映画の中には、主人公の余命をあらかじめ知らせる作品がある。ネタバレしてもなぜ平気なのか。
関西大学文学部心理学専修の石津智大教授は「今の若者たちが『ネタバレ』を好む背景には、コストパフォーマンス・タイムパフォーマンスを良くしたいという価値観がある」という――。
※石津智大『泣ける消費 人はモノではなく「感情」を買っている』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■若者が「余命もの」に魅力を感じる理由
最近、若者のあいだで「余命もの」と呼ばれる泣ける映画や小説が再び注目を集めています。
「余命もの」とは「余命○カ月」といった言葉で主人公の死がタイトルや冒頭で明かされているような作品群のことです。その多くは、主人公が病気などによって人生の終わりを意識しながら、残された時間を懸命に生きる姿を描いています。
こうした物語は、観る前からある程度展開の予測がついています。
「たぶん死んでしまう」「きっと泣かせにくる」
それなのに、わたしたちはなぜか、それを見届けたくなるのです。
なぜ「結末がわかっている」にもかかわらず、人は感動し、満足することができるのでしょうか? 実はこの「予測がつく」という構造こそが、強い満足感を生み出す鍵になっているのです。
この章では、「なぜ予測できる展開でも心は動くのか?」「どうすれば感情的に満たされる体験を作れるのか?」を解き明かしていきます。
■「壮大な出オチ」でも楽しめる
「出オチ」という言葉があります。お笑いなどで、芸人さんが出てきた瞬間に笑いが起こり、それがピークとなってしまうことを指すようです。
それでいうと、「余命もの」と呼ばれる作品群は「壮大な出オチ」だという見方もできます。

なにしろ「主人公か、主人公の親しい相手が死ぬ」というストーリーの主要な部分が、タイトルで明らかにされているのですから。「余命もの」はタイトルを見ただけで「この作品では誰かが亡くなるという悲劇が起こる」ということがあらかじめわかります。
なぜわざわざ結末がわかっているのに楽しもうとする(もしくは楽しめそうと思う)のでしょうか?
このことと、映画やドラマを観る前、小説や漫画を読む前に結末を知りたがる「ネタバレ消費」を好む人が増えたこととは、無関係ではないでしょう。
話題の映画やドラマをすでに観た人が、まだ観ていない人に結末を知らせてしまう。このようなことをする人を英語でspoiler(スポイラー)と呼びます。spoil(スポイル)とは「ダメにする」という意味ですから、楽しみを台無しにする人、といった意味です。
人はネタバレをされると、作品を味わっている最中の感情の起伏が少なくなることがわかっています。つまり、ハラハラドキドキが減る。ある意味、当然の結果です。
■“泣けるのか事前に確認したい”若者たち
しかし、今やそれを作品の価値を「ダメにするもの」どころか「ちゃんと楽しむための準備」として捉える人が増えているのです。
その理由の一つは、今の若者たちが重視する、コストパフォーマンス・タイムパフォーマンスを良くしたいという価値観でしょう。
結末が納得いくものでないと、そこまでの時間もすべて「無駄だった」と感じてしまう。
だから「時間を費やしたことがちゃんと報われるエンディングなのか?」を事前に確認し、安心して時間を投資したいと思うのでしょう。わたしが教える学生でも、小説を最後のページから読む人が少なくないようです。
さらに、「結末を知った上で観るほうが内容に集中できる」という声もあります。心理学的にも「ネタバレによって内容の理解が深まる」という実験結果がいくつか報告されています。
しかしそれだけでなく、現代人に特有のもう一つの理由もあるように思います。それが「心の準備をしてから楽しみたい」という理由です。
■グロテスクな描写も「予告」がほしい
最近、小説の帯に、「ラストに大どんでん返し!」とネタバレが書いてあるのを見かけました。どんでん返しがあるとわかっていては、ストーリーの楽しみが減ってしまうのではないかと思いませんか?
でも事実帯に書いてあるということは、「そうなんだ、じゃあ読んでみよう」と手に取る人が多いということでしょう。
これが意味することは、ネタバレされているほうが安心して読める。つまりフィクションの世界の出来事からさえも安全な距離をとりたいという警戒心を感じます。裏を返せば、最終的な結論がわからないまま読み進めていくのは、緊張に耐えられないのです。
Netflixのオリジナルドラマ『地面師たち』が流行っていたころ、こんなことを言っている人がいました。

「話題の『地面師たち』が観たい。でも、どうやらグロテスクな描写や暴力的なシーンが多いらしくて、怖くて観られない。観るなら、5秒前に今からグロが来ますよ、と教えてほしい。心構えができるから」
どうやら、虚構であったとしてもショックを受けたくないという気持ちが強いようです。
■死も別れも、昔はもっと生活のそばにあった
現代日本では「死」というものにフタをして、触れずに済むようにしています。看取りも、亡くなったときの処置も病院が全部やってくれて、棺に納めたあとのことも葬儀会社に全部任せられる。そのことが生と死を必要以上に断絶してしまっているように、わたしは思います。
でも、かつては自宅で看取ることが多かったし、湯灌(ゆかん)(遺体をお湯で洗い清めること)なども家族が行うものでした。
死はもっと生活のそばにあったのです。それは「別れ」もよく似ています。
わたしは合計で10年あまり、ロンドンにいました。ロンドンというのは「常に人が来る街であり、出ていく街でもある」と言われています。
留学・研究・駐在などで人の出入りが激しくて、新しく来た人と友達になっても、2~3年でどこかに行ってしまう。
そうすると、フェアウェル(さよなら)パーティーが頻繁に開かれる。わたしもそのパーティーに何回も出ました。
フェアウェルパーティーでは最後に必ず“Keep in touch!”(連絡を取り合おうね)と言うのが決まり文句になっています。徐々に連絡の間隔が空いていくだろうということはお互いにわかっている。それでも決まり文句としてそう言うのです。
あるとき、チリから来ていた友人が本国に帰ることになり、フェアウェルパーティーをしました。チリはすごく遠く、その人がチリに帰ってしまえば、たぶんこの先一生会わない。いわば「今生(こんじょう)の別れ」です。
ところが現代では、別れて3日後に連絡が来る。当時はSkypeしかなかったけれど、Skypeでピコンと通知が来るのです。後ろにダンボール箱の積みあがった部屋から「着いたよ」と連絡が来る。

■デジタル時代が奪った「別れの感情」
「ああ、すごいな、いい時代になったな」と思います。遠く離れても、いつでも連絡がとれて顔が見られることは素晴らしい。素晴らしいけれど、一方でわたしには何かを失っているように思えてなりません。
それは別れに対する心の準備ができなくなっているということではないでしょうか。
今生の別れを受け止めることは、人生においてすごく大事なことです。どちらかが亡くなる生死の別れではなく、お互いに生きているけれどもう一生会えない。そんな別れにも深い情感が伴うはずです。悲しみが深ければ深いほど、その人と過ごした数年間が素晴らしかったということでもある。
今はさまざまなツールで、遠く離れた人とも半ば現実かのようにコミュニケーションを取れるようになりました。そういうツールは便利だけれども、別れのような、人生における悲しい出来事が起きなくなっていく。
それが人間の不幸への免疫力を弱めているかもしれません。
なぜなら、別れを経験できる機会が少なくなると、肉親の死のような究極的な別れを、その瞬間が来ていきなり味わうことになります。

どんな人であれ、自分も死ぬし、近しい人も亡くなります。それまでいくら無傷で生きていようが、必ず死ぬ。その避けられない別れに対して、準備ができないまま臨むのは、想像以上に大きな心の負担となるでしょう。
■シラーが語った「悲劇の予行練習」効果
現在のデジタル/バーチャルネイティブの人たちが、いざ死に面したときの衝撃は、上の世代よりも強いのかもしれません。先に紹介したように、哲学者シラーは「悲劇は、現実の悲しみに対峙する力を養うための予行練習としてある」と言いました。
シラーの時代は、前もって心を守った状態で悲嘆と対峙できるのが、悲劇の価値の一つでした。
それに比べれば、現代の日本社会は比較的安全で、身の危険を感じることは少ないです。
そうすると悲劇という虚構の不幸ですら、真に迫って感じられてしまって、心の痛みを感じるのだと思います。だから「この作品ではこの程度の不幸が起きるよ」と前もって明らかにしてもらうことで、その痛みから心を守ることができる。
タイトルに「余命」と書いてあれば「ああ、この登場人物は死ぬんだ」という心の準備をしてから観始められる。
いわば不幸に対して二重の予防線を張っているのです。フィクションの中の死すらも重たくて、「死ぬよ、死ぬよ、死ぬからね」と言われながら観ていくことで、「そうか、死ぬんだな」という心構えをしているのかもしれません。
■医療技術が生んだ「余命」というジャンル
そもそも余命ものというジャンルが可能になった理由として、医療技術の発展があると考えられます。それまでは正確な余命がわからなかった。しかし医療が発達して「これくらいの病状なら、あと何カ月」というように予測が可能になりました。
人生の残りの時間を物差しで測れるようになり、それで生まれた泣ける消費の一ジャンルが「余命もの」だと言えます。
現代の「余命もの」には、ある共通点があります。それは、死を迎えるのがたいてい若者であるということです。10代、20代、せいぜい30代、つまり「まだ生きられるはずの人」が、若くして亡くなる。
昔ならば、若者の死はもっと日常的なものでした。結核のような感染症も多く、医療の限界もありました。けれど現代では、若者の死は「起きにくいこと」になりつつあります。
だからこそ若者が天寿を全うできない状況は涙を誘うし、それがカウントダウンの形で明確に表現できるようになったからこそ、「余命」というジャンルは生まれたと言えるでしょう。
■「老い」よりも「死」に感情移入する若者たち
さらに興味深いことに、先日、ある学会でシニアの研究者の方とお話ししていて、面白い話を聞きました。その方が行った若者調査で、「若者でも死は意識できる。だけれど、老いというものが想像できない」と明らかになったそうです。
たしかに「余命もの」の物語にはあまり「老い」が出てきません。誰かが老衰で亡くなる話ではなく、まだ若く、夢も恋も希望もある人物が突然「死」と向き合う。そこにこそ、人は涙します。
おそらく、若者たちは「死」と「老い」を別のものとして捉えているのです。そして、「老いて死ぬ」というリアルな死ではなく、「若いまま死ぬ」という「物語的な死」だからこそ、美しく思えて、感情移入できる。
余命ものの世界は、予告やカウントダウン、「若いまま死ぬ」という演出を使うことで、究極の別れである「死」を美しく感情移入できる物語に変えているのかもしれません。

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石津 智大(いしづ・ともひろ)

関西大学文学部心理学専修教授

専門は「神経美学」。慶應義塾大学大学院心理学専攻を修了後、ウィーン大学心理学部研究員・客員講師、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ生命科学部上級研究員などを経て現職。アートや広告、映画など、人の心を揺さぶる表現や体験を脳科学の手法を用いて分析し、「なぜ人は涙を流すのか」「なぜほしくなるのか」といった、感情のメカニズムを明らかにしてきた。脳の働きと心の動きをつなぐ研究は、マーケティングや商品開発の現場から注目を集めている。著書は『神経美学 美と芸術の脳科学』(共立出版)など。

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(関西大学文学部心理学専修教授 石津 智大)
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