日中戦争で、旧日本軍は子供や女性、高齢者ら非戦闘員にも残虐な行為をおこなった。戦犯として起訴され、禁固刑を受けた元軍人を取材したノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 上』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
(第3回/全4回)
■死刑を覚悟していた8人の日本軍人
1956年(昭和31年)6月19日の午前、中国の瀋陽にある特別軍事法廷(中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷)で、旧日本軍の8人の軍人に判決がいいわたされた。禁固13年から20年という重い刑期であった。しかし、刑期の起算は敗戦の日からという温情あふれるものだった。
8人はいずれもこの日に備えて、洗濯したばかりの旧日本軍の軍服を着せられていた。丸坊主の頭を垂れ、首をうなだれていた。死刑が当然と思われていたのに、禁固刑が宣せられると、彼らはいちように身をふるわせ、審判長の袁光軍法少将にさらに深く頭を垂れた。
判決いいわたしの前に、旧日本軍の第五十九師団長で中将の藤田茂は「審判長閣下、藤田の首を叩き落としてください」と申しでていた。絞首刑にしてほしいとの意思表示であった。その藤田が声をあげて泣き、他の7人もしばらくは嗚咽のなかにいた。
判決のあと、藤田は「審判長閣下」と再度発言を求め、「中国がこの裁判での事実調査に正確公平であったことに感謝いたします。さらに寛大な処置に感謝申し上げます」と述べた。7人もその言に異存がないことをあらわすかのように、再び頭を垂れた。

■「上級の指示」による温情判決
だが法廷内は彼らに冷たかった。傍聴席の中国人は「なぜ死刑にしないのか」「これだけの中国人を殺害したのに禁固刑はおかしい」と叫んだ。「父を返せ」「息子を返せ」と柵を乗り越え、審判長席に殺到した。戦犯たちにつかみかかる者もあった。それを警備の兵士が押しとどめ、強引に傍聴席に戻した。審判長が傍聴人に呼びかけた。
「あなたたちのいうことには一理ある。しかし、この判決は中国人民代議員大会の決議よりもさらに上級の指示によっている。厳罰に処すべきだが、死刑にしてはいけない。なぜなら中日永遠の友好を考えて、あえてここは譲るべきだと上級はいっている」
傍聴人は審判長のこの重い一言に静まりかえった。「上級的指示(シャンズイ・ダ・ジェシー)」という語に声をひそめたのである。それでも一人の中国人が、「だが、われわれは日本人の蛮行は決して忘れない」と叫んだ。
傍聴席に中国人の嗚咽が広がっていった。
■1000人超のうち起訴された戦犯は17人
戦犯たちは監房に戻ってから、上級の指示というのは毛沢東主席と周恩来首相をさしていると聞かされた。この2人の意向によって死刑を免れたのであった。
この期、中国では瀋陽、太原などの軍事法廷で日本人戦犯の裁判が始まっていた。1100人余の戦犯が撫順戦犯管理所や太原戦犯管理所に収容されていたが、中国はその大半を起訴猶予とし、現実に起訴されたのは17人であった。この17人は旧日本軍の師団長、連隊長クラス、旧満州国の幹部、それにわずかの兵士、下士官が含まれていた。極端に残虐行為にかかわった者たちであった。
瀋陽の特別軍事法廷で裁かれた8人は、とくに師団長クラスの大物が中心で、彼らは「いずれも日本帝国主義がわが国を侵略した戦争に積極的に参加し、国際法の規範と人道主義の原則を公然と踏みにじり、この起訴状にあげる各種の重大な犯罪行為を行った」という理由で起訴されていた。
中将が鈴木啓久、藤田茂、佐佐真之助の3人、少将が上坂勝、長島勤の2人、大佐は船木健次郎の1人、少佐が榊原秀夫の1人、そして尉官では中尉の鵜野晋太郎だけが起訴グループのなかに入っていた。
■判決で認定されたひどい蛮行の数々
私の手元には、鈴木啓久ら8人を起訴した中華人民共和国最高人民検察院の「起訴状」と、特別軍事法廷が下した判決文の原文(中国文と日本文)がある。8人のうちの1人、鵜野晋太郎が初めて全文公開することに同意し、私に手渡してくれたのである。
この起訴状と判決文を読むのは、実は次代の者としては何ともつらい。
ここに書かれている旧日本軍の蛮行は「氷山の一角にすぎない」と鵜野はいうのだが、それにしても目を覆いたくなるような内容なのである。
師団長や連隊長が、直接に自身で蛮行を働いたのではないが、その命令により彼の指揮下にある兵士がいかにひどい蛮行を繰りかえしたか、それが克明に書かれている。その蛮行を目撃したり、直接に被害に遭った中国人の証言、そして戦犯たちもそれらの事実を認め、それについて自らも責任があると供述しているのである。
■18歳女性は輪姦され、命を奪われた
8人が起訴された事実のなかから、いくつかの蛮行を抜き出してみる(原文のまま)。
▼1942年4月、被告人(保阪注・鈴木啓久元中将)は配下の部隊を指揮命令して「豊潤大作戦」に参加したが、配下の第一連隊(すなわち「極二九〇二部隊」)は河北省遵化県魯家峪郷において、斬り殺す、焼き殺す、毒ガスを放つなどの残虐な手段でわが平和的住民(中国人民のこと)劉倹、李有余、李三章、于長万ら220余名を虐殺するとともに、民家1900余戸を焼き払い、魯家峪虐殺事件をひき起こした。
このさい、劉清池は殴打のあげく焼き殺され、銭連発の嫁2名は毒ガスのため死亡し、おなじく銭連発の18歳の娘は、ガス中毒で逃げ出たところを輪姦されてついに死亡した。また于長合の妻李氏は強姦に抵抗したため腹を切りさかれて胎児をえぐりだされ、劉清隆の妻何氏は強姦されたあと焼き殺されている。
■生きた人間を「標的」にした刺突教育
▼同年10月、被告人(保阪注・鈴木啓久元中将)はまた配下の第一連隊と騎兵隊に命じ、河北省灤県潘家戴荘において血なまぐさい集団虐殺をおこない、棍棒でなぐる、銃剣で突く、生き埋めにする、焼き殺すなどの野蛮な手段でわが平和的住民戴国礼、馬文煥、斉盤成、戴福増ら1280余名を惨殺するとともに、民家千余戸を焼き払い、潘家戴荘虐殺事件をひき起こした。
このさい、周樹恩の妻高氏ら63名の妊婦が斬殺され、多くの妊婦が胎児をえぐりだされ、戴前昌の孫、周樹珍の娘ら19名の嬰児が母親のふところからもぎとられ、地面にたたきつけられて殺されている。
▼1939年1月から1945年6月までのあいだ、被告人(保阪注・藤田茂元中将)は連隊長、旅団長、師団長として、部下の将校にたいし、生きた人間を「標的」として兵士の「度胸だめし教育」を実施せよとつねに訓示をあたえた。とくに彼が師団長になってからは、生きた人間を「標的」として刺突教育を実施するよう、いよいよ頻繁に強調した。
被告人のこの犯罪的な訓示のもとに、彼の配下の部隊は1945年5月から6月までのあいだ、山東省の蒙陰、沂水などの県で、わが捕虜と平和的住民趙遵起ら前後100余名を殺害している。
また被告人は配下の部隊にたいし「捕虜は戦場で殺し、これを戦果に計上すべし」と命令した。
■非戦闘員を面白半分に殺害していった
▼1945年3月、被告人(保阪注・佐佐真之助)は師団長として配下の部隊を指揮命令し、湖北省の襄陽、樊城、南漳などの地区で侵略作戦をおこなったさい、凶悪きわまりない手段でわが平和的住民潘玉山、趙順烈ら90余名を殺害した。そのうち、南漳県武安堰付近では、婦人、子供、老人ら12名を残酷にも絞殺した。
襄陽城付近の王家営村では、わが平和的住民18名を手のひらにはりがねをつき通して数珠つなぎにし、樊城の上福音堂のそばにおいて銃剣でその全部を突き殺した。襄陽市でもわが平和的住民30余名をはりがねでしばり、河のなかに突き落とした。
そのうち胡兆祥、董長義ら5名が難をまぬがれたが、周光早、胡天福、余老五ら20余名は全部、溺死している。しかもこの襄陽市では、部下が婦人を強姦するのを放任し、甚だしきにいたっては輪姦のあげく死にいたらしめた。
このような内容が次つぎに記載されている。“輝ける皇軍兵士”は日中戦争下でなぜこういう蛮行に走ったのだろうか。戦闘中に戦闘員を殺害するのなら、まだいいわけもたつだろうが、起訴状でみるかぎり、婦女子や老人、少年、幼児を面白半分としかいいようのない手段で殺害している。なぜこんなことになったのか。昭和陸軍はどうしてこれほど退廃してしまったのか。

■裁判から35年、戦犯の1人が語ったこと
平成3年(1991年)6月上旬の昼下がり、東京・銀座は人で埋まっていた。梅雨だというのに、まるで真夏のような一日、私は四丁目の服部時計店の前で鵜野晋太郎に会った。
敗戦後、シベリアに抑留されて5年、さあ日本に帰れるかと思ったら、こんどはハバロフスクから列車で他の974人とともに中国に送られた。中国で戦犯として裁かれることになったのである。
列車が中国に向かっていると知ったとき、鵜野は自らの生をあきらめた。中国戦線で蛮行を働いたという負い目があったからだ。この撫順戦犯管理所に収容されているときに精神的緊張と拘禁生活で視神経をやられた。このため20センチほどまで近づかなければ相手を見分けることができないといっていた。
■「あのころはお国のためだと思っていた」
鵜野は、約束どおり胸ポケットに赤いハンカチをさして、私を待っていた。
私は鵜野と何度か電話で話をし、これ以後も何回か会うことになる。このときは71歳であったが、口ぶりには青年将校のメリハリがのこっていた。商社勤めのあと、定年後はのんびりと2人の子供とともに余生をすごしているという。
しかし、ひとたび戦時下の従軍時代の話になると、きわめて熱っぽい口調になるのである。
「あなたにいろいろ日本兵の行った蛮行を話すことを決意したのは、われわれの世代はあの戦争で人間としてあるまじき行為を働いたという自責の念があるからだ。蛮行とか残虐行為というのはいまになっていえることで、あのころはこういう行為こそ、お国のためだと思っていた。その錯誤をあなたたちに知ってほしいし、もう二度とあんなことを繰りかえさないとあなたたちも肝に銘じてほしいと思っているからだ」
鵜野は、大柄な体をふるわせて何度も自らの真意を繰りかえした。
■部下たちに臆病でないと証明する必要があった
「日本軍はなぜ、中国大陸であれほどの蛮行を働いたのでしょう。理由はどこにあると思っていますか、自らの体験をとおしてですが……」
私の問いに対する鵜野の答えは明瞭であった。
「一つは日本陸軍の制度に問題があったこと。士官学校出身者が牛耳り、そこにみごとなまでのヒエラルキーができ上がっていたことだ。このなかで一歩でも二歩でも階級が上がるには目立つことをしなければいけなかったんだ。二つ目は士官学校出身者には政治教育が施されていなかったから、彼らは政治と軍事の関係が理解できなかったことだ。三つ目には、これは体験的にいうけれど、新任の将校は兵士の前で憶病でないことを示すために、中国人を試し斬りしたり、拷問を加えて軍人らしいところをみせなければならなかった……」
昭和12年7月7日の日中戦争勃発以後、日本は中国大陸に大軍を送りこむ。その数40万である。このときに送られた兵士のなかには妻帯者が数多くいる。鵜野にいわせれば妻帯者は独身の兵士よりも性的蛮行に走ったという。
日中戦争が長びき、やがて太平洋戦争が始まると中国大陸の精鋭部隊は南方に送られ、兵士の質は著しく低下していき、蛮行になれ親しむ空気が充満したともいう。
■捕虜の「しゃれこうべ」を求めた軍医
古参兵のなかには殺人のプロ、泥棒のプロ、放火のプロを自称するものがあらわれ、それを押しとどめる軍規はもはや機能しなくなっていたとも証言するのである。鵜野の口から漏れてくる蛮行は、平時においては狂気の沙汰としかいいようがないケースが多い。
たとえばこんな話がある。
軍医が次の転任地が決まったといって、第三十九師団第二百三十二連隊本部の捕虜収容所長兼情報将校の鵜野のもとにやってくる。「今晩、一杯どうか」という誘いである。それがどんなことを意味しているか、鵜野は知っている。しゃれこうべが欲しいというのである。
翌日、抗日的態度をとっているという理由で捕虜の一人が斬殺される。首をはねる。それを天日で乾かす。顔面の肉を中国人捕虜にはぎとらせる。むろん捕虜は泣きながらこの仕事をつづける。そのあと何日か干して、頭骨をやはり捕虜に磨かせるのだ。
そのしゃれこうべを箱に詰め、贈り物として軍医の荷物のなかに入れる。このしゃれこうべは時間がたてばたつほど、異様に輝いてくる。リンが含まれているからだという。
■息子に自分の蛮行をすべて明かした理由
平成に入ってまもなくのころ、鵜野は、その当時の軍医の一人と45年ぶりに会った。「あれは日本に持ち帰ってどうしたのか」と尋ねると、その軍医(当時は開業医)は「診察室に飾ってあるよ」と平然と答えた。そういうことに神経がマヒしたまま、この45年間、医療活動をつづけていることに、鵜野は絶句してしまった。
「旧日本軍は末期になればなるほど、ますます異常集団になった。これといった理由を一つだけ挙げろといわれても、私も困ってしまうが、ただ一ついえることは、旧日本軍の腐敗退廃した部分を国民的規模で検証しなかったことの罪は大きい。私は、私のなしたこと、旧日本軍の犯した過ちを、息子が大学生になってから正直にすべて語った。ひでえ親父をもったものだと息子たちは悩んでいる。しかし、息子はそのことによって二度とこんな苦しい思いをしないように、いかなる戦争にも反対してくれると思う」
開業医の診察室にいまもなお飾られている中国人捕虜のしゃれこうべに象徴されるように、現在(平成11年)に至っても日本の戦争の総括はあいまいなままである。
※登場人物の年齢、肩書きなどは著者の取材当時のものです。

----------

保阪 正康(ほさか・まさやす)

ノンフィクション作家

1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。

----------

(ノンフィクション作家 保阪 正康)
編集部おすすめ