私たちが当たり前に使っている数字はどのように発明されたのか。数学史ライターのFukusukeさんは「ローマ数字は中世ヨーロッパの商人でも扱いにくかった。
筆算ができず、計算の過程も残らない。その不便さを解決するために、イスラームの学問からアラビア数字をもたらしたのが数学者フィボナッチだ」という――。
※本稿は、Fukusuke『教養としての数学史』(かんき出版)の一部を再編集したものです。
■「アラビア数字」はインド生まれ
0、1、2、3、4、5、6、7、8、9の10種類の数字と、位取りの考え方。
今では当たり前のように使われるこの数字を「アラビア数字」という。この数字の発明により、どんなに大きな数でも表すことができるようになった。
また、数の大小比較や筆算を行いやすいという点も大きな特長だ。
アラビア数字は7世紀にインドで完成されたもので、アラビアを経由して13世紀にヨーロッパへ伝わった。そのことから「インド・アラビア数字」と呼ばれることもある。
この画期的な数字がヨーロッパで使われるようになった背景には、貿易が活発化していた時代の、ある数学者の存在があった。
舞台は中世のイタリア
1096年に始まった十字軍の遠征により、地中海地域はイタリアを中心に貿易が活発化した。特に、ヴェネツィアやジェノバ、ピサなどの沿岸都市は富を蓄え、大きな経済力を持つようになる。

やがて商取引は地中海地域に留まらず、徐々にヨーロッパ全体に広がっていく。「信用貸し」「貨幣交換」「小切手の支払い」「簿記」など、これまでにない複雑な取引や記帳法が誕生した。
商取引が活発化し、それに関わる手続きの種類が増えるほど、商人たちが抱える悩みも大きくなっていく。その最たる例が数表記や煩雑な計算だった。
■「ローマ数字」が抱える商売上の欠点
当時の商人たちが使っていたのは、アルキメデスの時代以降、ローマの領土拡大とともに広まった「ローマ数字」だ。表記のしかたは図表1の通りだが、ローマ数字を見て瞬時にどのくらいの大きさの数なのかを理解するのは難しい。
また、ローマ数字での計算のしづらさも商人たちを悩ませた。次の依頼状(図表2)を見てほしい。
この計算をアラビア数字で現在の表記法に直すと次のようになる。
324 × 539
実は、この計算は今でいう小学校の算数の問題だ。紙と鉛筆さえあれば、筆算によって答えは出せる。しかし、ローマ数字では筆算ができないため、「アバクス」と呼ばれる、ボードの上に小石を並べた道具で計算を行っていた。
アバクスは計算こそできるものの、計算の過程が残らないという欠点があり、信用第一の商取引にとって致命的であった。
■数字革命の始まりは教育熱心な父親
国どうしの交易が盛んになり、大きな数が頻繁に扱われるようになった12世紀以降では、もっと書きやすくて読みやすい数字を商人たちは求めるようになる。
このような世の中の潮流をいち早く察知し、商取引に革命をもたらした数学者がいた。それがフィボナッチという人物である。
フィボナッチの父親は、北アフリカのブジアで大きな貿易取引所を営んでいた。父は息子に仕事を手助けしてもらうため、イスラームの教師に計算とアラビア語の指導を頼んでいた。
当時、ヨーロッパよりもイスラームのほうが、学問が盛んだったからだ。
フィボナッチがイスラームの教師から最先端の数学を学べたことは、ヨーロッパの人々に影響を与えるきっかけになった。
アラビア数字による計算方法を理解したフィボナッチは、父に同行してエジプトやシリア、シチリア島、南フランスなどを巡り、見聞を広めた。
フィボナッチは父の商取引を眺めるうちにアラビア数字の利便性を確信する。1200年にイタリアへ帰還したフィボナッチは、ヨーロッパの商人たちにアラビア数字を広めることを決意した。
■中世ヨーロッパ向け「アラビア数字の教科書」
フィボナッチの仕事は速かった。

その後のヨーロッパに影響を与えた名著『算盤の書』を、イタリアに帰ってからわずか2年で記した。その書の冒頭では、アラビア数字を次のように評価している。
「インド人の用いた九つの記号とは、9、8、7、6、5、4、3、2、1である。これら九つの記号、そしてアラビア人たちがzephirum(暗号)と呼んだ0という記号を用いれば、いかなる数字も書き表すことができる。」
ここでの「暗号」とは理解されにくいものを意味する言葉として使われていた。
『算盤の書』の第一部では、数の書き表し方や筆算の方法が解説されている。今とは形が違うものの、アバクスなしで掛け算を簡単に行う方法が載っていた。
その他にも整数の四則演算や分数の計算方法など、アラビア数字の使い方を体系立てて細かく説明している。
商取引で悩んでいた商人たちに光が差したのだ。
■13世紀の「通貨の換算」練習問題
特に商人たちの需要を満たしたのは『算盤の書』第二部だ。
第一部で説明したアラビア数字、それをどう活用するかを、商業で使う話題で解説したのである。内容は通貨や寸法の換算、利益や利子の計算などだ。
例えば、通貨の換算に関する問題を一つ解いてみよう。

こういった商取引に関する問題のほか、分数の表し方にもイタリアの通貨制度を反映させたと思われる工夫が凝らされている。
商人たちの間で『算盤の書』を教科書としたアラビア数字での計算方法は瞬く間に広まった。だが、その後、ヨーロッパの商人たちの間でアラビア数字は完全に受容されたわけではなかった。
■アラビア数字が孕む、現代にも通じる欠点
フィボナッチが伝えたアラビア数字は、商人たちに衝撃を与えたものの、「科学の正しさより神への信仰」が優先された中世ヨーロッパでは浸透しきらなかった。
フィレンツェでは1299年から簿記でアラビア数字を使うことが禁止された。
その大きな要因として、印刷技術が発明されていなかったことが挙げられる。
この時代のアラビア数字は、字体が現在のようにはっきりと定まっておらず、書く人によって字体が違ってごまかされるということがあったからだ。
また、0を1つ加えることで位が上がるという簡便さも仇となった。100デナリウスの請求に0を1つ足せば、1000デナリウスの請求にできてしまうからだ。これはローマ数字のときには起こりにくかった。そのため、下書きの計算と検算ではアラビア数字を使い、正式な書類ではローマ数字を使うという過渡期を経ることとなった。
13世紀にフィボナッチがヨーロッパに伝えたアラビア数字。
その利便性が理解され、光が当たるようになったのは、科学の暗黒時代が明けた14~15世紀のルネサンス以降の話である。

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Fukusuke(ふくすけ)

数学史ライター&ブロガー

私立中高一貫校の数学教員。早稲田大学教育学部数学科を卒業し、2017年に同大学教職大学院を修了。数学サイト「Fukusukeの数学めも」を立ち上げ、月間8万PVにまで成長させた。サイトでは数学史をメインに、自身が授業で使用している数学ネタから大学数学の解説まで、幅広いコンテンツを発信している。

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(数学史ライター&ブロガー Fukusuke)
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