中小企業が生き残る方法はあるのか。東京・墨田区に本社を構える松山油脂は、石けんを製造する小さな町工場から、グループ売上高100億円の企業に成長した。
社内の大改革を先導した5代目・松山剛己社長を取材した――。
■武器は、赤ちゃんも使える「無添加せっけん」
「以前の私は、石けんというと、からだをきれいに清潔にする生活用品、という認識しかありませんでした」
松山油脂の5代目社長・松山剛己(61)は20代当時の自身を振り返る。
同社の躍進となる原点は、墨田区の町工場で代々作り続けてきた釜焚き石けんだ。
1908年雑貨商として創業。終戦直後から伝統的な釜焚き製法で固形石けんを作り始めた。100時間もかけて丁寧に作るにもかかわらず、1個数円の工賃で下請けしていた4代目の父親。その背中を見て育った松山は、当初石けん作りに関心が持てず、5代目を継ぐという選択肢はなかった、と話す。
この石けんが、大量生産ではできないモノづくりの技が詰まった逸品と知ったのは、1994年に松山油脂に入社してからだった。
成分の98%が不純物のない石けん素地(純石けん)。残り1.2~1.7%は天然の潤い成分のグリセリンだ。ゆっくりと100時間かけて釜焚きするからこそ、肌に潤いが残り、つっぱらずに顔も洗える石けんが生まれる。肌の弱い人も、赤ちゃんも、お年寄りも使える石けんを父親が作っていた。

■自社ブランドがヒットし、売上高は25倍
この釜焚き製法で石けんを製造する会社は、国内で4、5カ所と先細りしていた。この状況を逆手に取って、他にはない唯一の石けんとしての価値を見出した松山は、一大変革を起こす行動に出る。
入社翌年の1995年、初めての自社ブランド「Mマークシリーズ」を打ち出し、「無添加せっけん」とネーミングして発売したのだ。山に見立てたMの絵にmatsuyamaの文字のロゴでおなじみの商品は、ロングセラーとして根強い人気を得ている。
そして今年、目標に掲げていたグループ売上高100億円に到達する。国内で年商100億円以上の企業は100社に1社(帝国データバンク「『100億企業』の実態調査」)。製造業の場合、100億円までに要する年数は平均55.7年だが、松山は30年で成し遂げた。
「30年かかるとは思いませんでした。もっと早く実現できるのではないかと考えていたのです」
松山は淡々と話すが、入社当時の松山油脂は社員約15人、パート約25人で売上は4億円強。ここまで会社を大きくする過程は、決して順風満帆ではなかった。
■商社から転身し、「都落ち」と揶揄された
松山は慶應義塾大学経済学部卒業後、博報堂に入社、4年後に三菱商事に転職し、世間一般でいうエリートコースを歩んでいた。
「三菱商事に転職して4年間いたのですが、とにかく向いていなかった。
成果を求められるのに、売上が上げられない。活躍できず壁にぶつかっていた頃に、父親から『廃業する』という電話があって、実家に戻ることにしました」
海外から安価な石けんが大量輸入され始め、価格競争で松山油脂は立ち行かなくなっていた。先行きを案じた父親は、自分の代で家業を終わらせると決意したのだ。
「廃業する」という父の一言に、子ども時代、仕事終わりの社員と一緒に入ったボイラー炊きの風呂、額に汗かいて働く社員の満足そうな表情、何よりもモノづくりが好きだった自分の姿が蘇った。自分が生まれ育った工場が消えていくことへの喪失感、と同時に工場を守ることへの使命感が湧き上がったという。
「もちろん、父親には反対されました。工場の仕事はそんな甘いもんじゃない。本当に継ぎたいのかどうか1年考えて、覚悟を決めてから、お前の話を聞くと言われました」
1年後、三菱商事に辞職届を提出した。気持ちの整理はついていたが、心の片隅ではレールから外れた負い目を感じていた。職場の同僚からは「あいつ、何かやらかしたのか」と噂され、大学時代の友人や先輩からは「町工場に戻るなんて、あいつは都落ちしたね」と揶揄されたという。
「悔し紛れから、彼らには『100億円企業になる』と豪語しました。自分のプライドから出た言葉でした」
■1年間、見習いとして修行することに
「目標売上高100億円、粗利益35%を実現する。
商品をブランド化する」
入社時、当時30歳の松山は、先代や社員にこう言い放った。松山いわく、後継ぎではなく、創業者の意識でやっていく強い信念の表れだったのだが、石けんの作り方すら知らない半人前が何をほざいているんだ、と周りの社員からの反発は当然あった。また、同業者からは「息子が勝手なことをしている」と非難された。
先代は息子の「真っ直ぐで熱しやすい」性格にあきれつつ、諭すことも注意することもしなかった。ただ、1年間、石けん作りの修行と工場の掃除を命じ、肩書は専務でも見習いとして厳しく接した。賞与はなく、年収は商社時代から約400万円減った。
■石けんの付加価値を20倍にする方法
石けん作りは、工場の釜場にある直径2メートルほどの釜に原料の油脂を入れ、加熱・攪拌しながら苛性ソーダ水溶液を加え、石けん素地を作ることから始める。釜から立ち上がる蒸気で、夏場には室温が40度近くに達するなか、4日間作業を続ける。
松山は作業着に着替え、ゴム長靴を履いて、朝から晩まで釜場で石けんを焚き続けた。肉体労働を辛いと思ったことはなかった、と松山は話す。むしろ、体を動かしたことで頭がクリアになり、会社の事業コンセプトについて考えをまとめていったという。
石けん1個を作って、工賃数円の厳しい世界。
下請けのままでは、100億円に到達するのは不可能だ。「会社の強みとは何か」「守るべき技術とは何か」の答えを探し、「無添加」をキーワードに付加価値を20倍にすることにたどり着いた。
■自社ブランドを一人で売り歩く日々
ゼロから出発した松山にとって、最初の5年が正念場だった。
1995年、若手社員を巻き込んで初の自社ブランド「Mマークシリーズ」を立ち上げたが、松山の計画通りには進まなかった。このブランドを中心に、商品を市場に流通させる展開のはずだった。しかし現実は、一人で店舗に飛び込み営業し、石けんのサンプルを手渡しして回る日々。お客さんと直に話すことも、バイヤーに直接営業することも当時は叶わなかった。
「商品開発から販売まで担い、直に消費者のもとへ商品を届けることができると甘く考えていました」
「生産者→卸問屋→小売業者」という長年続く商いの流れは、1つのブランド商品を立ち上げただけではびくともしなかった。このままの状態では成長はない。こう考えた松山は、その一歩として新ブランド・直営店を展開する別会社「マークスアンドウェブ」設立を計画した。
並行して、Mマークシリーズの商品を携えての飛び込み営業はあきらめずに続けていた。次第に、商品を気に入ってくれた販売員が、松山を化粧品担当のバイヤーにつないでくれるようになった。

足で稼いだ営業の成果は、売上に表れた。100万、500万、1000万円と好調に伸びていき、社内の松山に対する風当たりは和らいでいった。そんななか、父親の朝礼でのある語りかけが社内の空気を一変させ、松山や社員の背中を押した。
「船は乗り移るときが一番不安定で、当社は今がその状態だ。だが勇気をもって剛己の船に乗り移ってほしい。新しい船でこれからの未来をいいものにしていこう」
この言葉がなければ、松山の経営者としての成功はもっと先になっていたかもしれない。
2000年、松山は社長に就任した。
■目立つパッケージにして喜ぶのは誰か?
松山は「こだわりの人」だというのは、社員の評だ。商品のアートディレクションも、本社のオフィススペースのデザインも、松山のこだわりが反映されている。松山が考える商品デザインへのこだわりとは、「商品を前面に押し出して主張しない。お客様目線を常に大切にする」姿勢だという。
「商品パッケージの色や形、ラベルを例に取れば、棚に置いたときに目立つ色がいいと思うのは、売り手側の目線です。
お客様目線で見ると、それを望んでいるとは限らないのではないでしょうか。家に商品を置いたときに、インテリアの邪魔をしない、目立たないデザインのほうが絶対に空間になじむはずです。ですからあえて主張しない商品づくり、さりげないデザインを心掛けています」
特に、天然精油をベースに立ち上げたブランド「MARKS&WEB」の成功は、この「主張を前面に押し出さない商品づくり」が大きな要因になったといえる。
MARKS&WEBの直営店は、東京駅前丸ビルのわずか1.25坪の小スペースからスタートした。無名ブランドだったために、大型施設のデッドスペースしか借りられない制約を逆に利用した。アートギャラリーに見立てた店内で石けんを作品として棚に飾り、店名も商品名も英語表記で統一。シンプルなパッケージの商品は、周りの店のなかで存在感を放った。
1カ月の売上は300万~400万円を記録。小さなスペースでこれだけの売上を上げる店舗は注目を集め、これまで断られていた商業施設から出店の声がかかり、現在は全国81店舗まで拡大している。
■「使えばわかる」と自信満々な理由
「いい商品はそれ自体が語る」と、松山はよく言う。使い手が商品の価値を判断するから、売り手は強く主張する必要がない。裏返せば、それだけ商品に自信があるということでもある。
自信の根拠は「素材にまでさかのぼるモノづくり」だ。
自社運営の山神果樹薬草園(徳島県佐那河内村(さなごうちそん))で栽培・抽出した和柑橘の精油、エキスを使う。スキンケア商品の90%を占めるといわれる水は、富士河口湖工場(山梨県富士河口湖町)の敷地内に井戸を掘り、地下200メートルからくみ上げた富士山の伏流水を使用している。
■「自分は正しい」と過信した社長への忠告
「企画開発、原材料の調達、製造、品質保証、物流、販売の川上から川下まで、サプライチェーンを自前で網羅することで、お客様に商品を届けるスピードも、お客様の声を受けて製品開発するスピードも断然速くなる。それによって、多品種少量生産が可能になり、毎年15%の経常利益を上げることができるようになりました」
現在、Mマークシリーズ、MARKS&WEB、富士山の北麓の野草を活かした「北麓草水」、柑橘類の精油や果汁、リキュールをつくる「山神果樹薬草園」といったブランドを展開し、1000以上の商品を生産している。
その中で、起点となった石けん事業が占める売上の割合は11%。ヘアケア・ボディケアが54%、スキンケアが32%(同社公表)と、この2つで売上の大半を占めるまで成長した。
事業転換、組織改革と順調に歩を進めていたが、それに伴い大きな代償を払った、と松山は言う。
「経営の障害となる壁は外にあるとばかり思っていたのですが、自分の中に壁を作っていました。いつの間にか驕(おご)りが生まれていたのです。売上が伸びて業績がいいのに、社員が辞めていく。それでも去る者は追わず、経営者として自分は常に正しい、自分についてくれば間違いないと、過信していた時期がありました」
「ワンマン経営」を自覚したきっかけは、辞職した古株の社員からの忠告だった。
「今のまま強引なやり方をしていれば、社員はどんどん辞めていきますよ」
■みんなが働きやすい、風通しのいい職場へ
自分自身を変革すると同時に、社員にとって働きやすい環境をつくることを自らに課し、会社のビジョンの構築、働き方改革を矢継ぎ早に実行した。
2017年よりフレックス・コアタイム制、勤務地を選べる「勤務地限定制度」など順次8つの制度を導入。希望するアルバイト、パートを正社員として全採用。2019年4月から「社長」を含め管理職の呼称を廃止したため、新入社員からも「松山さん」と呼ばれている。
社員数は218人(2025年4月時点)に増え、部署ごとのつながりが希薄になるのを防ぐため、社員研修をリーダー、職種別に実施。バーベキューや食事会も開催し、社員が顔を合わせる機会を作っている。強制ではないが参加率は7割近く。松山の提案で、近所の肉屋へ揚げたてのコロッケやカツを買いに走り、ご飯を炊いてみんなで食事するということもある。
■「これからの30年を創るのは、次の世代」
実際、社員に話を聞いてみると、「働きやすい」「離職する人はほぼいない」と評価する声が上がった。そういう組織のバランスの良さも、同社を急成長させた要因の一つかもしれない。
一方、経営者としての意識改革はうまくいったのか、点数を付けるとすれば、の質問に対して、松山はこう答えた。
「私は先代である父親の社員との付き合い方、石けん作りへの真摯な姿勢を評価していて、父親はすばらしい経営者だと認めている。それと同じように、私の経営者としての点数は、次の代がつけるべきだと思います」
事業承継は数年前から進めており2027年末の引退を考えている、と松山は話す。すでにマークスアンドウェブの社長の座を退き、グループ全体の経営を任す次期社長を社内から登用するため、適材を選出していた。
業績好調な企業トップから「引退」の2文字を聞くとは予想していなかった。
「60歳を過ぎたので、身を引くべきだと考えています。30代で社長になったときは、30年後の会社を想像することができた。今、30年後の会社を思い描くことはできません。これからの30年を創るのは、若い世代の役割です」
■引退後に本腰を入れる「次の仕事」
適材の一人は松山の一人息子・駿佑(29)だ。当初、息子は後継ぎにならないと宣言し、起業の道を進んだ。それもあって、松山は会社を整理するために一時マークスアンドウェブの売却を進めていたのだが、息子が待ったをかけ、後を継ぐと言い出したという。
自身が経営する会社もあるため、すぐに松山油脂に入社するのでなく、社外取締役としてグループ全体を統括することを想定している。
まだ61歳、会社を次のステージに牽引する力があるのではないか、と問いかけたが、松山の決意は固かった。
「私は生まれも育ちも墨田区。戦争で焼けたこの地域には緑がないので、緑への枯渇感がすごくあるのです。だから、本社ビルの周りには緑を植え、富士河口湖に工場を持ち、徳島に農園も開いた。農園の周りにある自然や里山は人の手を介さないと守っていけないものです。僕の最後の仕事は、徳島の山神果樹薬草園に移り住み、自然や里山を守ること。地方創生や地域活性化に本腰を入れていきたいと思っています」

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松山 剛己(まつやま・つよし)

松山油脂社長

1964年生まれ。1986年、慶應義塾大学卒業後、博報堂入社。三菱商事を経て1994年、実家が営む松山油脂合名会社(現・松山油脂株式会社)に入社し、1995年に同社初の自社ブランド「Mマークシリーズ」をリリース。2000年、社長に就任するとともに、別会社としてマークスアンドウェブを設立し社長に就任。2002年マークスアンドウェブの第1号直営店を丸ビルに出店以降、全国に店舗を増やしている。2006年には松山油脂の工場を山梨県富士河口湖町にも構えた。また、2020年からは徳島県佐那河内村での事業を本格化。柑橘農園と、柚子の搾汁残渣を素材としたアルコールの醸造・蒸留・リキュールの製造設備をあわせ持つ山神果樹薬草園を運営している。

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(松山油脂社長 松山 剛己 聞き手・構成=ライター・中沢弘子)
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