■旧陸軍の内部抗争が、歴史の転換点に
昭和11年(1936年)2月26日の、いわゆる2・26事件は、陸軍内部で国家改造運動をすすめていた青年将校たちが起こしたクーデター未遂事件である。20人余の青年将校と彼らに指揮された下士官・兵千500人が参加するという大がかりなものであった。
近代日本の陸軍史をひもといて、これほど大規模なクーデター未遂事件はない。明治11年(1878年)の竹橋騒動(近衛師団の兵士が西南の役の論功行賞を不満として決起した事件)が辛うじてクーデター未遂事件に数えられるが、その政治的影響、決起行動の徹底さにおいて2・26事件の比ではない。
2・26事件は、単に陸軍内部の抗争の域を超えて日本近代史のターニング・ポイントになった事件でもあった。
そこでまずこの事件の概観をなぞっておくことにしたい。
■政府要人を殺害し、永田町一帯を占拠
昭和11年2月26日、東京は30年ぶりの大雪であった。その大雪をついて、東京・麻布にある第一師団歩兵第一連隊(歩一)と歩兵第三連隊(歩三)、近衛師団歩兵第三連隊(近歩三)などの下士官・兵士およそ1500人が、20人の青年将校に率いられて、午前5時を期し、政府要人を襲った。
彼らが襲ったのは、首相官邸、鈴木貫太郎侍従長邸、斎藤実内大臣私邸、渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸、高橋是清蔵相私邸、牧野伸顕前内大臣私邸などで、斎藤、渡辺、高橋は彼らに惨殺された。
その一方、永田町一帯も彼らによって占拠された。青年将校の香田清貞、丹生誠忠、村中孝次、磯部浅一、栗原安秀らは陸相官邸に集まり、陸相の川島義之を前に「蹶起(けっき)趣意書」を読みあげると同時に、自分たちの7項目の要望事項をつきつけた。
自分たちの要望をいれた軍事主導内閣をつくるよう要求していたのである。彼らが想定していたのは、青年将校に好意的な前教育総監の真崎甚三郎や前陸相の荒木貞夫を中心とする“天皇親政内閣”であった。
■クーデターではなく「維新」「革新」と自称
26日未明から29日夕刻までの4日間、彼ら青年将校と陸軍指導者との間に駈け引きがつづいた。天皇は、青年将校の決起という報告を受けてからは、「股肱(ここう)の臣」が虐殺されたこともあり一貫して「断固討伐」を主張し、その態度に揺るぎはなかった。
しかし、陸軍指導部のなかにはその意に反してあいまいな態度をとる者もいた。そのために青年将校の側も強気になるなど、この4日間は、青年将校が天皇の命令なくして兵を動かしたという大権の私議、あるいは統帥権の干犯に、昭和陸軍の軍人たちがどのような態度をとるかが試されることになった。それがその後の昇進や栄達に大きな影響を与えることになったのである。
2・26事件に加わった青年将校たちは、もとより自分たちの決起行動をクーデターなどとはいっていない。維新とか革新といった言い方をしているし、指導者の一人であった村中孝次がいみじくも「吾人は維新の前衛戦を戦ひしなり」と書きのこしたように、彼らの行動を機に陸軍当局が新たに国内体制改革に決起することで、真の「昭和維新」が始まるとも定義づけている。
青年将校たちは、クーデターには国体破壊につながる意味があり、大元帥天皇陛下の意には沿わないと考えていた。だから神経質なまでに、クーデターとか革命といった語は避けている。
■「天皇の意に沿う権力機構をつくる」
だが、青年将校たちの主体的な意思は、その点にあったとしても、歴史的にみればこれはクーデター以外のなにものでもない。
天皇に忠実な輔弼(ほひつ)・輔翼の任にあたっている者を斬殺し、その権力を消滅せしめて、陸軍主体の軍事独裁国家をつくろうとしていたからである。
青年将校たちが、どのような思想をもって決起に踏みきったのか、それは「蹶起趣意書」からうかがうことが可能だ。それを端的に語っているのは、「内外真ニ重大危急今ニシテ国体破壊ノ不義不臣ヲ誅戮(ちゅうりく)シテ稜威ヲ遮リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除(さんじょ)スルニ非(あら)スンハ皇謨(こうぼ)ヲ一空セン」という部分である。
さらに末尾では、「茲(ここ)ニ同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ奸賊ヲ誅滅シテ大義ヲ正シ国体ノ擁護開顕ニ肝脳ヲ竭(つ)クシ以テ神洲赤子(せきし)ノ微衷ヲ献セントス」と謳っている。
つまり、天皇の側近たちを権力空間から追い払い、真に天皇の意(大御心)に沿う権力機構(それが軍部独裁国家ということになるのだが)をつくるために、われわれは決起したといっているのである。
■4日間で鎮圧され、失敗に見えるが…
「御維新」とか「国体の擁護開顕」という語があるが、それは近代日本の幕明けとなった明治維新から68年を経て新たな維新革命が必要だという意味である。天皇の側近の者は自らの利益のために国民を欺き、そして天皇を欺いていると弾劾するのだ。
こうした君側の奸を排除することが天皇の意に沿うことであると信じている。天皇親政を求めるこの心情は、「軍人勅諭」の精神の到達点と解釈することができた。
2・26事件を正確に理解する、あるいは歴史的に位置づける、という場合に、青年将校の決起は、クーデターそのものであったと認識するところからすべてが始まる、と私は考えている。そしてこのクーデターは、「失敗」し、「成功」したという両面をもっている。
青年将校たちの決起は、4日間で天皇の強い意思とそれを支えた陸軍主流派(これを統制派と呼んでいいが)によって鎮圧され、訴えた内容は黙殺されてしまう。つまり「失敗」したのである。
■当初の狙いとは逆のかたちで「成功」した
だが、2・26事件後の政治状況のなかで、陸軍主流派は、「このような不祥事は二度と起こさない」という名分を掲げて、陸軍内部の青年将校に肩いれしていた指導部の一派(皇道派と呼んでいい)を粛軍人事という名目で追いだしたし、軍部大臣現役武官制という制度を復活させて、陸相の更迭や後任の陸相を推さないという方法で内閣の生殺与奪の権利を獲得したのである。
これによって、どんなときにも陸軍主導の内閣をつくることができるようになった。これこそ2・26事件が「成功」したといわれる所以である。
陸軍の権力奪取という広義の意味をもってすれば、青年将校のクーデターは成功したともいえる。もっともこの成功は、青年将校たちの主体的な意思とはまったく逆のかたちでの意味をもつ。それゆえに青年将校たちの未熟さが練達な陸軍首脳にねじ伏せられたという構図になっている。そのことは、昭和初年代からの国家改造運動が、結局はこのようなかたちで結着をみたということでもあった。
2・26事件にはまだ解明されていない、いくつかの不明点もあるのだが、なぜあの時期に行われたのかという点もはっきりとはわからない。
■第1の謎の答え、そして第2・3の謎
昭和10年12月上旬に第一師団に北満州への移駐の内示がでている。これには、非合法活動を徹底して排除する側に立つ統制派の陸軍上層部が、過激な青年将校が多い第一師団を東京に置いておかないほうがいいと判断したためという説もあるが、ともかくこの内示を受けて青年将校たちのなかの急進分子は焦ってしまった。
満州に行けば、「君側の奸」を倒す機会がなくなるというのであった。折から始まっている相沢裁判にも刺激されて、「相沢につづけ」という合言葉で計画は練られていった。
この2カ月半ほどの間に計画が煮つめられたのだから、いくつかの点は杜撰(ずさん)なままになっている。そうした杜撰さの一つに、青年将校たちは自分たちが権力を直接に奪取することをなぜ考えなかったかという点がある。
そしてもう一つが、この間に彼らの計画はどこにも漏れなかったのか、ということだ。
■北一輝が指摘した「最大の弱点」
初めの点についていえば、昭和初年代の民間右翼は、自分たちの直接行動は権力をとるためではなく、陸海軍を政治の前面に誘いだすための捨て石になることだと自覚していたが、その考えの延長にあった。つまりは、「維新の前衛戦」というわけである。彼らが合言葉にしていた「尊皇討奸」を忠実に実行しただけだった。
2・26事件の黒幕といわれたが、実際には青年将校に相談を受けていたわけでない北一輝は、青年将校の決起の最大の弱点はこの点にあったという意味のことをいっているし、民間側から加わった渋川善助は、一度抜いた刀は最後まで切らなければ鞘に戻してはならぬ、といいのこして刑死している。
革命家と自らをみたてていた民間右翼の指導者は、青年将校たちのこの甘さを痛烈に悔やんでいたと思われるのだ。
もし2・26事件が成功していたら、という論は現在に至るも語られている。日本は中国で、あるいは東南アジアで、あのような膨脹政策をとらなかったのではないかという論者もいる。
■クーデターが成功していた世界線
青年将校たちは徹底した対ソ戦論者だった。日本陸軍が一貫して仮想敵国とみたてていた国である。加えて、青年将校が指導者と仰いでいた荒木も真崎も対ソ戦の信奉者だった。
2・26事件で、青年将校たちが川島陸相に示した要望項目のなかに、荒木を関東軍司令官にせよ、という一項がある。これは日本軍は対ソ戦をすぐに準備しなければならぬというのと同義語でもあった。共産主義の脅威に対する警戒、加えて満州国に対するソ連の圧力への反感などが重なって、対ソ戦必然論の立場に立っていたのである。
2・26事件に決起した青年将校が望んだような政権ができていたとするなら、昭和12年の日中戦争の推移は様相がかわったかもしれない。満州国の権益と中国での部分的権益が保証される段階で満足し、それ以上は戦火を拡大せず、もっぱら対ソ戦に重点を移したであろう。
そのかわり昭和14年5月~9月のノモンハン事変は、対ソ戦信奉者たちの面子を賭けた激しい戦争になっていたと思われる。そして、関東軍は徹底的にソ連軍の近代兵器に叩かれ、もっと壊滅的な打撃を受けていたであろう。次から次に戦力を投入して、兵員、装備などは日本陸軍の根幹をゆるがすほどの打撃を受けたにちがいない。
■天皇制は続けられなかったかもしれない
1941年6月にドイツ軍はソ連領土に侵入したが、日本はこのときに対ソ戦と南方の資源獲得の二本立ての作戦を強行したかもしれない。実際の歴史では南方への作戦に重点をおき、関東軍は特別大演習を行ってソ連に圧力をかけただけだったが、これを実戦にもっていったと思われる。
青年将校たちの望んでいた政権ができたとて、昭和の歴史は総体としてはそれほどかわらず、やはり昭和20年8月15日のような事態をむかえたであろう。
ただ次のようなことはいえる。
つまり彼らの望んだ政権は、大御心を体(てい)してということで天皇を政治・軍事の前面に立てたはずだ。前述したように天皇親政国家が樹立される。この場合、天皇自身の意思はどこにあるのか予想はつかないが、この政体は、それまでの天皇機関説にもとづいた政権より天皇の直接の命令によって動くのだから、その政治的責任、軍事的責任は、すべて天皇にそのままふりかかってくる。
青年将校の主張は、その意味ではひいきのひき倒しになり、戦争に負けた場合は相手国から責任を問われ、天皇制の存続は難しかったのではないかと推測される。
■「君臨し統治せよ」という要求への憤り
2・26事件勃発の報告を受けたとき、天皇が心底から激怒したのは、自らの「股肱の臣」が「君側の奸」よばわりされて斬殺されたことへの人間的な怒りが直接の理由であったにしても、青年将校たちの主張のなかに自らの考えとは大きく異なる面があると理解したからである。
天皇は、「君臨すれど統治せず」の帝王教育を受け、そのとおりにふるまってきたが、青年将校たちは「君臨し統治せよ」と要求していたのだ。天皇の激怒には、こういう基本的な認識のちがいも含まれていたのである。
2・26事件は、昭和初年代の国家改造運動がかかえていたエネルギーを爆発させ、その矛盾を顕(あらわ)にしてみせた、たしかに結着点でもあったのだ。同時に、その収拾は陸軍指導部の怜悧な政治的計算による巧みな権力奪取の儀式でもあった。
そして、この政治的計算が動き始めて、昭和10年代の軍事主体の政策が生みだされていったのである。
※登場人物の年齢、肩書きなどは著者の取材当時のものです。
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保阪 正康(ほさか・まさやす)
ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 保阪 正康)