6月下旬、日本経済新聞が、中国から日本を経由して米国に合成麻薬のフェンタニルを不正輸出している疑いがあるとスクープ報道し、大きな波紋が広がっている。リーダー格については米麻薬取締局(DEA)も追っているとし、新アヘン戦争の局面に入ったと言われている。
米国ではフェンタニルをはじめとする複数の合成麻薬により多くの中毒患者が出ており、死者も増えるなど社会問題となっている。米トランプ大統領は中国に対し「危険薬物を米国に送り込んでいる」と非難しているが、日経の報道によると、その密輸の拠点が日本(愛知県名古屋市)にあるという。中国の武漢市などには多数の化学品メーカーがあると言われ、そこから日本などを経由して米国に持ち込まれているという。今回発覚した問題は氷山の一角ではないかとの指摘もある。
この問題を聞いて筆者の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、中国の想像以上に深刻な景気の悪化だ。合成麻薬フェンタニルが中国から米国に流れていたことと、中国全体の不景気の波は、関係性があると感じるのだ。
■上海ですらブランドショップに客が来ない
筆者は6月上旬、数年ぶりに中国・上海市を訪れた。そこで出会った人々からも「景気が悪い」「お金を使わない人が増えた」「地方はもっとひどい状況だ」という嘆きや、それに基づいて悪化する、ギスギスした人間関係の悩みなどが聞かれた。上海市の繁華街にある飲食店などは、週末はそれなりに人が入っていたが、ブランドショップなどを扱う店では顧客より店員のほうが多い店もあり、閑古鳥が鳴いていた。2023年にオープンし、ブランドショップが多数入る商業施設「張園」に足を運んでみたところ、日曜日でもわずかしか人がいないことに驚かされた。
現地の人々によると、今年前半は、耐久消費財の買い替えなどの補助金が政府から出たことで、多少は消費が伸びたように感じたそうだが、それも焼け石に水で、トランプ関税の問題により、長期的な景気の悪化は避けられない見通しだという。私が上海を訪れた際は、合成麻薬の問題はまだ報じられていなかったが、帰国後、この件について、日本に住む中国人と話をしてみた。
■不景気で政府が「公務員禁酒令」を出すほど
「日本にはクリーンなイメージがあるし、在日中国人が多いから、米国への中継拠点としてちょうどいいと考えて、日本を利用する中国人がいてもおかしくない。中国では今、そこまで景気が冷え込んでおり、どんなことをしてでも金儲けをしなければと思い、悪事に手を染める人もいる。もしかして、民間だけではなく、もっと大きな組織が動いている可能性もある」。中国の不景気は、日本にも影響を及ぼしており、対岸の火事ではないと実感させられた。
筆者が中国を訪れた6月はちょうど大学の卒業シーズンでもあり、その中国人の姪も上海で上位に入る大学を卒業したばかりとのことだったが、案の定、就職は決まっていないという。不景気の波はありとあらゆるところに広がっており、人々の暮らしを圧迫しているということだろう。
そんな最中、今年5月、政府が「節約の実践と消費に反対する条例」の改正版を公布した。これは「公務員禁酒令」とも呼べるもので、公務員への接待(会食)は禁止。酒やたばこも提供してはいけないというものだ。また、従来は、組織内の上部機関が監督することになっていたが、今後はそれよりも上の、党の規律検査機関が監督することになったと定められ、処罰もより厳しくなった。
■公務員への接待、賄賂がとにかく多い
この改正版により、中国を代表する高級酒の茅台(マオタイ)酒の価格が暴落。主力銘柄の「飛天」の卸売価格は21年のピーク時から半値にまで下がった。
背景にあるのは、習近平政権が2012年以降、何度も取り組んできた「ぜいたく禁止令」だ。今回の改正版もその一環だが、中国ではとにかく公務員や官僚の立場が非常に強く、企業が何か事を動かそうとするときには公務員の協力が必要不可欠だ。それにつけ込んで、公務員が民間組織を訪れる際は接待をするのが慣例になっていたし、中国では常識といってもよかった。
業務はそこそこにして、宴会を開催し、その席では高級酒や高級料理をふるまうことが常態化しており、そこでは食事だけでなく賄賂もつきものだった。日本の時代劇で菓子折りの箱の中に小判が入っているというシーンがあるが、中国でもかつては月餅の箱の中に現金や金の延べ棒が入っていたのだ。
■「袖の下」が多い公務員は人気職だったが…
ある中国人から聞いた話によると、官僚の訪問に合わせ、地方都市ではホテルの最高級のスイートルームを用意、そこに官僚指定の肌触りのいい高級シーツや枕、お好みのプレゼントを準備し、官僚の好物である山海の珍味を取り寄せるということも日常茶飯事だそうだ。それを当然のこととして公務員の民間企業への要求はエスカレートし、癒着が加速した。中国の公務員の給料は民間の大手企業に比べて安いが、「袖の下」が非常に多いことから、公務員人気は高かった。
しかし、習政権になって以降、政府はこれらのこと(賄賂や癒着)を問題視し、腐敗を一掃することを決定。過去10年以上の間にわたって、たびたび「ぜいたく禁止令」を実践してきた。
今年3月、河南省では公務員が昼食時に白酒(バイチュー)を飲んで規律に違反しただけでなく、そのうちの1人が死亡したという事件があった。4月にも安徽省で地方幹部が昼から宴会を開き、ある幹部が食べ物を喉に詰まらせて死亡した。このように、公務員や官僚による酒にまつわる不祥事は頻繁に起きていた。そして、今回の「節約の実践と消費に反対する条例」の改正版が実施されることになったのだ。
国民は経済の悪化で生活に苦しんでいるのに、公務員は接待三昧で、酒もたばこもふるまわれる特権階級であることに国民の不満がたまっているからだ。そのため、今回の改正版は多くの国民に喜ばれているはず……と筆者は思っていた。
■「ぜいたく禁止」が中国全体を貧乏にしている
しかし、これについて、国民の中には意外な意見もあると聞いた。過去の「ぜいたく禁止令」では、高級食材のふかひれやアワビなどが市場で売れなくなり、飲食店の経営を圧迫したことがあった。今回の酒やたばこの禁止令でも、レストランの売り上げが減少したり、価格が暴落したりするという事態になっているという。飲食店だけでなく、製造元も大打撃を受けており、とくに地方経済への影響は大きい。さらに、公務員以外にも影響が出ている、というのは筆者の知人男性だ。
その男性は中国で有名な大手テック企業に勤務しているが、そこでは、取引先の民間企業との食事会も禁止との通達が出ているといい「正直、困惑している同僚が多いですよ」と話す。
今回の改正版は主に公務員に対してのものだが、その男性によれば「大手テック企業は数年前から『儲けすぎている』と政府から批判を受け、おとなしくしていたが、やはり、事業の許認可などでは政府との連携は避けられず、接待がなくなると、交渉が難しくなるという。
また、民間企業同士でも、打ち合わせの際に飲食することは、中国人の習慣のひとつなので、困るというのだ。最近では「同僚との食事も指摘されるかもしれないと思い、ランチは1人で食べましょう、と奨励する部署もあるほど。何事も極端な政策が多い中国だが、長年の習慣をやめるのは至難の業といえそうだ。そして、度重なるぜいたく禁止令の結果、なりふり構わず金策に走る延長線上に合成麻薬ビジネスがあるのだとしたら、中国の不景気は行きつくところまで行っていると考えざるを得ない。
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中島 恵(なかじま・けい)
フリージャーナリスト
山梨県生まれ。主に中国、東アジアの社会事情、経済事情などを雑誌・ネット等に執筆。著書は『なぜ中国人は財布を持たないのか』(日経プレミアシリーズ)、『爆買い後、彼らはどこに向かうのか』(プレジデント社)、『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか』(中央公論新社)、『中国人は見ている。』『日本の「中国人」社会』(ともに、日経プレミアシリーズ)など多数。新著に『中国人のお金の使い道 彼らはどれほどお金持ちになったのか』(PHP新書)、『いま中国人は中国をこう見る』『中国人が日本を買う理由』『日本のなかの中国』(日経プレミアシリーズ)などがある。
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(フリージャーナリスト 中島 恵)