■巨大な絵の前に感動で立ち尽くす人が続出
④カラヴァッジョの「キリストの埋葬」
――前編では「ファルネーゼ・アトラス」「ティントレットの伊東マンショ像」「ミケランジェロの『キリストの復活』」について解説しました。しかし、イタリア館に展示されている作品の中でも、芸術として一番すごいのはカラヴァッジョ(1571~1610)の「キリストの埋葬」では? 感動して絵の前に立ち尽くす人がたくさんいました。
【ヴィズマーラ恵子、以下ヴィズマーラ】そうですね。ルネッサンスからバロックへと絵画を進化させたカラヴァッジョの作品の中でも最高傑作といわれています。まさに彼の絵の様式「キアロスクーロ」、明暗法で描かれていて、V字型の構図。絵の中心の位置から見ると、まるで6人の人物が絵の中から飛び出してくるようです。
■特別な照明でV字構図と明暗が浮かび上がる
――ミケランジェロの「復活のキリスト」を見て、その奥の仕切られた暗いスペース「スピリチュアル・ゾーン」に入ると、展示されています。高さ3メートル、幅2メートル。たたみ3畳分とデカい! バチカンはよくこの絵を日本に送ってくれましたね。
【ヴィズマーラ】以前、この絵は日本で展示される予定があったんです。そのときはコロナ禍で来日中止になってしまったので、今回の万博で約束を果たしますよということですね。
■リアルすぎる! 3D仕様の「飛び出す絵」
――人物はほぼ等身大ですし、まるで写真のようなリアル感があります。でも、描かれた1603~04年ごろ、カメラはないわけで、当時この絵を見た人はびっくりしたでしょうね。
【ヴィズマーラ】聖母マリアが青い衣を着ているなど、古典的な様式を引き継ぎつつ、年齢相応(45歳ぐらいの設定)に老けて描かれていて、美化されていないというか、理想化されていないんですね。キリストの足の裏は土で汚れていますし、傷口や血管もリアルです。そして、群像を左上から明るい光が照らす。これこそバロック絵画だという特徴が全てある絵です。カラヴァッジョは、おそらく実際にモデルを立てて描いたのでしょう。
――一番右にいて天を仰ぎ嘆いているクレオファのマリアなんて、いかにもイタリア人女性のような顔です。このマリアと、泣いているマグダラのマリア、そして聖母マリアという3人のマリアが、キリストが十字架で処刑されたときに立ち会い、その遺体を大理石の上に横たえ、埋葬のために油を塗ろうとしているところですね。そして、このあと3日後にキリストは「復活」し、ミケランジェロの彫刻の場面になると……。
【ヴィズマーラ】そうです。
■こちらを見る「ニコデモ」のモデルは誰なのか
――このニコデモという男性は、キリストを処刑した国の議員だけれどもキリストを尊敬していて、その処刑にも立ち会った。この絵では目線がこちらを向いています。モデルには諸説あって、カラヴァッジョの自画像ともいわれますが、顔が違う感じがして……。ミケランジェロの顔を持ってきたという説もあって、たしかにそちらの方が似ています。
【ヴィズマーラ】もちろん、カラヴァッジョは「先輩」であるミケランジェロを意識していましたし、この絵のキリストの姿も、ミケランジェロの「ピエタ」に倣っているといわれていますね。ただ、私が読んだ文献では、そもそもこの絵をカラヴァッジョに依頼したのが、1600年に亡くなったピエトロ・ヴィットリーチェの甥で、そのピエトロを追悼するため、彼の顔を描いたのではないかということでした。
■暴力沙汰が絶えなかった「呪われた画家」
――カラヴァッジョは超絶技巧の天才というのはわかるのですが、彼は「呪われた画家」ともいわれます。ミラノで生まれ、ローマで教会御用達画家にまで上り詰めたのに、乱闘して人を殺してしまい、ローマを追われ、ナポリ、シチリアなど各地を転々とし、38歳で亡くなった。そんな彼をイタリアの人はどう見ているんでしょうか。
【ヴィズマーラ】もちろん、殺人は今も昔も大罪ですが、彼の生前、最後にカトリック教会もその罪を許しています。
■ダ・ヴィンチの素描でチェックすべきポイント
⑤レオナルド・ダ・ヴィンチ 「アトランティックコード」
――見学コースで最後に鑑賞できるのがレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)直筆のドローイング。ただ、みんなが展示ケースの中を「ふむふむ」と、のぞき込んで渋滞してしまうので、イタリア館のスタッフに「立ち止まらないで、写真撮るだけにしてください!」と言われ、アイドルの握手会並みの速さでケースの前を通り過ぎることになります。
【ヴィズマーラ】これはミラノのアンブロジアーナ図書館に所蔵されているダ・ヴィンチの「アトランティック手稿」です。その本物の素描を日本で見られるなんて、めったにない貴重な機会なので、ちょっともったいないですね。じっくり見てチェックしてほしいポイントがあるんですが……。
まず、有名な話ですが、ダ・ヴィンチは左利きでした。さまざまな図が描かれていますが、左利きの人ならではの線の引き方が出ています。まっすぐ縦の線を書いたつもりでも、ちょっと右カーブになってしまうんですよ。だから、ダ・ヴィンチの絵を見慣れている人だと「うわぁ、いかにもダ・ヴィンチのタッチだ」というのがわかる。
また、これらの設計図に添えられた文字は、鏡文字になっています。イタリアでは1460年頃から活版印刷が盛んになり、ダ・ヴィンチは「自分が書いたものは印刷される」と分かっていたので、その前提で、紙にインクで手書きする時点で左右逆に書いていました(絵の中の文字に活字は使えなかったため)。
■ファッションの街・ミラノならではのセレクト
――たしかにそうなっていますね。しかし、これが何の設計図なのかはまったく分かりませんでした。絵画のみならず、科学者、工学者でもあった“万能の天才”ダ・ヴィンチなので、なんらかの機械でしょうか?
【ヴィズマーラ】これ(図A)はスパンコールを大量生産するための機械です。隣にある図は、その機械を設置するための建物、つまり工場の設計図(図B)。ファッション産業の街であるミラノが、服や鞄などに使われるスパンコールの図を出してきたところに、さすがだというセンスを感じました。
ダ・ヴィンチは若い頃、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕え、そこで有名な「最後の晩餐」など絵を描きつつ、武器や機械、土木工事などの設計もしていました。それらの素描が今もミラノにたくさん残っているんですね。もちろん、その中には実際に作られなかったもの、採用されなかったものもありますが、この設計図はそれまでスパンコールを1枚1枚手作りしていたものを、機械で金属に穴を開け、少人数で大量に生産していこうと考えたもので、3世紀のちの産業革命にもつながっていく発想でした。
■日本の美術品の扱いが信用されているから実現
――ダ・ヴィンチはやはりすごいと……。紙に書かれたものなので、大きな絵や彫像よりは持ってきやすかったのかなとも思いますが。
【ヴィズマーラ】ダ・ヴィンチといえばルーブル美術館にある「モナリザ」ですよね。この有名な絵は一度だけ1974年に来日したことがありますが、ポプラの木に当時の油絵の具で描いたもので、表面にはたくさんひびが入っています。それでも日本の湿度管理や完全管理がしっかりしていたことで、問題は発生しませんでした。そのときの展示方法が世界的な基準になったぐらいですし、やはり日本の美術品の扱いは、信頼度が高いんですね。だからこそ、今回、万博にもこれだけの「本物」を持って来られたと思います。
――アジア随一の西洋美術のコレクションを誇る東京の国立西洋美術館にもカラヴァッジョ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの作品はありません。他にも近代・現代アートが展示され、20世紀の未来派ボッチョーニの彫像がさりげなくあったりして、美術好きには一番おすすめできるパビリオンであることは間違いないです。
【ヴィズマーラ】イタリアに来なくても、これだけの古典的作品が見られる機会はめったにないですよね。だからこそ人が殺到しているのですが、もう少し予約を取りやすくするなどの改善も期待したいところです。いろいろと解説をしましたが、アートは本来、事前の知識がなくても楽しめるもの。イタリアの誇る芸術家たちが表現しようとしたことを、ぜひ直に感じてみてください。
――そして、7月6日には新しく「ヴェナフロのヴィーナス」の展示が始まりました。
【ヴィズマーラ】ナポリに近いモリーゼ州のヴェナフロ市で1958年に発見されました。円形劇場跡がある町で、古代ローマ時代の貴族がいかに豊かな生活をしていたかを証明する傑作。ヴィーナスが衣を持って身体を隠そうとしているのは、水浴び後の「恥じらいのポーズ」です。左足の脇にいるイルカから水が噴き出す仕掛けだったようですね。これもヘレニズム美術(ギリシャ)のローマンコピーですが、「ローマンコピー」というのは、いわゆるレプリカ(複製)ではなく、古代ローマ人がギリシャ美術を再解釈して作った、それ自体、一級の美術品です。きっと美しい構図と、優美で慎ましいポーズに魅了されると思いますよ。
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ヴィズマーラ 恵子(ヴィズマーラ・けいこ)
翻訳者・コラムニスト
通訳、翻訳、コーディネータガイド。イタリア・ミラノ郊外にて抹茶ストアと日本茶舗を経営する。福岡県出身。中学校の美術科教師を経て2000年に渡伊、フィレンツェ留学後ミラノに移住。在イタリア邦人の目線で現地から生の声を綴る。WEB連載に『イタリア事情斜め読み』。
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(翻訳者・コラムニスト ヴィズマーラ 恵子 取材・文=小田慶子)