情報化社会の進展で、真実なのか偽りなのかわからない出来事が増えた。詐欺の巧妙化、情報倫理の無法化も止まらない。
“知の怪人”荒俣宏さんは「18世紀の啓蒙主義は、中世世界を蔽った無知からの脱出法だった。膨大な情報で混沌とした現代にも“超人的な叡智”が必要だ」という――。(第3回/全3回)
※本稿は、荒俣宏『すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■「無知からの脱出」と「未知への進出」
情報化社会というものは、けっこうあやうくて、やりにくい世界だ、と感じている人も多いのではないか。
ズバリいってしまえば、そこにはまだ「他者への心づかい」や「コンプライアンス」が欠けている。こういう感情的な「心配」や「不満」も、まだまだ機械に移せる特技ではないだろう。
その証拠に、一個人として生きる人々は、「あれ、情報化社会の未来って、こういうことだったの?」と、毎日届く社会の暗いできごとをインターネットで知るたびに心配できている。
不便と不満は発明の母である。何か人間として大切なことが、IT革命以来どうも欠けてきてはいないか、と。
これは、人間がユニバーサルな情報ツールの張りめぐらされた現代の中で、むかしとは違う、とても異質な支配力が日常に入りこんだせいだ。
電車に乗っても、多くの人が黙ってスマホを眺めている。わたしたちが「異世界」に暮らす「異人類」になったのなら、何がここで失われたかを分析することも、情報化社会を生き延びる力の1つになる。

■倫理や法やメディアもまったく追いつかない…
子どもたちはデジタルの普及した今をどう生きるか、若いころにインターネットやスマホがなかった古い世代には想像も及ばないからアドバイスができないし、一人で考えださなければならない。
世界が正しく有益な知識や思考の増進に向かったことはたしかだけれど、それに比例して真実と偽りの交錯する混乱がひどくなった。何を信じていいかわからないのだ。
現在、もっとも問題になっているものに、詐欺の巧妙化とSNSによる情報倫理の無法化がある。
その進化のスピードがあまりに速すぎるために倫理も法もデジタルメディアも、まったく対策が追いついていない。つまり、みんなが仲良く自由に暮らすためのコンプライアンスが形成できていないのだ。
■疑心暗鬼の世界
免許も知識もない暴走車が走りまわっている高速道路と同じだ。これじゃあ、いつか自分が巻きこまれるかしれない。
もっとはっきりいうなら、技術面はこわいほど進んだが、芸道とか武士道というような肝心の「道」がない。運転免許を持たずに車を勝手に運転し、スピードアップするドライバーのようなものだ。
このままでは自分の情報を守るすべもなくなり、疑心暗鬼の世界が出現しかねない。これでは、「穏やかで平和な日常」を基盤として暮らすふつうの人々の居場所がなくなる。

■「勉強バカ」「勉強亡者」にならない
あらためて、この新世界の成り立ちの謎を調べることが必要だ。あなたがこれから始める勉強や研究は、まわりがほとんどアドバイスしてくれない「無知」と「無秩序」を理解するためにあるといってもいい。
その際、まわりの混乱に惑わされない勉強の方法を考えると同時に、勉強すること自体が暴走してしまわないように、勉強自体に〈ルール〉というか〈秩序〉を課すことが必要だ。
なぜなら、「好きなことをする」というのは業(ごう)(どうしても犯してしまう人間の基本的な欲望や行為)に近い煩悩(ぼんのう)の世界であって、この業から抜けだして世界を調和させるような真の賢者が出にくいからだ。
では、何をすればいいのか。それはむずかしいようで簡単なことだ。勉強をなるべく、深く、広くすること。そして、ここぞと思う分野を見つけたら、なるべく深く、それも自分の体を使って掘り下げること――。
これさえ気をつければ、あなたは少なくとも「勉強バカ」や「勉強亡者」になってしまう心配はない。
■現実と仮想現実が接続して起きたこと
今、会社経営や政治にすらコンプライアンスが求められているのに、知の世界だけが人類史上かつてなかった混乱に襲われている。なんと、デジタル情報はビッグデータとなって、わたしたちの考えや欲望をあやつっている。
このような状況になった最大の要因は、デジタル化の進展によって現実世界に「ヴァーチャル世界」、つまり「仮想世界」が接続して、人知の取り扱える世界が多次元化したことにある。

つまり、自分の好みに合う理想世界だけに閉じこもって暮らせるのだ。
■幻想怪奇系数学の世界が登場
文学でいえば、幻想怪奇の文学と同じで、お化けが出たり、神様が現れたり、まだ行った人が誰もいない宇宙のことを書くSFがある。数学も、自然主義や実証主義の秩序ある数ではなく、ウソや仮説や、どう見ても数ではないような「架空の数」も必要になった。
そう、現実に感じることのできるものや、秩序がはっきりした数じゃない幻想怪奇、お化けや宇宙人みたいなものを出さないと処理できないような世界になった。
つまり、フィルムで撮った実写映画と、アニメと、『スター・ウォーズ』みたいなSFX系の映画とを一緒に観せられていると思えばいい。しかも、この幻想怪奇系数学は、ことばのようにふつうの世界じゃ出てこないし、もともと触れるようなものではないから、ふつうの人は道具として使うチャンスも必要もない。
だから、わからなくても悲観する必要はない。これを道具として使わなければならなくなったら、誰でも本気で勉強できるようになる。そういう勉強は、チャンスを待てばいいのだ。
■割り切れない数を現実世界で扱うということ
たとえば、割り算してみるときりがつけられない数(割り切れない数)が見つかる。
幅2メートルの土地を三等分したときの各幅は0.666……となり、どこまで行っても区切りがつかない、なんて場合だね。そこでこの奇妙な数もきっちりと表せるあたらしい数、分数が発明された。

つまり、数の化け物をとりあえず設定して、それまでの数字になかった新語をつくれば、割り切れない数でも現実世界で使えるようになる。
このあたらしいコンプライアンスに制御された数は、「有理数」と名づけられた。その新文字こそが分数だ。3分の2というやつだね。
この分数、今だってパソコンで書きだそうとするとワンタッチで書けないでしょ。まだパソコンがバカである証拠だ。
■「掟破り」が新しいルールをつくる
しかし、数学も文学や美術と同じように大発展する。
たとえばピカソやマティスみたいな現代アートを、ちゃんとした美術と認めなければ、今の美術はありえなかったと思うでしょう。数学でも、ピカソ級の異質な数が見つかってしまった。
このあたらしい掟(おきて)破りの数が登場したのは、つい最近ではない。むかしからあって、代表的な例が円周率π(3.1415……)や√2(1.4142……)などだ。どうやってもスッキリした数字で表現できないから、πなどという数字以外の記号を用いるしかなくなった。
これを「無理数」という。自分で無理だと宣言している数の記号だ。
無理数とは英語で「irrational」、訳せば不合理となる。無理というより、「ムチャ」と訳すべき数だったと思う。
でも、これで不合理な数というヘンテコな数もルール内に含められるようになった……と思ったら、まだまだ不合理を超えたありえない数、数ともいえない数があらわれた。その最たるものが「虚数」、つまりウソの数だ。
数学はついに、ウソの数も創造するようになり、この純粋に人工的で空想的な数学世界をつくり直すために、コンプライアンスを大幅に変えた。ウソもOKと!
■「ウソ化」する世界に追いつかないルール
それとよく似た現象が現実世界に起きた実例が、「ヴァーチャル・ワールド」というわけだ。しかも現実世界には、ウソとホントの両立ができるあらたなルールやマナーが整えられていない。
詐欺も欺瞞(ぎまん)もやり放題の世界でコントロールする「道」が見つからない。その結果、人々の思考やコミュニケーションの道具となる言語や記号の混乱が起きる。
世界が「ウソ化」したのに、現実世界では数学における虚数みたいな「ウソOK」という新ルールができていない。

これが問題の本質なんだと思う。
■いまこそ「英知」「叡智」が必要だ
とするならば、数学のように大胆で革新的な情報や知識の管理ルールの変更が、現代社会でも必要になるにちがいない。
では、そういうものはできるのか。AIの登場で情報社会の進展がおそろしいほどスピードアップした今、もう老齢に達した元情報エンジニアのわたしに妙案はない。だが、こういう時代に自分の身を守り、しかも少しは意味のある新思考の実験くらいはできるかもしれない。
人間は、社会で暮らす共同生活の動物として存在する。その基本は、得た知識や見つかった問題解決法を共有し、共存をはかることだった。これがコンプライアンスの基本であって、この本丸が情報の暴走や知識の悪用で破壊されることは、本末転倒といえる。
たぶん必要なのは、無尽蔵に増殖する情報や知識の重圧と束縛を跳ねのける「賢人の視線」なのだろう。それを古めかしいことばで「英知」と呼んだ。「叡智」というさらに古めかしい表記もある。
■18世紀の啓蒙主義の本質は「無知からの脱出」
混乱の時代に、そうした「見通す目」が生みだされた事例が過去にも発生している。
たとえば18世紀には「啓蒙(けいもう)」という、自分の精神を守る方法が提唱された。これは中世世界を蔽(おお)った「無知」からの脱出法だった。
無知は人を貧しく、不幸にするそうだ。とりわけ、西洋ではキリスト教会による「スコラ哲学」が、知識の正しさやその有効性の基準を「聖書」に置いたのが大問題だったけれど、そのほかはきわめて細かい研究を進めたにもかかわらず、異説(正当とされた意見と異なる個人独自の考え方)を容認しなかったせいで知の進歩が妨げられた。
これをひっくり返そうとしたのが、覇権を握る各国王族と、その下で発展した人文主義者や啓蒙思想家だった。
ルネサンス期に勢いがあった人文主義は、教会の公用語だったラテン語以外に中東で栄えたアラビア科学や哲学(このルーツは古代ギリシア)を復活させ、ラテン語一辺倒の知識体系を刷新させている。
■自分で考える=無知の闇を祓うこと
あらたな思想をもとにした啓蒙主義の「啓蒙」とは、「闇(無知あるいはラテン語従属)を祓(はら)う」という意味で、その結果、欧州各国で「自由思考家(フリーシンカー)」が生まれた。自分で考えることが、闇を祓う力となった。
ところが今、情報は混沌とした雲のように重く、人々を押しつぶそうとし始めている。「啓蒙」の時代は「教養」が闇を祓う武器となった。でも、今は教養では解決がつかないほど情報の圧力が強まっている。超人的な叡智が求められている。
そこで、わたしとしては、「これまでになかった斬新な発想法」に期待をかける。
その力は、すでに昔ながらの教養思想や哲学で鍛えられた「知のコンプライアンス」を一歩進めた方法であって、「無知」から脱出する「未知への挑戦力」といってもいい。現在の正論や定説をいったんゼロに戻し、あらためてその反対思想ともすり合わせてみる。
■常識をひっくり返した先にあるもの
アインシュタインが「思考実験」と呼んだ方法にも近いけれども、それだけにとどまることなく、地上の生命を進化させてきた地球、あるいは自然のシステムとも照合する。
自然のシステムは頑丈に定まっていた古典的地球観から発展し、今は、偶然や不定、揺らぎ、不確実性といった「未知の創造力」にまで広がっている。
先が見えないといわれる現代だけれども、地球や生命自然の探究でさえ、「わからないもの」「偶然的なもの」「不確実なもの」の探究に向かっている。その成果を少しいただいて、思考の未来の在り方を探ってみよう。
わたしたちの常識をひっくり返してみること。
そこから生まれるあらたな試論は、情報重圧に挟まれた状態を跳ね返せるかもしれない。

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荒俣 宏(あらまた・ひろし)

博物学者、小説家

1947年東京都生まれ。博物学者、小説家、翻訳家、妖怪研究家、タレント。慶應義塾大学法学部卒業。大学卒業後は日魯漁業に入社し、コンピュータ・プログラマーとして働きながら、団精二のペンネームで英米の怪奇幻想文学の翻訳・評論活動を始める。80年代に入り『月刊小説王』(角川書店、現KADOKAWA)で連載した、持てるオカルトの叡智を結集した初の小説『帝都物語』が350万部を超え、映画化もされる大ベストセラーとなった。『世界大博物図鑑』(平凡社)、『荒俣宏コレクション』(集英社)など博物学、図像学関係の作品を含め、著書、共著、訳書多数。

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(博物学者、小説家 荒俣 宏)
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