大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)の大きな山場となる老中・田沼意次(渡辺謙)の息子・意知(宮沢氷魚)の死。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「江戸城内で意知に斬りかかった佐野政言の動機には諸説ある。
いずれにしても明確な殺意を持っていたことは確かだ」という――。
■江戸城内で意知が…、幕府を揺るがした大事件
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)において老中・田沼意次(おきつぐ)を演じているのは、渡辺謙さんです。そして意次の子・意知(おきとも)を演じているのが宮沢氷魚さんであります。その意知が吉原遊郭に通い、主人公の蔦屋重三郎(横浜流星)とも交流を持ったというのはドラマの創作ですが、蔦重の生きた時代には、江戸城内で意知が暗殺されるという幕府中枢を揺るがす大スキャンダルが起きました。もちろんドラマでもその事件は描かれるようです。
意知が意次の子として生まれたのは寛延2年(1749)のことでした。その前年、9代将軍・徳川家重に引き立てられた意次は小姓組番頭に昇進、御用取次見習の役職を兼任しておりました。意次が目覚ましい出世を遂げていく前段階と言えるでしょうか。意次の正室は伊丹直賢(伊丹家は元来は紀州藩士であったが、将軍・徳川吉宗の時に幕臣となる)の娘でした。
■まだ家督を継いでいないのに…異例の出世
意次には後妻もおり、それが黒沢定記の娘です。黒沢家は大番組の番士の家でした。この黒沢定記の娘と意次の間に生まれたのが長男・意知だったのです。
ちなみに意知の正室は松平康福の娘。康福は石見国(島根県西部)浜田約5万の譜代大名であり、意次より先に老中に就任しています。意知は明和元年(1764)、10代将軍・徳川家治に初お目見え。意次の後継者として認知されます。
その後、意知は明和4年(1767)に従5位下、大和守となり、天明元年(1781)には播磨守、翌年には山城守となっています。天明元年には譜代大名が老中へと上り詰めていくその端緒とされる奏者番(江戸城中の武家の儀式・典礼に関する職)に就任していますが、まだ家督を継承していない者がそれに就任するのは「例外中の例外」と評されることもあります。天明3年(1783)、意知は部屋住の身で若年寄(わかどしより)(老中に次ぐ重職であり、旗本や老中支配以外の諸役人を統轄した)となりますが、そうした先例はありませんでした。異例ということです。
父・意次が老中となるのが安永元年(1772)のことであり、意次が失脚するのが天明6年(1786)のこと。いわゆる「田沼時代」の後半に意知は若年寄に就任したのです。異例と言うと、父が老中、子が若年寄というのも異例でした。意次の権勢が続いていたならば意知がいずれ老中になることは確実だったと言えるでしょう。

■父・田沼意次の「七光り」で優遇された
若年寄は月番(毎月交替でそのうちの1人が諸般の政務を担当し、他の者はこれを補佐する勤務方法)でしたが、意知はこれを免除され、奥勤めを時々するように命じられています。これも意次の後継者ならではの優遇でしょう。部屋住みの身でここまでの出世をするのは父・意次の権勢があったればこそ。意知は親の七光をものすごく受けていたことになります。
将来が有望視されていた意知ですが、突如、暗転します。それが天明4年(1784)3月24日のことでした。同日の昼頃、意知は同じ若年寄の同僚・太田資愛(遠州掛川藩主)、酒井忠休(出羽松山藩主)らと共に江戸城を退出しようとしていました。老中の父・意次は既に退出しています。意知らが新番組(将軍の警護を職掌とした)の詰所の前を通りかかった時に事件は起こりました。
■意知暗殺の瞬間、江戸城内でのドキュメント
それは午後1時頃だったとされますが、番士の旗本・佐野善左衛門政言(「べらぼう」で矢本悠馬が演じる)が突然、意知に斬りかかったのです。番所の詰所には佐野だけがいたわけではありません。5人の番士の中から佐野が突然抜刀して走り出し、意知を袈裟懸(けさが)けに斬ったのです。
佐野が所持していた刀は粟田口忠綱の作と言われています。
佐野の攻撃に対し、意知は脇差を抜きませんでした。殿中だったからです。鞘(さや)で佐野の攻撃を受け止めたので、意知は斬られることになります。斬られても意知はその場で倒れ込まず、近くの桔梗の間に後ずさりしながら逃げるのでした。佐野は意知を執拗に追いかけ、意知に致命傷を負わせます。ここで意知はうつ伏せに倒れ込みます。
そこに駆け付けてきたのが大目付の松平忠郷です。忠郷は背後から佐野を組み伏せます。そして一説によると柳生久通(目付)が佐野から刀を取り上げるのでした(忠郷が刀を取り上げたともされます)。佐野の捕獲に成功したのです。
重傷の意知は抱えられて下部屋に連れて行かれました。
そこで医師による傷の手当てが行われます。しかし医師らによるしっかりした治療はできなかったと言われています(針と糸がなかったので傷口を縫うことはできなかったとされます)。
父・意次は神田橋の屋敷にいましたが、注進により意知の遭難を知り急いで登城したとされます。簡易な治療の後、意知は駕籠で神田橋の屋敷に運ばれました。
一方、意知に斬り付けて捕獲された佐野は蘇鉄の間に連行、押し込められます。その後、町奉行に引き渡され小伝馬町(東京都中央区)の揚屋(御目見(おめみえ)以下の御家人ほか未決囚を収容した雑居房)に入れられました。佐野は旗本(御目見以上)でしたのでこの扱いを不当と感じたかもしれません。
佐野の取り調べが大目付や目付により行われますが、今回の刃傷事件は佐野の乱心によるものとされます。4月3日、佐野に切腹が申し渡されました。揚屋座敷の前庭で切腹そして介錯が行われます。佐野はこのとき、28歳。意知は3月26日に佐野に斬られたことで死亡したとされます。

■斬った佐野は28歳、斬られた意知は35歳
佐野はなぜ意知に斬りかかったのか。1つの説に前述した乱心というものがあります。これは幕府評定所の判決ではありますが、本当にそうかは疑問です。意知が退出する際、彼1人ではなく、他の若年寄も一緒に歩いていました。佐野が乱心だったならば、他の若年寄も斬り付けられてもおかしくはないと思うのです。
ところが佐野はそれをせず、意知を標的にして執拗に追いかけて何度も斬り付けています。ということは佐野は意知もしくは田沼家に何らかの恨みを抱いており斬り付けたと考えた方が良いのではと筆者は思うのです。心神喪失の状態になって斬り付けたのではなく、しっかりした意志のもと佐野は意知を斬ったと感じます。佐野が意知に斬り付けたのは私怨ではないかとの説もあります。
■なぜ旗本の佐野は老中の息子を斬りつけた?
例えば意知に頼まれて佐野家の系図を貸したのに催促しても返却されない。佐野は何か役職に付けてくれるように田沼の用人に依頼し、賄賂(620両)を贈ったのに梨のつぶてだったこと。そうしたことの恨みが重なって佐野は刃傷に及んだともされますが、そのことが記された佐野の口上書は偽(にせ)文書とされており、私怨説もそのまま信じるのも困難です。

他には公憤説もあります。田沼意次・意知親子が権勢をふるい改革を行っていくことを快く思わない人々もおり、佐野もその1人であり、よって意知を殺したというのです。天下のために意知を殺したというのが公憤説です。
意次は老齢であるが、意知はまだ若年なので、いずれ父の意志を継ぎ改革を続けると思われるので、意知を殺したとの見解もあります。しかしこの公憤説も信憑性が高い史料に掲載されているわけではないので、私怨説と同じくそのまま鵜呑(うの)みにすることはできません。
佐野が乱心ではなく、明確な意志を持って意知を狙ったということはほぼ間違いないと思われるのですが、その理由については残念ながら未だ明確でないのです
■居合わせた幕臣は罷免、佐野を捕えたのは…
衆人環視の中で起こった刃傷事件だったこともあり、意知の側にいた人にはおとがめや処罰が与えられました。若年寄の太田資愛と酒井忠休には将軍の勘気が伝達され、将軍へのお目通りを禁じられます。意知と共に歩いていたので、事件発生時にしっかりとした対応を取らなかったのではと叱責を受けたということです。
目付の松平恒隆と跡部良久は事件現場に最も近い場所にいたということで罷免されてしまいます。2人よりも遠い場所にいた大目付の松平忠郷が駆け付けて佐野を取り押さえたことが2人にとって災いしました。2人が忠郷よりももっと早く駆けつけて佐野を組み伏せておれば、意知は致命傷を負わず助かったのではと思われたのです。
■意知が死ぬと、高騰していた米価が下がった
松平忠郷は70歳という老齢でしたが、佐野を取り押さえたということで高評価となり、200石の加増となっています。
さて徳本寺(東京都台東区)に埋葬された佐野の墓には多くの人々が詣でたと言われています。当時、大飢饉の影響もあり米の値段が高騰、人々は生活に苦しんでいました。ところが(一説によると)刃傷事件の翌日から米の値段が下がり始めたということで、佐野は「神様だ」との認識が生まれ、彼は「世直し大明神」として崇められたのです。一方、田沼意知の葬列には人々は石を投げ付けたとされます。米価の高騰にしっかりとした手を打たない「田沼政治」への不満が爆発したと言えるでしょうか。

参考文献一覧

・藤田覚『田沼意次(ミネルヴァ書房、2007年)

・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010年)

----------

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

歴史研究者

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

----------

(歴史研究者 濱田 浩一郎)

編集部おすすめ