太平洋戦争は旧日本軍による真珠湾攻撃から始まった。この奇襲を指揮したのが、連合艦隊司令長官の山本五十六だ。
「軍神」と称されたこの人物の死に際には、不可解な点があるという。ノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 上』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第4回/全4回)
■アメリカ軍に歯が立たない日本海軍
昭和18年(1943年)2月27日、大本営政府連絡会議のあとに始まったのが、「八十一号作戦」である。この作戦は、東部ニューギニアに対するアメリカ軍の攻撃を迎えうつための日本軍の補給作戦だった。しかもこの作戦は、東部ニューギニアをアメリカ軍にわたせば、やがてラバウルに進出してくると予想されたので、日本軍にとっては重要な作戦だった。
だが兵員(第百十五連隊など6900人)と軍需品、兵器、食糧などの輸送船はアメリカ軍の攻撃を受け、東部ニューギニアに上陸することはできなかった。実に3664人の兵員と軍需品、兵器などが海中に没したのである。「八十一号作戦」はあまりにも惨めな敗北という結果になった。
陸軍側は、海軍の軍事力に疑問をもつことになった。兵員や軍需品を運ぶ輸送船があまりにも簡単にアメリカ軍に叩かれるからである。陸海軍の統帥部の幕僚は、相互の意思疎通が必要と考え、まず南東方面でどのような作戦を行うかを話し合った。こうしてまとまったのが、「南東方面作戦陸海軍中央協定」である(3月25日)。

■南東方面の主導権をかけた「い号作戦」
この協定には連合艦隊司令長官・山本五十六の要望で、ソロモン方面のアメリカ軍航空基地や艦船を攻撃して、アメリカ軍の爆撃機に打撃を与えるという一項が盛りこまれた。山本はなんとしてもラバウルを死守しなければと考えたのだ。この作戦は「い号作戦」と名づけられた。
4月5日から10日まで、ソロモン方面(とくにガダルカナルの航空基地)を攻撃するのをX戦、4月11日から20日まで東部ニューギニアのポートモレスビーを攻撃するのをY戦と称した。この作戦を見届けるために、山本はトラック島に在泊する連合艦隊旗艦武蔵に置いた連合艦隊司令部をラバウルに移した。
山本は、アメリカ軍の反攻をくい止めるにはこの作戦を成功させる以外にないと考えたし、もしこれに失敗すれば、日本軍は完全に南東方面での主導権を失うといった危惧もあった。
加えて、山本には陸軍に対する対抗意識もあったろう。このころ陸軍の幕僚は海軍に対して批判的な言を吐くようになっていたが、それも不快であったはずだ。
■山本五十六は死に場所を求めていた?
この期、山本は「大東亜戦争」に勝ち抜くための象徴的人物であった。
その山本の真の胸中を陸軍側で理解していたのは、昭和16年に陸軍を予備役となった石原莞爾だったといえるだろう。このころ石原は国防研究会や東亜連盟を主宰していたが、東條嫌いは依然として強く、「東條幕府政治は日本の汚点」といった言をあからさまに吐いていた。その石原の秘書役だった高木清寿は、妻が山本五十六の姪という関係もあって、2人の軍人を直接知っていた。

その高木は平成5年(1993年)当時86歳で、横浜市に居を移していたが(宮城県鳴瀬町〔現・東松島市〕から移転)、次のような証言をするのである。その口調はいまなお哀惜に満ちている。
「石原将軍はしばしば私に漏らしていましたね。ああ山本さんは苦しいだろうなあ、あの人は戦争の前途がわかるから、いまは死に場所を求めているんだろうなあ、というんです。石原将軍は山本元帥に心底から同情していましたね」
山本は、戦争の前途に暗雲を感じていて、死に場所を求めていた、と石原は案じていたのである。
■「誇張された戦果」が運命を狂わせた
X戦は予定どおり行われた。7日から14日までつづいたが、この作戦には日本軍は682機が出撃している。そして、アメリカ海軍の巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、輸送船25隻、それに飛行機134機を撃墜したと発表したのだが、これはあまりにも過大な数字であった。
駆逐艦、油槽船をそれぞれ1隻、輸送船2隻を撃沈したが、あとは輸送船、給油艦など3隻を大破し、飛行機は12機を撃墜したにとどまった。逆に日本軍は21機の飛行機を失っている。
日本軍の戦果が過大だったのは、パイロットの自己申告のせいであった。アメリカ軍はパイロットの自己申告に加えて、戦闘のあとに戦果を確認する飛行機を飛ばして写真撮影などで最終的な彼我の損害を確認していく。
日本にはそういう余裕はなかった。
パイロットの心理として、つねに自らの機の攻撃によって相手側に打撃を与えたいという願望がある。しかも基地に帰ったとき、パイロットたちは競って戦果を誇大に報告する。その数字がときにそのまま使われてしまうのであった。このときもその弊があった。
そして山本は、この過大な報告によって命を失うことになるのである。
■山本機は火を噴いてジャングルに墜落
4月18日午前6時5分、山本はこの作戦が成功したと信じ、前線の将兵を激励するために、以前から計画していた視察にラバウル基地を飛びたった。山本は一式陸攻機に、参謀長の宇垣纏はもう1機に、そして6機の戦闘機が護衛にあたりながら、最初の視察地であるバラレ基地に向かった。
山本はこの視察の途次に、一行の日程を暗号解読したアメリカ軍の戦闘機の待ち伏せにあい、戦死してしまうのだが、この経緯を改めて検証していくと、陸軍と海軍の対立の構図が浮かんでくる。この構図こそ、昭和陸軍と昭和海軍の間の深い溝を示しているのである。
まず山本の乗った一式陸攻機の様子を具体的に語っておこう。
山本機(一号機)には、連合艦隊軍医長の高田六郎少将、副官・福崎昇中佐、航空甲参謀・樋端(といばな)久利雄中佐と7人の操縦要員が乗っていた。
午前7時40分ごろにブーゲンビル島ムツビナ上空で、山本の前線視察の暗号を解読していたアメリカ海軍の戦闘機(P38十二機編隊)と交戦となり、山本機は火を噴いてジャングルに墜落した。この墜落で山本は戦死したのだ。
■“軍神”の死は日本国民に絶望感を与えた
しかし、〈山本の戦死〉は、国民の士気を下げるとあって、しばらくは伏せられていた。だが5月21日になって、大本営は、「連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は本年四月前線に於て全般作戦指導中敵と交戦飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり」と発表した。そして、この発表は国民に絶望感を与えることになった。
山本の名は真珠湾奇襲攻撃の成功以来、国民にとって“聖戦完遂”のシンボルの意味をもった。それが欠けるというのは、戦争の前途に漠然とした不安をもつことでもあった。それでも「飛行機上にて壮烈なる戦死」をとげたという大本営発表の一節は、いかにも“軍神”にふさわしいとのイメージを与えたのだ。
だが山本は実際に「飛行機上にて壮烈なる戦死」をとげたのだろうか。このことをまず検証してみなければならない。
『山本元帥国葬関係綴』という厚さ7、8センチの資料が存在する。防衛庁戦史室の資料の山に眠っていた。
私は平成4年(1992年)7月のある日、昭和史の資料を長年にわたって吟味している研究者から、この資料の存在を知らされた。
そこで閲覧してみた。資料の最初のページには、「海軍省副官が整理し遺したものであり、山本五十六元帥の戦死から国葬までの各種記録である」と防衛庁の戦史編纂官によって記載されている。
■事故調査報告書は「取り扱い注意」
この資料の第三項に、南東方面艦隊司令部による「事故調査概報」(昭和18年4月22日)という書類が綴(と)じられている。「軍機」の上に「秘人」という大きな印も捺してあり、加えて「取り扱い注意」という但し書きもある。つまり高度の秘密報告だから、この取り扱いには注意を要するという意味になる。
「事故調査概報」の第二として、「捜索状況」という項目がある。ここでは海軍の捜索隊が、ブーゲンビル島の「アコ」村に向かって捜索をすすめる経緯が書かれている。
海軍の捜索隊は、陸軍の第六師団第二十三連隊砲中隊歩兵少尉浜砂盈栄を指揮官とする一隊に現場発見の報を聞いたとある。つまり第一発見者は陸軍の兵士だったのだ。
■左手に軍刀をにぎり、右手を添えていた
さて、山本が墜落時に死亡していなかったと窺わせるのは、「三、遭難現場附近の状況」の報告文である。別図として、「遭難現場ノ状況」という図が添付されていた(画像1)。
画像1図のAは山本、Cは軍医長の高田、Eは福崎、Fは樋端を指している。①から⑥は搭乗員たちである。
南東方面艦隊司令部のこの調査概報のなかの「遭難現場附近ノ状況」は、この司令部が責任をもって海軍省に報告した資料だが、その第一次報告によれば、山本は軍刀を左手ににぎり、右手をそれに添え、座席のクッションに身を載せ、左半身を下にして横たわっていた。左胸部に「敵弾ガ当ツタモノノ様デ」血が流れていたというのである。
さらに軍医長や副官、参謀などは、腐敗が激しく全身に蛆がわいているというのに、山本だけは「口ト鼻ノ附近」にわずかに蛆がわいているにすぎないのだ。4人が墜落時にすでに死亡して機外に身を投げだされていたとするなら、山本一人が左手に軍刀をにぎり、右手をそれに添えるというようなことがありうるだろうか。
しかも軍医長が山本の1メートルほど離れたところで大の字に横たわっているというのは、山本の生命を案じ、その身を守ろうとし、やがて自らの生命が尽きてしまったとも推測できる。
■「即死ではなく生存していた説」の信憑性
山本の肉体の一部にしか蛆がわいていなかったというのは、山本はこの4人のなかでも最後まで生存していて、やがて重傷の身が死亡につながったとみるべきではないか。
山本の乗った一番機が撃墜されたのは4月18日の午前7時40分ごろ、陸軍の捜索隊が発見したのは19日の午後2時ごろといわれるし、そして海軍の「アコ」隊は20日の夕方に現場に入ったが、山本は少なくとも「ある時期」までは生存していたと、南東方面艦隊司令部の資料は物語っているのではなかろうか。
山本は現在にいたるも人間的魅力に富む軍人として語り継がれている。昭和の軍人のなかでもっとも人気があるといっていい。そうした書のなかでも、撃墜されたあと生存していたと説く書も少なからず存在するのだ(たとえば、蜷川親正著『山本五十六の最期』など)。
もし撃墜時に生存していたとするなら、これは海軍省や軍令部にも責任が及ぶ。つまりアメリカ軍と戦っている最高司令官を救出できなかったという一点で、海軍全体の問題になる。とくに第一根拠地司令部は直接に責任をとらなければならないのだ。
だからこそ、どうしても飛行機上で即死していてほしい、というのが、この司令部の、そして海軍上層部の暗黙の了解になったと、私は推測する。
■第一発見者の陸軍兵士はどうなったのか
つけ加えれば、海軍省副官の手によってまとめられた書類には、二番機に乗っていた参謀長・宇垣纏の、前線視察前の山本の言行についての報告もおさまっている。
そのなかには「長官の態度に若干の変化を見受けられたり」とあり、出発前日に遺品処理について副官に書きのこしたり、頼まれていた揮毫をすべて書いたり、山本は出発の日が近づくにつれ、「相当数の信書を認(したた)められたり」という状況だったと列記している。
山本は、前述の石原莞爾の推測どおり自らの死に場所を求めていたというべきであろう。
山本の死体第一発見者・浜砂盈栄は、現在生存しているのだろうか。海軍の象徴的存在を発見したことにより、陸軍内部でどのような扱いを受けただろうか。浜砂は陸軍の兵士ではあるが、海軍側からどういう制約を受けることになったか、それが明らかになれば、陸軍と海軍の対立の一端が垣間見えてくるのだ。
私は戦友会などを通じて、その消息を求めたのだが、浜砂は昭和60年(1985年)に宮崎県の病院で病死していることがわかった。
だが宮崎市で発行されているデーリー紙に、このときの模様を詳細に語っている。それが昭和56年8月14日付の紙面に掲載されている。
■「彼の人生は大きくかわってしまった」
この取材を行ったのは、興梠敏夫記者で、平成6年(1994年)時には、宮崎県高千穂町に住み、宮崎県民俗芸能緊急調査詳細調査員、高千穂町文化財保護調査委員などをつとめていた。興梠によると、浜砂の人物像は、
「私の取材当時71歳でしたが、苦労を重ねてきた人物という感じで、いつも笑顔を絶やさなかった。叩き上げの将校でしたから、ずいぶん苦労もあったようですが、そういう話はあまり口にしませんでしたね。山本元帥の第一発見者にちがいはないのに、そのことを大仰に語るということはありませんでした。だが、第一発見者ということで彼の人生は大きくかわってしまったといえるようです」
興梠の証言では、浜砂の山本機第一発見のプロセスはすでにこれまで記述した資料と同じ内容であった。
ただ浜砂を隊長とする捜索隊は、遭難機が山本五十六の一式陸攻機だとは知らなかった。
その証言内容を前述の紙上から引用する。
■左手の欠けた指2本で身元に気づく
「山本大将は機の胴体から少し離れた所で、座席に腰をかけたそのままの姿で、座席ともども胴体から抜け出たかっこうで戦死されていました。軍刀を両膝の間に立て、両手は刀の束頭を強くにぎり、その上に頭を伏せておられました。
服装はあとで知りましたが、海軍の第三種軍装で、帽子はありませんでしたが、靴は半長靴で、エリに大将の襟章、胸に沢山の略綬がついていました。
一番印象的だったのは、両手の白手袋です。妙にいまでも心に残る真っ白な美しいものでした。
胸のポケットに手帳が見えたので恐縮しながらも、一応確認の意味で取り出して開いてみると、表紙の見開きに『山本五十六』と署名があり、次の第一ページからは明治天皇と同皇后の御製が数首。それに万葉(集)の一首。
けふよりはかへりみなくて大君の

醜(しこ)の御盾(みたて)と出立つわれは
キレイな書体で書き止めてありました。
あるいは――と思い、左手をみると指の2本が切り取られ縫い閉じてあり、山本大将が日露戦争で砲弾の破片で指2本を失っていることを聞いていたため、この遺体は山本五十六大将だと初めて知りました。
さらに2人の参謀肩章をつけた中佐や兵曹長の遺体を全部で11体収容し、椰子を伐って遺体安置の棚を作り安置しましたが……中国大陸以来、いかに戦死者の遺体取り扱いに動じなくなっているとはいえ、この方が誰一人知らぬ者もない連合艦隊の司令長官・山本大将だと知ると、身も心もおののきました」
■捜索隊員たちは次々と激戦地に送られた
浜砂ら捜索隊は、山本五十六とわかった段階で異様に緊張している。その死体を目のあたりにして、誰もが言葉を失っていたのだ。彼らの証言からは、山本五十六が墜落時に生存していたか否かは不明である。
浜砂らは連隊本部に向かう途次、海軍の捜索隊(佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第一中隊第一小隊、隊長は吉田雅雄少尉)と樹林のなかで出会う。浜砂が「現場発見」と告げると、捜索隊はすぐに「生存者は?」と尋ねている。浜砂らはこの一隊を現場に案内して、山本五十六と随行将兵合わせて11人の死体を海軍側にわたしたわけである。
先に紹介した南東方面艦隊司令部の「事故調査概報」は、この海軍捜索隊の動きを中心に書かれている。
浜砂のもとには、日を置かずして連合艦隊司令部の渡辺安次参謀から毛筆の感謝状が届いている。それを浜砂は終生大切にしていた。この感謝状は渡辺個人のものだったが、炎天下での捜索の労をねぎらったあと、末尾に次のような表現がある。
「末筆ながら征戦完遂の為、益々御奮闘祈上候。尚本件に関しては大本営より発表ある迄、厳秘に附せられ居り候間、可然(しかるべく)了知の上機密漏洩の事なき様御配慮を得度(えたし)」――。つまり口外はまかりならんというのであった。
浜砂らの捜索隊員は、このあとすぐに内地に戻されている。その後しばらくは憲兵隊の監視付きになった。そのためにブーゲンビル島での激戦には加わらず命拾いをしたということになる。しかし、捜索隊員たちは、昭和18年秋以後、相次いで激戦地に送られた。
この歴史的事件にであうことで、むしろ陸海軍指導部から忌避されるようになったのである。
※登場人物の年齢、肩書きなどは著者の取材当時のものです。

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保阪 正康(ほさか・まさやす)

ノンフィクション作家

1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。

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(ノンフィクション作家 保阪 正康)
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