※本稿は、車田和寿『涙がでるほど心が震える すばらしいクラシック音楽』(あさま社)の一部を再編集したものです。
■日本にいる「小川さん」と同じ姓
バッハとは日本語に訳すと「小川」という意味で、日本にいる小川さんと同じ姓です。音楽一族に生まれたバッハは、父、祖父はもちろん、親せきもほとんどが音楽家でした。そしてバッハは家族から、音楽の手ほどきを受けて育つのです。さらに音楽と同時に神学の教育を受けたことは、バッハという人間に大きな影響を与えました。
バッハ博物館では、彼が所蔵していた約80冊の神学書コレクション(レプリカ)を見ることができます。80冊というと読書愛好家にとっては大した数ではないかもしれませんが、当時、本とは貴重なものでした。しかも、一冊の厚さが10センチ以上に及ぶ分厚い神学書をコレクションしていたのです。アイゼナハ(バッハが生まれた街)という土壌が、後に「音楽の父」と呼ばれるバッハの人生にどれだけの影響を与えたかよく分かります。
しかし、バッハがアイゼナハに住んだのはそれほど長くはありませんでした。10歳になる頃に両親を失ってしまったためです。
バッハの生きていた時代が比較的古いこともあり、人間像に迫るエピソードは多く残されていません。数少ないエピソードの一つが次のようなものです。
■22歳で結婚、教育熱心な父親になる
兄のヨハン・クリストフは、当時入手が困難だった楽譜を、柵の付いた本棚に大事にしまっていました。子供だったバッハにも触れることを一切禁じていたようです。しかし、バッハの音楽に対する情熱は当時からかなりのもので、部屋にこっそり忍び込んでは、月明かりで楽譜を筆写していたというのです。ついには兄に見つかってしまい、バッハはこっぴどく怒られたと想像できますが、二人の関係が悪化することはなかったようです。二人の関係は兄が亡くなるまで良好だったことが知られています。バッハはこのように熱心に勉強して、一人前の音楽家へと成長していきます。
バッハは22歳になると、マリア・バルバラという女性と結婚し、そこから7人の子供をもうけます。
バッハが兄や親せきから音楽の手ほどきを受けたことにはすでに触れましたが、自らも熱心な教育者へと成長します。
■より良い待遇を求めて転職を繰り返す
実は幼い頃に両親を亡くしてしまったバッハは、大学に通うことができませんでした。当時、音楽家の社会的な地位は決して高いものではなく、貴族社会で対等に渡り合うためには、法律などの高度な教育を受けている必要があったのです。それがなかったバッハは、時に悔しい思いもしたのでしょう。自分の子供たちにはそのような経験をさせたくない、と息子の教育に熱を入れたと想像するのは難しくありません。
バッハはより良い待遇を求めて、次から次へと転職を繰り返す人生を歩むことになります。
当時の音楽家の主な就職先と言えば、教会か宮廷でした。教会に就職すると、オルガニストを務めることが一般的です。オルガンはどんなに小さな街の教会にも必ずと言っていいほど置いてあり、毎週行われる礼拝でオルガンを弾く人材が必要とされていたからです。大きな教会では、小編成のオーケストラや合唱団を用いて礼拝用の音楽を作曲する人材も求められました。そこで作られる音楽は、ほとんどが宗教作品です。
一方、宮廷の楽団に就職すると、求められる音楽はがらりと変わります。演奏されるのは、器楽曲が中心で、心地のよい室内楽風の音楽が主でした。ヴァイオリンなどの楽団員であれば演奏が仕事になりますが、宮廷楽長ともなると、楽団のために新しい曲を作ることも求められました。
■転職をちらつかせた駆け引きで給与を1.5倍に
バッハはマリア・バルバラと結婚した翌年、さらなる待遇を求めてヴァイマールという街の宮廷オルガニスト兼宮廷楽師の職を得ることに成功します。彼の周りには、親せきの子や弟子たちも出入りするようになっていました。生活を維持するには、まとまったお金が必要です。そのため、少しでも良い条件の仕事を求めていました。ヴァイマールでは、お金にこだわる面が垣間見えるエピソードがありますので、紹介しましょう。
バッハのヴァイマールでの給与は、以前と比べると倍近い金額(85~150フローリン)でしたが、彼はその待遇にそれほど満足していませんでした。するとちょうどその頃、ヘンデルが生まれたハレという街のオルガニストが空席となり、教会の牧師から強く誘われることとなったのです。ハレのオルガンはヴァイマールのものよりも2倍近く大きく、音楽家としては魅力あるオファーです。
バッハは無事に試験に合格し、採用が決まります。
しかし、提示された待遇は想像していたほど良いものではありませんでした。バッハはここで、ハレに給与の増額を打診します。が、残念なことに、断られてしまいます。すると今度は、雇い主であるヴァイマールの公爵に対して、転職をちらつかせながら、昇給を掛け合ってみるのです。
実際にどのような駆け引きがあったかは想像するしかありません。が、これがうまくいき、あっさりと楽師長(楽長、副楽長に次ぐポスト)へと昇格、給与も約1.5倍となったのです。
■公爵の機嫌を損ねて刑務所へ
バッハの転職にまつわるエピソードはもう一つあります。
ヴァイマールの楽師長に就任したバッハでしたが、それでも満足していませんでした。狙うのであればやはりトップである宮廷楽長です。そんなバッハの耳に、ある噂が舞い込んできます。雇い主である公爵が、楽長として自分ではなくテレマンを狙っているというのです。
バッハは今でこそ大作曲家として知られていますが、当時の評価はヘンデルやテレマンと比べて、決して高いものではありませんでした。
結局のところ、この噂を耳にした彼は、ヴァイマールに見切りをつけて、別の街で楽長の可能性を探ります。その結果、ケーテンという街の楽長の仕事を見つけ、すぐに辞職を願い出ます。
しかし、公爵はこれが気に入らなかったようです。
おそらくバッハはかなり強気で頑固者だったのでしょう。公爵がなかなか辞職を認めてくれない中、強気に辞職を要求し続けたのです。その結果、どうなってしまったか……。なんと公爵の機嫌を完全にそこねて、約1カ月、刑務所に入れられてしまうのです。
■妻を亡くしシングルファーザーに
バッハは刑務所に入った後、正式に解任され、晴れてケーテンで宮廷楽長に就任します。
宮廷楽長としての主な仕事は、豪華な宮廷にふさわしい音楽を作ることでした。
この地では、「ブランデンブルク協奏曲」「管弦楽組曲」「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」といった数多くの器楽作品の傑作が誕生します。
30代に突入し、作曲家としての成熟さが見られるようになるのがこの時期です。
しかし、そんなバッハにも大きな別れが待っていました。
妻のマリア・バルバラを亡くしてしまうのです。これによってバッハは、小さな子供たちの面倒を一人で見なければならなくなってしまいます。
■子供20人のうち成人できたのは10人だけ
幸いなことに、シングルファーザーの時期は長くありませんでした。その翌年、2番目の妻となるアンナ・マグダレーナと結婚します。彼女はバッハと同じくケーテンの宮廷で歌手を務めていました。彼女は結婚後、彼の仕事を大いに助けます。二人の間には13人もの子供が誕生し、バッハ家はますますにぎやかなものになっていくのです。
しかし、そんなにぎやかさの裏に、身近な人の死があったことは考えておきたいところです。当時、子供を幼いうちに亡くすということは決して少なくありませんでした。バッハの子も成人したのは、20人のうち10人だけだったのです。
彼は幼いうちに両親を亡くし、30代で妻を、そして10人もの子供を亡くしています。そのような悲しみからの救いを、おそらく神に求めたのでしょう。現代のように医療が発展していない時代ですから、親にできることと言えば、神に祈ることぐらいだったのではないでしょうか。
バッハはここから多くの宗教音楽を作ることになります。悲しみや救い、癒し、祈りといったことが音楽の大きなテーマとなっていくのです。
----------
車田 和寿(くるまだ・かづひさ)
声楽家
福島県出身。福島県立安積高等学校卒業。国立音楽大学声楽科卒業。東京都立高等学校音楽科教諭として4年間勤務した後、渡独。ブレーメン芸術大学声楽科を最優秀の成績で卒業。在学中にキール歌劇場においてオペラ歌手デビューを果たし、以後ハンブルク州立劇場、ヒルデスハイム歌劇場、レーゲンスブルク歌劇場、ザクセン州立歌劇場(ドレスデン)、ザクセン国立劇場(ラーデボイル)など、ドイツ国内外の歌劇場において数多くのオペラにソリストとして出演する。2015年にはオリバー・コルテ作曲「コペルニクス」の世界初演において主役のコペルニクス役を務めた。 また演奏活動の傍らヨーロッパの伝統的な歌唱法とその指導法を長年に渡り研究。近年は車田和寿オペラ声楽アカデミーを主宰し、国内外で後進の指導にあたる。 2021年からはクラシック音楽や声楽について解説するYouTubeチャンネル「車田和寿‐音楽に寄せて」、「車田和寿‐歌の翼に」を開設。チャンネル登録者数は合計で14万人を超えており(2025年1月)、幅広い層に音楽の魅力を伝える役割を果たしている。
----------
(声楽家 車田 和寿)