1783年、現在の群馬・長野県境にある浅間山が噴火した。歴史評論家の香原斗志さんは「これにより米が大凶作に。
米価は高騰し、さらに米を買い占める商人が続々と現れたことで庶民は困窮した。幕府が対策するも大きな効果は得られず、全国各地で死者が続出した」という――。
■「天明の米騒動」のすさまじさ
「江戸は今年、米の値がえらいことになるんやないかて」。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第25回「灰の雨降る日本橋」(6月29日放送)では、冒頭からそんな話が飛び出した。
その後、轟音がしたり、それにともなって地面が揺れたりと、江戸の町はただ事ではない状況に見舞われた。綾瀬はるかの「天明3年夏、浅間山が大噴火いたしました」というナレーションが入ると、今度は灰が降り出した。だが、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は「こりゃあ恵みの灰だろう」といって、進出しようとしている日本橋通油町に出向き、屋根を着物で覆って灰から守ったり、積もった灰を捨てたりするのに尽力した。
じつは、「米の値がえらいことになる」話と、浅間山の噴火とは関係がある。そして第26回「三人の女」(7月6日放送)では、「天明の米騒動」が大きなテーマになるようだ。
では、浅間山の噴火は「天明の米騒動」とどんな関係があるのか。また、この米騒動はどうやって発生し、どんな状況につながったのか。「令和の米騒動」と、なにか共通点があるのだろうか。

■浅間山の爆発音は四国まで響いた
蔦重が日本橋に進出したのは、天明3年(1783)9月。群馬県と長野県の境に位置する標高2568メートルの浅間山が大噴火したのは、ちょうどその2カ月前、7月のことだった。4月9日にはじまった噴火は6月下旬に頻度を増し、7月5日から激しくなった。
大規模に噴火しては、火砕流が繰り返し発生した挙句、7月7日から翌朝にかけて最盛期を迎えた。火砕物と火山ガスが続けざまに勢いよく噴出するプリニー式噴火が起き、マグマの総噴出量は東京ドームの403個分に相当する0.5立方キロメートルにもなったという。爆発の大音響は、7月8日午前には四国にまで届いたほどだから、江戸ではさぞかし大きな音がしたことだろう。
このとき土石雪崩が発生し、北麓の鎌原村(現嬬恋村)では、全村152戸が一瞬にして飲み込まれ、483人が犠牲になっている。赤く熱した石が降ってきて家が焼けたり、軽石に家が押しつぶされたりする被害も、後を絶たなかった。また、土石雪崩は吾妻川や利根川を下って、遠く江戸湾や太平洋にまで到達している。
それほどの噴火だから、噴煙も地上約10キロ以上の成層圏まで届き、広い地域に火山灰が降り注ぐことになった。噴煙が偏西風に流されたため、灰はとくに風下で激しく降ったという。
■東北で数十万人が餓死したワケ
気温の上昇が激しい昨今と逆で、江戸時代は世界的に小氷河期といわれ、気温が低めだった。
そこに浅間山が噴火して、噴煙が成層圏を覆い、さらに同年、アイスランドのラキ火山も大噴火した。その影響で、北半球の気温は年間平均1.3度下がったという。
しかも、浅間山が噴火する前年の天明2年(1782)から、悪天候や冷害が原因で飢饉が発生しており、とくに東北や関東で被害が甚大だった。そこに噴火で追い打ちがかかったのである。
火山灰は浅間山から近いとはいえない秩父(埼玉県秩父市周辺)で15センチ、佐倉(千葉県佐倉市周辺)で10センチほど積もったという。だから、周辺の農業が全滅したのはいうまでもないが、そのうえ火山灰が降り積もったまま流れ下った吾妻川や利根川が各地で氾濫し、田畑が荒廃した。加えて、冷害等による被害も甚大だった。
こうして大凶作がもたらされたが、なにしろ前年も不作だったから、そもそも余剰米がない。それでも、江戸や大坂は各藩から米が移送されていたからまだマシだったが、米を送ってしまった末に収穫がほぼゼロになった弘前藩(青森県)など東北の各地は、悲惨な状況になった。東北地方の太平洋側では、天明3年(1783)から4年(1784)にかけ、数十万人が餓死している。
■暗躍する中間の卸売業者
こんな状況だから、都市部でも米はどんどん高騰した。ただ、原因は米の収穫量が減ったことだけではなかった。
米を買い占め、高値になったところで売り払おうと目論む中間の卸売業者の暗躍で、米価はなおさら高騰することになった。このあたりは令和の米騒動と変わらない。
だが、こうした不条理には、庶民はいつの時代にも気づき、敏感に反応するようだ。蔦重が日本橋に進出した天明3年(1783)9月、浅間山に近い上野国(群馬県)西部で「打ちこわし」が起こった。買い占めている米を市場に放出することを求め、農民たちが商人たちの店や家に押しかけ、破壊したり焼き払ったりしたのである。
これを機に、飢饉の被害が深刻な東北から関東にかけての広範囲で、打ちこわしが頻繁に発生するようになった。
この時点まで、幕府もほとんど無策だったが、さすがに打ちこわしの衝撃は大きく、対応策を講じている。最初に、江戸での米価引き下げを命じた。天明3年12月7日には「備蓄米」の放出もはじめた。当時、各大名は非常時の対策として、居城に「城詰米」を備蓄しており、幕府は飢饉の被害が小さい近畿、中国、九州の37大名に、城詰米を江戸に廻送するように命じたのである。
■米を買い占める商人が続々と
年が明けて天明4年(1784)になると、幕府は江戸町奉行所に命じて、江戸の米問屋の米蔵を検分させている。米が市中に流通するように、奉行所から圧力をかけたのだ。
同時に米穀売買勝手令も出された。一時的な措置だが、かぎられた業者しか携われなかった米の流通と販売を、だれもができるようにしたのだ。
それでも中間の卸売業者は、いつの時代もしぶといということだろうか。米を買い占めている商人たちの多くは、高値で売る期間をねらって放出を渋ったから、事は穏やかに済まなくなった。武蔵多摩郡村山(東京都東村山市)に集結した農民たちは、こうした商人たちへの打ちこわしを行った。
ただ、ここまでは飢饉も、米騒動も、ほとんど東日本に限定された現象だったから、打ちこわし等が起きる地域もかぎられていたが、天明6年(1786)になると状況が大きく変わった。風水害が全国に広がって、米の収穫量が平年の3分の1にまで減ったからだ。それでも、中間卸業者たちは米を放出しなかった。むしろ、いままで以上に高く売れると見込んで貯め込んだ。
幕府は米穀売買勝手令をふたたび発布するなど、米の流通を促そうとしたが、米を買い占めて利益を上げようとする商人が次々と現れ、効果は得られなかった。
■幕府は「大豆を主食に」と勧めるも…
発火点は大坂だった。天明7年(1787)5月、大坂で米を買い占めている商人への打ちこわしが起き、大坂中に、続いて関西全域に飛び火し、あっという間に東北から九州まで拡大。
この月だけで全国30以上の都市で打ちこわしが発生し、ついには江戸にも広がった。
このころ江戸では、米価が2年前の2倍、3倍に高騰し、そもそも米を入手できなくなった。米価高騰のあおりでほかの食糧の入手も難しくなり、生活苦にあえぎ、両国橋などから隅田川に身を投げる人が続出したと伝えられる。町奉行所は5月19日、大豆を主食として勧める町触まで出したが、効果はなかった。
5月20日、赤坂(千代田区赤坂近辺)の米屋が襲われたのを機に、江戸中で500軒を超える商家が打ち壊された。
ところで、「べらぼう」で渡辺謙が演じている田沼意次が失脚したのは、飢饉が全国へと広がった天明6年(1786)8月で、江戸で打ちこわしが相次いだのちの天明7年(1787)の10月には、あらためて蟄居を命じられ、残された領地もほとんど召し上げられた。むろん、浅間山の大噴火からの天変地異と飢饉、それを発端にした治安悪化等の責任を取らされた面が否定できない。
だが、それだけではない。浅間山の噴火が大きな原因となった世界的な飢饉は、1789年のフランス革命の原因のひとつになった、とも指摘されている。鎖国をしていた日本における米騒動は、こうして世界とつながっているのである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。
日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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