさん」では大阪大空襲、現在再放送中の「とと姉ちゃん」では東京の空襲など。高知の空襲はそれらに比べれば、死者401人と小規模かもしれないが、その401の死ひとつひとつについて家族の尽きない悲しみがあったことを改めて思い知らされる。
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村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。
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(ライター 村瀬 まりも)
中東で空爆が起こっている現在、空襲の証言を読むと、よりリアルに胸に迫ってくる」という――。
■「あんぱん」でヒロインが空襲に、戦争のリアルな描写
のぶの母・羽多子(江口のりこ)「高知が空襲に……。歩いてでも行きますき」
のぶの祖父・釜次(吉田鋼太郎)「待たんか! そんな、羽多子さんまで空襲に巻き込まれたらどうするがじゃ!」
羽多子「けんど、居ても立ってもいられんがです!」
6月20日放送の「あんぱん」(NHK)で描かれた1945(昭和20)年7月4日未明の高知空襲。結婚したのぶ(今田美桜)は高知市に住んでおり、母や妹たち、祖父母が住む実家の後免与町(現在の南国市にある後免町がモデル)からは、少し離れていた。ちなみに後免駅から高知駅までは電車で30分ほど、歩くなら10kmほどの距離になる。
のぶのモデルである、やなせたかしの妻、小松暢(のぶ)が、やなせと同じ後免町の出身というのはドラマの脚色だが、暢の最初の夫・小松総一郎は当時、高知で療養中だったということで、高知市中心部の自宅が倒壊するような爆撃にあったというのも、史実どおりかもしれない。
■翌日、新聞が報じた250機のB29による「中国・四国空襲」
この終戦の年、高知は何度も空襲に見舞われているが、死者400人超を出し、高知市中心部の80%を焼き尽くした7月4日の「高知大空襲」は、その中でも最大のダメージだった。7月5日付の読売報知新聞では、「中小都市の暴爆激化 B29二百五十機 姫路、徳島、高知、高松へ」という見出しで、こう報じられている。
中部軍管区司令部 大阪警備部発表 昭和二十年七月四日十時
一、 南方基地の敵B29約二百五十機は七月三日深夜より四日未明にかけ五部に分かれて管轄内敷地に波状侵入せり
二、 敵の攻撃を受けたる主なる地区次の通り
若狭湾及び大阪湾、山口県西部沿岸に機雷投下、姫路、高松、徳島、高知各市に焼夷弾及び爆弾投下。
三、 損害及び戦果は調査中
(第一波、第二波に)続いて土佐湾に侵入したB29(略)は二時から逐次高知市に侵入、凡そ二時間に亘り焼夷弾攻撃ののち三時すぎから同四十分ごろの間に土佐湾洋上に脱去
同日の朝日新聞でも「B29頻(しき)りに中小都市を狙ふ 二百五十機分散来襲 姫路、高松、徳島、高知へ」という見出しで、小さくではあるが報道されている。しかし、新聞報道は空襲直後の速報で数字に間違いもあり、戦後の『高知市戦災復興史』では、こうまとめられている。
昭和20(1945)年7月4日:午前2時、B29編隊50~80機潮江地区、小高坂方面、市街中心部に油脂焼夷弾大量投下。
罹災面積4,186,446平方m、罹災戸数11,912戸、罹災人口40,737名、被害人員712名(内訳死亡401名、重傷95名、軽傷194名、不明22名)、被害建築11,912名(内訳全焼壊11,804戸、半焼壊108戸)
(総務省「高知市における戦災の状況(高知県)」より)
■高知の死者401人、自国の「制空権」を失う恐ろしさ
終戦1カ月前のこの時期、日本は既に自国の「制空権」を失っていた。全土がアメリカ軍のターゲットになり、ほとんど迎撃はできない状態で、毎日、毎晩のように戦闘機が飛んできて爆弾の雨を降らせていた。高知大空襲の体験談にも「(B29の連隊は)監視隊の人の話では、太平洋をどうどう低空(飛行)できた」とある。
空襲がどんなに恐ろしいかということは、2025年の今、破壊され尽くしているガザの惨状を始め、イスラエルとイランが長距離ミサイルを撃ち合い、テルアビブやテヘランという大都市が爆撃され、両国で暮らしていた日本人が陸路で退避中という現実からも、とてもリアルに感じられる。
7月4日の四国・中国地方空襲のアメリカ軍作戦資料が公開されているが、「ターゲット・ヒメジ」、高知を爆撃する「ミッション」などの英語を見ると、綿密な計画の下で空襲が行われたことが実感できて、より恐ろしくなってくる。当時のアメリカ軍にとっては遂行すべき軍事作戦であったわけだが、軍事施設だけではなく、一般市民が住むエリアを爆撃する必要はあったのだろうか。
■爆弾の雨の下、燃えさかる火の中で市民はどうしたのか
爆弾の雨の下にいた高知市民たちはどんな思いをしたのだろうか。
高知新聞社が1979年に発行した『ここも戦場だった 145人が語る高知大空襲』(市原麟一郎・編)に、たくさんの体験談が掲載されている。ぜひ口絵に掲載された空襲直後の変わり果てた街の写真も含めて読んでみてほしい。
空襲の体験談は本当に悲惨な話ばかりだ。その中では焼夷弾や爆撃、建物の破壊、火事によってどんどん人が死んでいく。
市中心の桟橋通りに住んでいた当時37歳の女性の証言は、空襲の始まりをこう語る。
「七月四日午前二時すぎ、地底に響くような、気味悪いサイレンが鳴り渡った。三日の奉仕で疲れていたが、飛び起きた」「ピンクとオレンジ色を混合したような、明るい色の丸い大きな玉がフワリフワリと地上におりてくる時であった。(中略)これがアメリカの投下した照明弾とは後日知った。
私は町内の防空係をしていたので、すぐメガホンでふれて歩いた。(中略)一巡してわが家に帰りつくと、隣近所、全部火の海であった。目前にわが家が焼けているのにぼう然と立ちつくし、すぐに百石町に逃げた」
照明弾の投下から焼夷弾が落ちてきて火事になるまでが、あっという間だったことがわかる。その後、女性に起こったことが、とても衝撃的だ。
■バケツを頭にかぶって逃げたが、なぜか落ちたバケツを「取れない」
「(百石町の田の道にいたとき)なにか急に身に迫るような空気の振動を感じた。歩くのを止めて、すっとしゃがんだ途端に、大きな力で、背中の方からゆさぶられる様に、身体が前後にゆれた。今にも倒れそうであった。ちょうど大風に吹かれて飛びそうな感じであった。ピリピリ身体に電気がかかったようであった」
このとき、自覚はなかったが、女性は爆弾の破片に当たっていた。
「(飛んでいったバケツを)近づいて拾おうとしたがとれない。何回くり返してもとれない。おかしいと思った。(中略)左手でとったの(バケツ)を地面において、右手でとってみた。やはり取れない。(中略)ふと右手を見た。袖がちぎれて右手もない。なにか地面に白い物が見える。近づいて何気なく拾いあげると、手だった。しかも、それが大切な自分の右手だった」
右肩のつけねから右手全体を吹き飛ばされたが、不思議と痛みはなかったのだという。女性は「谷間に落ちてゆく」ような悲しみに襲われながら、あとで病院で縫い合わせてもらえるならと思い、右手をバケツに入れて先へ進んだ。しかし、焼け出された人にバケツだけを盗まれ、捨てられた右手は犬がくわえて持ち去ってしまった。
■子を亡くした母親の話は、涙なしには読めない
自分が大けがをした話もつらいが、子どもを亡くした体験談も、涙なしには読めない。
当時、帯屋町に住んでいた38歳だった女性には、小さい子どもが7人いた。1歳から16歳まで五男二女。高知市が空襲されるようになり、夫が疎開先を見つけてきて明日には出発しようという夜に、大空襲に遭った。
「主人は三男(6歳)を自転車にのせ、私は五男(1歳)を背負い、長女(16歳)が四男(4歳)を背負い、長男(14歳)、次女(12歳)、次男(9歳)の三人はそれぞれ走ることにしました。出発のまぎわ、主人が『決して、うしろを振りかえってはいかん。前に進むことよりほかは考えるな』と、みんなに言って出ました。」「もう、どこも火の海です。(中略)逃げていくうち、帯屋町三丁目あたりで、人がひとり倒れています。抱きおこしてみると、(一緒に走って逃げていた)長男です。(中略)背中の子どもはギャーギャー泣くので、あと髪ひかれるものの、長男は動こうとしませんので、このままおったら、親子ともに焼け死にますから、ヨタヨタと出てきました、背中の泣き声につられて――」
■「長男をどうしても助けることができずに、捨てて逃げた」
女性は先に進んでいた夫に再会し、「長男が焼夷弾でやられて倒れているのを、どうしても助けることができずに、捨てて逃げてきた」と言うと、「そうしなければ、みんな焼け死んでしまったから仕方がなかったんだ」と励まされた。
結局、長男は焼死、同じく火傷した次男も病院に運ばれたが死亡、次女も火傷から破傷風を起こして死亡、長女が連れて逃げた四男も頭を強く打って死亡した。
「七人の子のうち四人までを空襲で奪われてしまいました。
ある人が私に『子どもを何人も亡くして、よう生きのびられてきた』と申しましたが、私には一歳の乳飲み子を含めて、三人の子がいますもの、この子らのためにも生きていかねばならない――こう思うて、苦しいこともじいーっとガマンして、今日まで生きて参りましたんです」
『ここも戦場だった 145人が語る高知大空襲』(高知新聞社)
■朝ドラで描かれる空襲の場面が、戦争の恐ろしさを実感させる
この女性のように、この夜、高知で子どもを失った母親はたくさんいた。焼夷弾の雨で街全体が火事になったので、市民の多くは中心部を流れる鏡川に逃げ込んだが、川の中にもB29が容赦なく「1メートルごとに」焼夷弾を降らせたという証言がある。
NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)のほとんどは女性が主人公なので、戦争は兵隊として戦地に赴いた男性より、本土に残った女性の視点から空襲の場面で描かれる。
近年の作品だけでも「カムカムエヴリバディ」では岡山の空襲、「ごちそうさん」では大阪大空襲、現在再放送中の「とと姉ちゃん」では東京の空襲など。高知の空襲はそれらに比べれば、死者401人と小規模かもしれないが、その401の死ひとつひとつについて家族の尽きない悲しみがあったことを改めて思い知らされる。
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村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。
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(ライター 村瀬 まりも)
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