戦後初の映画会社東映は時代時代でヒットを作ってきた。当初主流だった『宮本武蔵』『忠臣蔵』などに代表される時代劇の「形式的な殺陣」「様式美」に飽き足らなくなった観客に刺さったのが「任侠映画」だ。
高倉健という新スター誕生の契機となった『日本侠客伝』が生まれた背景を作家の野地秩嘉氏が紹介する――。
※本稿は、野地秩嘉『東映の仁義なき戦い 吹けよ風、呼べよ嵐』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■高倉健が役者として男を上げた映画
鶴田浩二主演『人生劇場 飛車角』のヒットに続けと当時東映東京撮影所所長(のち社長)の岡田茂が東映京都撮影所で撮ったのが『日本侠客伝』だ。主演は高倉健。映画監督の降旗康男は高倉に2年遅れて東映に入社している。その後、高倉作品を何作も撮っている。降旗は『日本侠客伝』について、こう言っていた。
「健さんが役者として男を上げた映画が『日本侠客伝』だった。本来、主演は中村(萬屋)錦之助(介)さんだったけれど、本人が『やくざ映画には出ない』と断った。それで健さんが主役になったのだが、弟分の健さんが主役なら、自分(中村)が助けてやらなくてはいけないと助演で出ることにした。この錦之助さんの芝居がよかった。それにつられて健さんも覚悟の決まった芝居をしたために『日本侠客伝』はヒットしたし、健さんの芝居も変わった」
ヒットの後、高倉健は東京撮影所が製作した『昭和残侠伝』『網走番外地』のふたつのシリーズに主演する。
任侠映画スターとしての始まりだった。
同時期、東京撮影所にニューフェイスで入った小林稔侍は専属俳優として撮影所に出勤していた。毎日、タイムカードを押して仕事をしていたのである。
小林の競争相手は大勢いた。
撮影所に「シーン8 仕出し(俳優)180人」と貼り紙がしてある。小林は貼り紙を見てから、助監督に「出してください」と申し出る。そして出演する。
現在なら大半は外部のプロダクションからエキストラを調達する。ところが、1960年代の東京撮影所では200人くらいの仕出し役者であればすべて東映専属の俳優でまかなうことができたのである。それくらい大勢の専属俳優、女優がいて、しかも、全員が主演スターになることを夢見て、頑張っていた。
ある新人俳優は少しでも目立たなきゃいけないと、群衆シーンの撮影ではいつもミカン箱の上に乗って目立とうとしていた。フィルムに映るためにライバルをかき分けて前に出る人間が集まっていたのが撮影所だった。

■18歳の大原麗子の言葉に衝撃を受ける
だが、気弱な性格の小林には人を押しのけて前に出ることなんて、到底できなかったし、やろうとも思わなかった。小林を買っていた監督、深作欣二は大声でハッパをかけた。
「稔侍(ねんじ)、映画は目立ってナンボの世界だ。なのに、なんだ。お前は後ずさりしてるじゃないか。後ろへ行くな。もっと前に出てこい」
だが、怒鳴られても、背中を押されても、それでも前に出て行くことはできなかったのである。そんな自分の姿勢に小林は「オレはダメだ」と思っていた。
ある日のことだ。仕事場の東京撮影所の所長室の前を通ったら、なかから少女の大きな声が聞こえてきた。
所長に詰め寄っていたのは18歳で東映に入社した女優、大原麗子だった。
「じゃあ、うちのママ、誰が養えばいいの! そんな金額じゃダメ」
小林は「ああ、契約の話をしてるんだ。
所長を怒鳴りつけるなんて……。なんてしっかりした子なんだ」と思った。18歳の新人女優が自分の稼ぎで母親を養っていくためには相手が所長であろうとなんであろうと、はっきりと主張していたのである。
一方、小林は俳優としての自信を持つことができず、仕出しの役しか回ってこない。契約金を上げろなんて考えたこともなかった。
「自分は俳優には向かないんじゃないか。他の仕事を見つけた方がいいんじゃないか」
撮影所で走ったり、転んだりといった仕出しの演技をしながらも、ついついため息が出た。酒も飲めない彼は下宿先に帰ってただ、布団に入るしかなかった。消極的な性格では役は回ってこない。小林の新人時代は高倉健のそれとはまったく違う区役所勤務の人のような平凡な毎日だった。
■尊敬していた高倉健の近くにいられた幸せ
小林が東映に入社したばかりの大原麗子を見かけた1965年にはすでに時代劇は下火になっていて、製作の主体は任侠映画に移っていた。そんな60年代は映画館へ行く観客がもっとも減った10年間だった。
特に1964年、東京オリンピックの開催で一般家庭へのテレビの普及は進んだ。東映だけでなく映画会社は軒並み減収に悩んでいた。だが、東映は映画では任侠映画に活路を見出した。『人生劇場 飛車角』『日本侠客伝』から始まった任侠映画は60年代後半、70年代初めまで続いた。1973年に『仁義なき戦い』がヒットするまで、任侠映画は東映を支えた。
バイオレンスと刺青の映画が観客と東映マンを鼓舞する一方、ボウリング場、タクシーなど日銭を稼ぐ事業に配属された社員は自分たちの持ち場で黙々と働いた。映画が好きだから斜陽の業界とわかって飛び込んだのだけれど、仕事自体は撮影とはまったく関係のない。そんな職場で働く人間の方が多くなっていった。それを考えると、小林はまだ幸せだったのではないか。主演の役は回ってこなかったけれど、毎日、行くところがあり、わずかとはいえ給料ももらい、そして、たまには尊敬していた先輩俳優、高倉健と話すことができた。悩んではいただろうけれど不幸な立場にいたわけではなかった。
■映画史でも類のない「待ってました! 健さん」の掛け声
「待ってました、健さん!」
「日本侠客伝」で一般のファンに演技を認められたのが高倉健だ。
だが本人は少しも自分の演技に満足していなかった。晩年まで親しくしていた札幌の寿司店「すし善」社長、嶋宮勤が「やくざ映画の頃から演技がうまかったですね」と話しかけたら、本人は「あんなもの演技でも何でもない。人に褒められるような芝居じゃない」と答えた。
しかし、学生、若いサラリーマンは満足していた。健さんファンは殴り込みのシーンになると「待ってました」「健さん!」とスクリーンに向かって声をかけたのである。
「観客がスクリーンに映る俳優に向かって叫ぶなんてことは、これまでにはなかった」(降旗康男監督)
高倉健は酷使されていた。同じようなストーリー展開の映画に出ることにも飽きて疲弊していた。眠ることもままならないスタッフを見ていて、「これじゃあ、まともな映画なんか作れるはずがない」と思うようになっていった。
東映をいつかやめようと考え始めたのは『日本侠客伝』『昭和残侠伝』『網走番外地』という3つのシリーズを掛け持ちしていた頃からだ。心身をすり減らし、映画の内容、質にも満足がいかなかった。
高倉は主役だったから「今のシーンをやり直したい」と言える立場にあった。だが、もし、撮り直しになったら、睡眠不足のスタッフが事故を起こして怪我をする。
それを思うと、撮り直しを要求することはできなかった。「健さんはねばるのが嫌いだ」「一発OKじゃなければ芝居しない」と言われるようになったのは、本人のわがままではない。高倉だって不本意な演技をそのままスクリーンに投影されるのは困る。しかし、不眠不休で働くスタッフを見ていると、「やり直し」を言えなかった。スクリーンに映った不本意な演技を見て、「あんなもん演技じゃないんだ」と語ったのはそのことが頭にあったからだ。映画はひとりで作るものではない。チームワークだから、主演スターはスタッフの体調までわかっていなくてはならない。
だが、本人が不本意と思った芝居でさえ、彼が出た映画はヒットした。彼を「大根役者」と呼んだ映画評論家は何人もいる。だが、その人たちは高倉が不本意な芝居をした映画を見たのだろう。また、そもそも「大根役者」の意味をわかっていない。大根はあたらない野菜であり、そこから「大根役者とはヒット映画のない役者」をいう。正確を期すると高倉健は大根役者だったことはない。
高倉の魅力は我慢に我慢を重ねたうえに立ち上がる、歌舞伎で言う「辛抱立役」の演技だった。任侠映画は時代背景が明治以降になっているだけで本質は東映の時代劇だ。ストーリーも出てくる人間たちも恋愛もコメディ要素も時代劇と変わらない。衣装は男女ともに着物で、女性は日本髪のカツラをつける。時代劇との違いは刺青師の仕事が増えることぐらいだろう。東映が任侠映画の量産に進んだのは時代劇の衣装、道具、スタッフがそのまま使えるからでもあった。
そして任侠映画の主役をやるようになってから、高倉は無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう私生活を送るようになった。笑わない男としての像が確立してしまったため、気を許した人間以外には笑顔を見せなくなった。映画スターの生活は気楽なものではない。
■「小林と呼び捨てにしてほしかった」
そんな高倉健の素顔を見ていた幸運な俳優が小林稔侍だ。
仕出しの俳優には前もって撮影スケジュールが届くわけではないから、掲示板を確認することが日課になる。
「今日はちんぴらやくざか」とわかったら、衣装部へ行って、やくざの服装に着替え、雪駄を履いて、撮影に備える。通行人だったら、サラリーマンの服を着て撮影の間、道を行ったり来たりする。毎日がその繰り返しだ。そんなある日、撮影所の廊下で高倉健とすれ違うことがあった。
目が合ったので、小林が頭を下げたら、すれちがいざまに「小林くん、頑張れよ」と高倉健がささやいた。
稔侍は天にも昇る気持ちになった。スターの高倉健が「自分の名前を憶えていてくれた」。しかし、ちょっと残念な気持ちもした。
「小林と呼び捨てにしてほしかった」
呼び捨てにされた方が親しい関係に思えたからだ。
後に彼は高倉のことを親しくなった人間だけに語るようになる。
「僕はあの人の地味なところが好きだった。親しくなってから、僕は稔侍と呼ばれるようになりました。健さんのことは旦那と呼びました。旦那から言われたことがあります。
『俺とお前は友だちだから、付き人みたいな真似だけは絶対にするな』と。健さんが手に持っていたバッグを『旦那、持ちましょうか』と言っても、そうはさせなかった。
仕出しの頃、他のみんなと健さんの映画に出ました。すると、みんな緊張するんです。任侠映画の当時、健さんにインスタントコーヒーを注いでもらうとします。現場で紙コップにですよ。すると、コーヒーを飲んでから、紙コップをスッと持ち帰ったやつがいるくらい、健さんは人気とカリスマ性があった。僕とでは月とスッポンですよ。それでもあの人、普段は自分を殺して歩いているから気づかれないことがある。
撮影所のなかをふたりで歩いていて、『稔侍さん』って、ごくたまに若い子に声をかけられることがあるんです。僕が多少、人に知られるようになってからですけどね。先に声がかかると、僕はもう地の底へ潜りたい気持ちですよ。すると、後で、『稔侍、お前、派手なんだよ。目立ち過ぎなんだよ』と怒られる。あの人、目立つのが嫌なんです。芝居でも前に出る芝居じゃないんです。必ずすっと一歩引いてる芝居をする。そうして、一歩引いて、周りを観察している」
小林は知らず知らずのうちに高倉健の芝居を真似するようになった。仕出し役者であり、有名な俳優でもなかったのに、さらに気配を殺した演技をするから、まったく目立たなくなった。
■名匠、深作欣二の怒り
稔侍が業界のスタッフたちに知られるようになったのは1975年の『新仁義なき戦い 組長の首』だった。主人公の弟分を演じた時である。
78年の高倉健主演の映画『冬の華』ではセリフはなかったが、高倉を慕う板前の役でスポーツ新聞に「小林稔侍が抜群だ」と批評が出た。本人は嬉しくなって近所の駅の売店まで走って行ってスポーツ紙を買い占めた。以後、バイプレーヤー、主演として映画、テレビで活躍した。高倉健の陰に隠れているが、小林稔侍は息の長い名優だ。それでも彼は前へ出る芝居はしていない。
小林が仕出しだった頃、深作はテレビ映画『キイハンター』(1968年~73年)を演出していた。『仁義なき戦い』を撮る前のことである。
深作が東京撮影所のなかを自転車に乗ってステージを移動していた時のことだ。照明部のスタッフが「深作さーん」と呼びかけた。
「深作さん、あんな小さいの(テレビ)ばっかり撮っていないで、早く大きいの(映画)撮ってよ」
そのスタッフは持ち上げるつもりで声をかけたのだが、深作は激怒した。小林は深作がそれほど激しく、真剣に怒った様子を初めて見た。深作は乗っていた自転車から飛び降り、自転車を道路にバシーンと叩きつけた。体を震わせて叫んだのである。
「お前、もう一度、言ってみろ。小さいのが撮れなくて、どうして大きいのが撮れるんだ!」
鬱屈していたこともあった。それでも深作はテレビをバカにしてはいなかった。映画もテレビも同じ映像の仕事だと誇りに思っていたのである。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)

ノンフィクション作家

1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「巨匠の名画を訪ねて」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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