豊かな人生を送るにはどうすればいいのか。スウェーデン出身でタイで僧侶となったビョルン・ナッティコ・リンデブラッドさんが修行を通じて学んだことをまとめた『私が間違っているかもしれない』(サンマーク出版)から一部を紹介する――。

■「1日1食」で頭の中が食べ物のことばかりに
ある日、私は瞑想堂に座ってその日の食事を待っていた。1日1食で生活し、実質的に1日のうち23.5時間も断食していると、食べ物のことばかり考えてしまいがちになる。
私も一日中、食事のことを頭に浮かべていた。しかもその日のビュッフェには、もっちりとした米にココナッツクリームを混ぜて炊いた、私の大好物があった。おまけに、太陽の光をたっぷりと浴びてよく熟した新鮮なマンゴーまである。
そのデザートのことを考えると、その日の食事をただ感謝して待つという僧侶らしい謙虚な態度を取ることは難しくなった。
自分の番が来るまで、その料理が残っているかどうかが気がかりでしかたがない。私は新米の僧侶だったので、料理を皿に盛りつける順番はかなり後のほうになる。私は食べ物以外に何か考えることがないかと、落ち着かない気分で周りを見渡した。すると、右手のほうに、派手な色合いのプラスチックの筒が目に留まった。
■寄付で賄われている僧院の経済
ストックホルム商科大学では、市場経済が繁栄するためには、その市場に関わる誰もが同じデータにアクセスできるように、情報の自由な流れがなければならないと教えられた。
その点からすると、この僧院の経済は様々な面でとても不完全だった。

僧院の経営は、すべて周りの人たちからの寛大な寄付や施しによって賄われていた。私たちからは、人々に何も求めなかった。このルールの唯一の例外は、「僧院のために何かがしたいが、どうすればいいかわからない」と誰かに尋ねられたときにそれに対応することだった。
とはいえほとんどの場合、人々は私たち僧侶にとって必要だろうと自分で判断したものを持ってきてくれた。その結果、生活用品などが大量に持ち込まれていた。文字通り、トイレットペーパーは山のようにあった。
だから僧院は、それを有効活用するための斬新な方法を常に模索しなければならなかった。私たちの創造性は、限界まで試されていた。
■日本で見つけた「雑貨」の裏に書かれていたもの
この僧院の支援者であるバンコクの裕福な人物が、日本を訪れた際、トイレットペーパーの上にかぶせて使うプラスチックの筒のようなものを発見した。
その状態でロールの中心にある厚紙の筒を取り出すと、真ん中の穴から適切な長さのトイレットペーパーを引き出せるようになる。見た目のよくないトイレットペーパー・ロールが、ダイニングテーブルにぴったりの便利なティッシュディスペンサーに早変わりするというわけだ。
私は瞑想堂に座りながら、鮮やかな黄色とホットピンクのハローキティのディスペンサーに目を奪われていた。

退屈しのぎに、このディスペンサーを手に取り、何か言葉が書かれていないか確認してみた。私が子どもの頃、携帯電話が普及する前は、朝食を食べながら退屈しのぎに牛乳パックの裏に書かれた文字を読んでいた人がいたものだが、それと同じような感じだ。
私の期待は裏切られなかった。筒の底のあたりに、英語の文字があった。そこには、こう書いてあった。
「知識は、知っていることすべてを自慢する。知恵は、知らないことすべてに対して謙虚になる」
■知恵が得たいのなら、知っていることは忘れなければならない
誰が考えた言葉だろう! 時代を超越した知恵が、目を覆いたくなるほど派手なプラスチックの筒に記されている。この言葉は、思い込みにとらわれないことに価値があることを思い出させてくれた。
知っていると思っていることにしがみついていると、視野が狭くなり、多くのことを逃してしまう。高次の知恵が得たいのなら、知っていることはいったん忘れて、知らないことに目を向けなければならない。
「私はこれを知っている」と思い込んでいると、大きな問題を招くことが多い。一方、「私はこのことを知らない」という謙虚な態度が、大きな問題を招くことはめったにない。

すでに知っていると思っていることにしがみついていたら、どうやって新しいことを発見するのだろうか? どうやって学ぶことができるのか? どうやって新しいことに挑戦したり、即興で何かをやってみたり、遊んだりできるのだろう? どうやって1+1を3にする方法を見つけられるのか?
■『くまのプーさん』が教えてくれること
西洋の知恵が詰まった古典的な傑作である『くまのプーさん』の物語には、自らの内なる知恵の声に耳を傾けたことがない人、自らの思考に永遠の催眠術をかけている人、頑迷な思い込みをしている人がどんなものかをよく表すエピソードがある。
このシーンでは、くまのプーと子豚のピグレットが一緒に散歩をしている。いつものように、プーは小さな赤いTシャツを、ピグレットはピンクの服を着ている。
二人はうさぎのラビットの家の前で立ち止まる。
「ラビットは賢い」とプーが言う。
「そうだね。ラビットは賢い」とピグレットも言う。
「彼は頭がいい」とプーが言う。
「そうだね」ピグレットが言う。
しばしの沈黙の後で、プーが言う。
「そうだね。だから、彼は何もわかっていないんだ」
誰もが、このシーンに共感できるのではないだろうか。
自分の思考にとらわれていると、まっさらな目で物事を見ることができなくなる。自分で自分に制限を設けているのと同じだ。
■心の中の「くまのプー」を見つけると人生は豊かになる
たしかに、ラビットは賢く、頭がいいかもしれない。しかし、ラビットとプーのどちらのように生きたいかと尋ねられれば、少なくとも私にとって答えは明らかだ。私は、誰もが自分の心の中にいるくまのプーさんを見つけることが必要だと思っている。
私たちはプーのように、目を大きく開き、自分は何も知らないという慎重な態度で、気づきを意識しながら世界と関わるべきなのだ。
ラビットのように「自分は物事を知っている」という態度を取る人と話をしても、私は喜びを得られない。こういう人はたいてい、人の話をよく聞いていない。こちらが話を終える前から、次に自分が何を言うかを考えることで頭をいっぱいにしているようだ。
私の言うことを絶えず品定めし、自分なりの評価を下しているようにも思える。
私の意見や視点は、彼らの世界観を再確認し、それに同意する限りにおいて受け入れられる。
そこに魔法のようなひらめきや出会いはない。
そういう人とは、一緒にいても楽しくない。
その逆も然りだ。誰でも、自分に注意を向けてくれる人、オープンな好奇心を持って話を聞いてくれる人に心を開くことがどれだけ素晴らしいかを知っているはずだ。こちらの立場になって考えてくれる人、同じ視点に立ってくれる人に話を聞いてもらえるのは、大きな癒やしになる。
こうした会話を通して、私たちは自分自身についても多くを学べるようになる。
「わあ、すごい! 私は、自分が考えたり、感じたり、自覚していなかったようなことを、相手に話し、説明しているぞ。なんてワクワクするんだ!」というふうに。
偏見を持たず、判断をせずに人の話を聞くことは、自分自身を理解するのにも役立つ。それは決して小さなことではない。そこにはとても大切な何かがある。
■神に助けを求めた絶体絶命の男の物語
私は物語を引用するのが大好きだ。これから紹介する物語は、どこで知ったものかよく覚えていないのだが、とにかく語りたいと思う。

それは、山に登っている男の話だ。すでに約半分ほど登ってきたが、斜面はとても険しい。道は狭く、雨で滑りやすくなっている。
道の真ん中に、ひどく滑りやすい丸石がある。男はそれに気づかずに足を乗せ、足を滑らせて崖下に転落してしまう。
落下しながら、何かにしがみつこうとして必死に両手をばたつかせていると、奇跡的に崖から水平に生えている小さな木の枝をつかむことに成功した。男はそのまま枝にぶら下がる。
彼は信心深い人間ではなかったし、神の奇跡のようなものにも興味はなかった。時間が経過するにつれて、ゆっくりと腕から力が失われていった。筋肉が震え始めた。
眼下の地面まで、約500メートル。つまりもし手を離せば、500メートル下に落下することになる。
男はパニックに陥り始めた。あと少ししか持ちこたえられないだろう。たまらず、空に向かって試しにこう尋ねてみた。
「もしもし? 神様? 聞こえますか? 私は本当に助けが必要なのです。もしあなたがそこにいるなら、応えてくれますか?」
しばらくすると、空から深く威厳のある声が聞こえてきた。
「私は神だ。お前を助けることができる。ただし、そのためには私の言うことに従う必要がある」
「どんなことでも言うことを聞きます!」男は叫んだ。
「手を放しなさい」神は言った。
男は数秒間、考えてから言った。
「ええと……誰か他に私を助けてくれる人はいませんか?」
■「手放すこと」は難しいが恩恵は計り知れない
この物語は、私の心に訴えるものがあった。自分が頑固な思い込みにとらわれていると気づくたびに感じるのと同じことが、描かれていたからだ。
私は男が枝から手を放すのを嫌がったように、自分の考えが正しいと信じて疑わず、それを手放そうとしないことがある。
誰もが、このロジックに絡め取られることがある。気分が落ち込んでいるときは、特にそうだ。私たちは、凝り固まった考えにしがみついてしまう。
頭では、間違った考えがどれほど自分にとって有害なものになりうるか、そうした考えを信じることがどれほど不要な精神的苦痛に結びつくかを理解しているかもしれない。けれども次の瞬間には「でも、この考えは絶対に手放せない。これは間違いなく正しい」と思ってしまうのだ。
その瞬間は視野が狭くなっているので、自分の考えに疑う余地はないと思えるかもしれない。しかし、それはあなたにどんな影響を与えるだろうか?
手放す練習は、私が仏教の修行を通じて学んだことの中でも、特に重要なものだ。この知恵は深い。手放すことが上達すれば、そこから得られる恩恵ははかりしれない。
私たちを傷つけ、卑小さや無力感、孤独、恐怖、悲しみ、怒りを助長させる思考を取り除く唯一の方法は、それらを手放すことだ。たとえそれらが「正しい」としても、手放すのだ。
もちろん、それを実践するのは頭で考えるほど簡単ではない。
しかし結局のところ、私たちをもっとも苦しめるのは、なかなか手放すことができない考えであることが多いのだ。

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ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド
スウェーデンの講演家、瞑想教師、元僧侶

大学で経済を学び、エリートビジネスパーソンとして輝かしいキャリアを歩んでいたが、物質的な豊かさを重視する生き方に疑問を持ち、20代半ばで仕事を辞め、タイのジャングルで森林派の仏教僧侶としての生活を始める。「知恵の中で成長する者」という意味のナッティコという僧名を与えられ、17年間、タイやヨーロッパの僧院などで生活したのち、僧衣を脱ぎ、母国スウェーデンで生活を始める。社会復帰しようとするも、厳しい現実に直面し、うつ状態に陥るなど苦労を重ねるが、妻や家族の支えで次第に生きる道を見つけていく。2018年に難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断され、闘病後、2022年1月に帰らぬ人となった。2020年に刊行された本書『I MAY BE WRONG』はスウェーデンで瞬く間にベストセラーとなり、2020年で最も売れたノンフィクション本となる。現在33カ国で翻訳が決定しており、韓国や台湾、イギリスをはじめ、世界中でベストセラーとなっている。

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(スウェーデンの講演家、瞑想教師、元僧侶 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド)
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