太平洋戦争では戦局が悪化する中、旧日本軍の兵士たちが次々と「玉砕」していった。なぜこんな悲劇が起きたのか。
ノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 上』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第1回/全4回)
■優等生だが、実戦経験は乏しかった
太平洋戦争時に陸軍の指導部に列した軍人は、だいたいが明治10年代中期から20年代後期にかけての生まれである。
彼らにはいくつかの共通点があった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。つまり成績至上主義のこのような機関で相応の成績をあげていた。さらに彼らには、実戦体験が希薄であった。
この世代は、明治37年、38年(1904、05年)の日露戦争時には陸軍士官学校の生徒であったり、あるいはまだ陸軍幼年学校の生徒にすぎなかった。中隊長として参戦した者はあったが、それは実戦を指揮するという立場ではなかった。
■長州閥による支配体制が終焉
さらにこの世代は、日本陸軍の建軍以来の軍人養成システム、精神的規範、戦略・戦術指導が生みだした軍人という側面をもっていた。つまり近代日本の富国強兵策の忠実な申し子といえた。独創的な識見とか歴史的先見性をもつというより、与えられた枠内で考え、行動するという域をでなかったのである。
ただしこれは重要なことであるが、日本陸軍内部を支配していた長州閥が彼らの力によって打破されたという役割を果たしている。

元勲の山県有朋が大正11年(1922年)に病死するまで、陸軍内部は長州出身者が主導権をもっていた。陸大の試験答案に「山口県出身者である」と書けば、何点かが加点されたという噂まで飛んでいたし、山県の後押しだけで将官になり、軍内では「長州の三奸」と評されていた軍人も大正時代中期には存在していたのである。
■戦争に勝ったドイツ陸軍の背中を追う
太平洋戦争を担った軍事指導者の共通点のもう一点は、親ドイツ、反英米、という考えに固まっていたことである。
もともと日本陸軍はフランス陸軍を模倣して建軍された。だが普仏戦争(1870~71年)によってフランス軍が敗退すると、今度はドイツ陸軍を真似た。明治10年代にはドイツ陸軍の軍人が日本に招かれ、陸大においてドイツ型の軍事教育や精神教育を行ったのである。
さらに陸軍幼年学校では、ドイツ語、ロシア語などが中心になり、英語教育はまったく軽視された。英語教育は一般中学から陸軍士官学校に進む者だけが受けていた。そのために親英米の感情をもつ者は極端に少なく、加えて一般中学出身者はつねに要職から外されることになったのである。
■「兵士=戦時消耗品」と考える指導者
さらにもう一点加えるなら、昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、倫理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站(へいたん)思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。
意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
昭和陸軍崩壊の因となった太平洋戦争は、これまで述べてきたような指導者の体質や戦略によって担われてきた。そこには崩壊して当然といった組織体系、人間思想、戦争観が宿っていたともいえる。
たとえば、太平洋戦争の3年8カ月のうち2年8カ月の期間、首相、陸相、ときに参謀総長も兼ねて戦時指導にあたった東條英機は、このような共通点をもっともよく代表していた。東條の前任者である参謀総長の杉山元も、日露戦争に下級将校として従軍した体験はもっていても、ほぼこの共通点の枠内にあった軍人である。
■エリート候補生たちが学んだ一冊の教科書
陸軍大学校は、定員がほぼ50人、陸軍士官学校を卒業して隊付勤務を終えたあと連隊長の推薦などによって受験資格を得ることができる。陸軍士官学校の卒業生は毎年400人(平均)、そのうち、任官2年以上の将校に30歳前の2年間だけ受験資格が与えられる。そのなかから50人が選抜されるわけだから、たしかに成績は優秀といえる。
陸大卒業生というだけで、もう陸軍内部のエリートとしての切符を手に入れたも同然なのに、上位1割以内の成績優秀者(軍刀組)の枠に入るのはさらに至難の業だった。そういう成績優秀者が指導部に入って、軍内の行政を担い、作戦計画を練った。成績至上主義の組織内でどのような教育が行われていたかを裏づける例を次に検証してみよう。
昭和7年(1932年)7月に、陸大幹事(注・副校長のこと)で陸軍少将の今井清の名で、『統帥参考』という大部の書がだされている。
陸大で学ぶ学生(中尉が多かった)に用いる資料で、当時は一般には公開されていなかった。
■天皇の大権のもとにある“神の軍隊”
この資料の巻頭には「本書は統帥に関する識量を養ふ資に供するため当校において統帥の諸原則を汎(あまね)く戦史を観察し普遍的に攻究編纂したるものとす」とあるように、いずれは戦争指導にあたる青年将校に、どのような考えをもってあたるべきかを説いたものであった。
第一章は「統帥権」となっていて、その第一項は、次のようにある。
「帝国の軍隊は皇軍にして、その統帥指揮は悉(ことごと)く統帥権の直接又は間接の発動に基づき、天皇の御親裁により実行し或はその御委任の範囲において、各統帥機関の裁量により実行せしめらるるものとす」
日本陸軍は「皇軍」と断定している点がきわめて注目される。すめらぎの軍隊という規定は、その存在が“神の軍隊”であるといっているわけで、近代市民社会のなかで社会的、政治的機能を果たす一組織という了解からは大きく外れている。
諸外国の軍隊とはむしろ異なっているという点が強調され、それに誇りをもつよう意味づけられている。そして皇軍の指揮は、すべて天皇の大権のもとに収斂(しゅうれん)されるべきであるといっている。
■「軍人の行動には誰にも口を挟ませない」
大日本帝国憲法の第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」などがその根拠とされ、陸海軍は天皇の大権のもとに帰一して、統帥権は統治権より上位にあるとの主張になっていた。
第一章の第二項、第三項でこのことを明確に謳(うた)うのだが、とくに第三項では、「統帥権の行使及びその結果に関しては議会において責任を負はず、議会は軍の統帥指揮並びに之が結果に関し質問を提起し、弁明を求め、又はこれを糾弾し、論難するの権利を有せず」と決めつけている。
つまり陸軍の軍事行動、軍事作戦、その戦闘報告などのすべては、議会とは関係がなく、議会からの批判、疑問、それに報告要請にさえ応じる必要はないというのであった。文民支配を拒否するとの意味で、解説文のなかには「我が国における憲法学者の大部は、統帥権独立制に対する擁護又は承認論者にして、異説をなす者は比較的少数なり」という一節もある。
この『統帥参考』は、陸大のなかで行われた教育がどのようなものかをはっきりと位置づけている。
軍人こそが大日本帝国の主たる役目を果たす存在であり、その軍人の行動には他のどの集団の誰もが口を挟むことはできないというのであった。
この資料はむろん軍外には公表されなかった。もしこの内容が明らかになれば、議会人や言論人からも批判がでたであろうが、昭和8年、9年と時代がすすんでいくにつれ、たとえ公表されたとしてもそのような批判がしだいに圧殺されていったであろうことは容易に推測されるのである。
※登場人物の年齢、肩書きなどは著者の取材当時のものです。

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保阪 正康(ほさか・まさやす)

ノンフィクション作家

1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。

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(ノンフィクション作家 保阪 正康)
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