■保険適用で日本のお産が危機に晒されるかもしれない
先日、「日本医療政策学会」の第1回学術集会が開催され、「日本の周産期医療の未来」というセッションに登壇しました(※1)。座長は今西洋介先生(小児科医、UCLA所属)。登壇者は、五十嵐隆先生(小児科医、国立成育医療研究センター理事長)、自見はなこ先生(小児科医、参議院議員)、前中隆秀先生(産婦人科医、厚生労働省元医系技官)と私でした。
そこで全員が揃って危惧していたのが、出産費用の保険適用により、妊産婦死亡率も周産期死亡率もトップクラスに低く「世界一安全」といっても過言ではない日本のお産が危険に晒されることになるかもしれないという問題です。
厚労省は、2026年度をめどに標準的な出産費用の自己負担をなくし、原則無償とするための具体的な制度設計を進める方針を示しました。現在は、正常な出産に関しては健康保険が適用されず、出産育児一時金として50万円が支給されていますが、医療機関によってはもっと費用がかかることがあるためとのこと。今回の無償化では、出産を保険診療にしたうえで自己負担分の3割を助成する案が想定されているのです。
※1 Crumii「行政、政治、公衆衛生、臨床医が集い『日本の周産期医療の未来』についてこれまでになく深掘りしてみた」
■多くの産院の経営が成り立たなくなるリスク
「出産費用の保険適用」と聞くと、とてもいいことに思えるかもしれません。ところが、出産が保険診療になると、多くの産科医療機関の経営が成り立たなくなるかもしれないのです。
現在、出産育児一時金制度の下では、全国それぞれの産院や医療機関が出産費用を決めています。しかし、保険診療になれば、診療報酬は全国一律なので、本来は地域ごとに違うはずの地価や家賃、人件費などの経費の差は考慮されなくなります。しかも、診療報酬は2年ごとの改定しかありませんから、いったん金額が決定してしまえば、いくら物価が上がったり経費が上がったりしても、病院の収入を増やすことはできなくなるのです。
ちなみに、出産育児一時金は、これまで物価の上昇に合わせて何度も増額されてきましたが、同時に産科医療機関の分娩費用も値上がりしてきました。物価が上昇すれば経費も増えるため当然ですが、このことが政治家やメディアなどから「医療機関による便乗値上げ」だと不当に批判されたという経緯があります。だからこそ今回は「産院が勝手に値上げできないように」保険適用にして国が分娩費用を統制しようとしているようです。
■少子化と物価高で出産費用の値上げは不可避
しかし、少子化が進む今の日本では、分娩数自体があまりにも急激に減っています。出生数は、昭和24(1949)年の第1次ベビーブーム時は269万人、昭和46(1971)年の第2次ベビーブーム時は209万人だったのに、2016年には100万人を割り込み、現在ではなんと70万人を割り込みました。予想以上のスピードで少子化が進んでいるのです。
基本的に産院の収入は「出生数×単価」で成り立っているため、出生数が減った現在では、すでに経営が大変だという施設も少なくありません。昔、大ヒットした『白い巨塔』という医療ドラマには、非常に裕福な個人産院の経営者が登場しましたが、それは赤ちゃんがたくさん生まれていた1960年代に書かれたものだからなのです。今では、なかなかあり得ないことでしょう。
現在の少子化かつ物価高に対応するには、出産費用の値上げは確実に必要です。ところが、保険診療となれば自由な価格設定はできず、結果として赤字がかさみ、分娩の取り扱いをやめざるを得ない施設が増えることが予想されます。
■分娩施設の集約化は国が計画的に行うべき
欧米では大きなバースセンターで出産することが多いのに対し、日本では各地域に点在する病院の産科、個人産院での出産が多いというのが特徴です。それに加えて、地域周産期医療センター(296カ所)と総合周産期医療センター(112カ所)がハイリスク症例に対応する体制になっています。
しかし、中小の産院は、少子化、医師の高齢化や人手不足などにより減ってきているという現状があります。ですから、限りある医療資源を有効活用するには、欧米のように各地域に大人数が入院・出産できる「バースセンター」を作り、集約化することが必要です。
ところが日本では、いまだに国や厚労省が主導して分娩施設の集約化を進める動きがありません。このままでは、自然と各地域の産科施設が少しずつなくなり、結果的に妊産婦の受け入れ先がなくなり、自宅から遠いところで産まなくてはいけなくなるケースが出てくるため、大変危険だといえます。
前述の学会のセッションで紹介された「フランスにおける周産期の計画的集約化」についての研究によると、自宅から病院まで30分以上かかると新生児に有害事象が増えるとのこと。つまり、分娩施設が減っていく場合には、計画的に集約化していく必要性があると指摘されました。そうして集約化したのち、もともとあった分娩施設で産後ケアを行うなどのアイデアも示されました。
■保険適用で自己負担額が増す可能性がある
なお、出産が保険適用になると、妊産婦さんにもコスト面でのデメリットが生じるかもしれません。保険適用というと「イコール無償」だと思われがちですが、普段の受診と同じように、保険診療では3割の自己負担分が残ってしまいます。
つまり、これらの是非は別として、現在さまざまな産院で提供されている華やかな「お祝い膳」の食事などのサービスはすべて自己負担になるということです。また、小さな産院には個室も多いですが、個室料も基本的に全額自己負担になります。無痛分娩も、保険適用が認められなければ自己負担になるのです。
そもそも、出産費用が高いのは主に東京など都市部にある一部の豪華な産院だけでしょう。他の地域では50万円の一時金でお釣りがくるところもたくさんあります。ところが、保険診療になれば、お釣りがくるどころか、むしろ現在よりも妊産婦さんの自己負担額が増すというのも懸念のひとつです。
■「最低限のお産」になるかもしれない
一部には出産の保険点数が高めに設定される可能性もあるのではという意見もあります。でも、現時点での情報を総合すると、おそらく5万点(50万円)前後という予想ラインから大きく外れることはなさそうです。
現在は妊産婦さんが快適に過ごせるようなサービスが行われている医療機関も多いですが、保険適用となればコスト削減が最重要課題となり、それらは次第に削られていくでしょう。また、医療機関では病床のうち個室代を算定できるのは最大でも半数までと決まっているので、大部屋しか選べなくなったり、産後すぐに退院を求められたりして、諸外国のような「最低限のお産」に近づいていくかもしれません。
こうした状況に、日本産婦人科医会も懸念を示しています(※2)。
※2 「正常分娩」の保険化に対する日本産婦人科医会の考え方
■もっとも大切なのは母と子の安全
私のクリニックでは分娩を扱っていないため、直接の利害はありません。それでも、こうして声を上げている理由は、ただひとつ。こうした無理のある制度変更によって、地域の分娩施設がなくなったり、医療体制が薄くなって安全性が損なわれ、出産において母子の命が失われる不幸な事故が起きてほしくないからです。
現在、日本は「世界一安全なお産ができる国」です。でも、それは当たり前のことではなく、産婦人科はもちろん他の診療科を含めて、多くの医療従事者による不断の努力、献身的な労働、そして出産育児一時金によって支えられています。
ですから、出産無償化においては、国が物価や出生数などから根拠のある数字を算出したうえで十分な「出産育児一時金」を出すべきだと私は考えます。また、出生数減少にともない大小さまざまな産科医療機関が「自然淘汰」されることで妊産婦が危険に晒されないよう、国が率先して緩やかな「バースセンター化」などの方向性で安全性を確保しつつ、医療提供体制を維持していくべきだと思います。
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宋 美玄(そん・みひょん)
産婦人科医、医学博士
大阪大学医学部卒業後、同大学産婦人科に入局。周産期医療を中心に産婦人科医療に携わる。
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(産婦人科医、医学博士 宋 美玄 聞き手・構成=大西まお)