太平洋戦争で激戦地となったのが、小笠原諸島南部にある硫黄島だ。アメリカ軍による攻撃が激化する中、島民たちは故郷を離れることを余儀なくされた。
北海道新聞記者・酒井聡平さんの著書『死なないと、帰れない島』(講談社)より、一部を紹介する――。
■小さな孤島に米軍の戦闘機が襲い掛かる
ウオオオオオオオン……ウオオオオオオオン……。
島民約1000人が豊かに暮らす南洋のパラダイスの青空を引き裂いたのは、不気味な金切り声のような空襲警報のサイレンだった。
1944年6月15日午後1時50分。米艦上機が南方からグワン、グワンとプロペラの轟音を鳴らしながら大挙して硫黄島に来襲した。その数、60機。爆弾投下や機銃掃射を繰り返した。
ドーン、バーン、ダダダ、ガガガ――。
耳をつんざく着弾の音は、主に島南部の千鳥部落方面から響いた。立ち上る無数の黒煙は、東京都の港区ほどしかない20平方キロメートル程度の孤島のどこにいても見えた。
米軍の狙いが千鳥部落近くに広がる飛行場だったのは明らかだった。
この日は、硫黄島からおよそ1000キロ南方のサイパン島の「D-day」(上陸作戦日)だった。
約6時間前、米軍はサイパン島に侵攻し、日本人の女性や子供らを巻き込んだ地獄絵図のような地上戦が始まっていた。サイパン島の日本側守備隊を支援する硫黄島の航空部隊や飛行場を壊滅させることはサイパンのD-dayの一環だった。
■人形を抱きしめながら慌てて防空壕へ
サイレン音が響いたとき、11歳の少女、奥山登喜子は千鳥飛行場から数キロ北側の玉名山部落の自宅前で遊んでいた。硫黄島村大正国民学校の開校記念日で休みだったこの日、地面に輪を描いて石を投げる「丸飛び」に夢中になっていた。
硫黄島村の中心地である元山部落から大勢の兵士たちが全速力で登喜子の前を駆け抜け、海岸に繫がる坂道に向かっていった。その中に、いつも「トキ坊、トキ坊」と言って頭を撫でてくれる顔なじみの年配の兵士がいた。自分の父親くらいの年齢の兵士は走りながら、息を切らせ、血相を変え、登喜子に叫んだ。
「今すぐ防空壕に隠れなさい!」
直後、轟音を響かせながら一直線に向かってくる戦闘機が見えた。慌てて登喜子は、大好きな女の子の人形を抱きしめながら防空壕に向かった。
■日本の戦闘機はタカと戦うツバメのようだった
空襲は1時間経っても2時間経っても終わらない。
14歳の渡部敦子もまた、自宅の防空壕に逃げ、時折、空を見上げた。飛行場を整備する朝鮮人軍属たちも避難してきた。
よく家の作業を手伝ってくれる、良き人たちだった。父は分け隔てなく彼らを守るため迎え入れた。
サイレンが鳴った直後、敵機を撃退すべく千鳥飛行場から友軍機が次々と飛び立った。その光景は、戦争を知らない敦子の目には勇ましく見えた。日本は戦争に負けたことがない。だから負けない。
この確信は空戦を見ているうちに次第に崩れ、やがて絶望へと変わった。友軍機1機に対して、敵機3機が襲いかかり、味方の戦闘機は次々と海に墜落していく。群れるタカと、か弱いツバメの戦いのような空戦を見て、敦子は胸を痛めた。
「なんで日本はこんな戦争を始めちゃったのだろう」
翌日以降も空襲が続いた。やがて巡洋艦や駆逐艦も来襲し、艦砲射撃を加えた。
その名前から“不毛の島”と思われがちな硫黄島は、緑と花とフルーツの樹に満ちた“麗しの島”だった。
島全体が恐怖に包まれる中、多数の民家が焼失や倒壊の被害を受けた。さわやかな海風が運ぶ、湿気を含んだ緑の香りは、やがて不快な焦げた臭いにかき消された。
サイパンは日本にとって「絶対国防圏」の外郭の一つを成す要衝中の要衝だった。サイパンが敵手に落ち、爆撃機の拠点を築かれると、日本本土は空襲激化で一気に焦土化し、絶対に敗戦する。平和だった硫黄島は、その絶対的防衛を担う最前線の島となったのだ。
■突然、故郷からの疎開を告げられる
硫黄島守備隊の最高指揮官として6月8日に着任したばかりの栗林忠道中将は、逃げ惑う女性や子供の姿を目の当たりにし、即座に判断を下した。
それは、一日も早く島民を本土に疎開させることだった。
島民を本土に移送する船は7月に3回に分けて出されることになった。疎開は島民にとって突然の通達だった。奥山家もそうだった。慌てた様子で帰宅した登喜子の父・金一は切迫した口調で娘に言った。
「今すぐ荷物をまとめなさい」
登喜子は大事なものって何だろうと考えた末、ランドセルに教科書と文房具、着替えを入れた。
小さな体には重いランドセルだったが、島での学校生活の思い出を一つでも二つでも多く詰め込もうとした。
■16歳以上の男性に下された残留命令
山下賢二少年の家にも、疎開が通知された。
14歳の少年は、突然の退居に戸惑いを隠せなかった。慌てて荷物をまとめている最中、休息日によく山下家に遊びにきた海軍の小松兵長が訪ねてきた。
「ケン坊、お前にはいろいろと島のことを教えてもらった。ありがとう」
小松兵長は水兵の制服のズボンを一本、賢二に渡した。常夏の島育ちの賢二はズボンをはいたことがなかった。本土で寒い思いをしないように与えてくれたのだと賢二は胸が熱くなった。
原家では、村役場を通じて、18歳の光一に対して「残れ」という命令が下った。
16歳以上の男性島民は、民間人の立場で守備隊を手伝う「軍属」として疎開の対象から外されたと説明された。須藤家でも、20歳の章(あきら)と18歳の雄三の兄弟に同じ残留命令が下った。父母らとの別れを惜しみながらも島に残る覚悟を決めた。

■船に「乗る者」と「残る者」との別れ
島民疎開は計画通り、3便に分けて行われた。
疎開船に乗るのは女性や子供、高齢者が中心で、島に残るのは主に若い男性たちだ。3便とも「西海岸」と呼ばれる日本本土側の海岸から発つことになった。浅瀬のため、本土方面に向かう本船は沖合に停泊した。疎開する島民は海岸から小船に分乗して本船に渡った。
西海岸には、乗る者と残る者の別れを嘆く光景が広がった。
15歳の川島フサ子が乗る便は、敵に攻撃されないよう夜間に出発することになった。
硫黄島を照らす月の光は、普段は明るい。夜間でも読書できるほどだった。しかし、この夜はそうでなかった。漆黒の闇の中、両親やほかの家族と一緒に船に乗るとき、島に残る運命となった兄が言った。
「どうか妹たちをお願いします」
どんな表情で言ったのか。
兄の顔を照らす月光はなかった。
■将校「今度の疎開は一時的なものです」
守備隊将校の厚地兼彦大佐は、大勢の村役場の職員らに囲まれていた。
「私たち村民は軍の命令で疎開します。未知の土地で多くの人が路頭に迷います。どうか大佐、助けてください」
村の収入役の大沢修蔵がそう訴えると、厚地は胸ポケットから紙を取り出し、何やらペンを走らせ、大沢に渡した。
「今度の疎開は一時的なものです。勝ったらまた戻るのです。この紙を持って陸軍省に行き、米五百俵をもらい、皆さんに分けてやってください」
その紙は、陸軍省に対して島民の食糧確保に応じるよう求める内容だった。大沢らは深々と頭を下げ、艀(はしけ)に向かっていった。
騒然とした浜辺が静寂に包まれた瞬間があった。兵士に護衛された国民学校の校長が、校内で奉安していた天皇陛下の肖像写真「御真影」を抱えて現れたのだ。校長は御真影を敵から守るべく、本土に移す任を受けていた。校長が掲げて艀に向かう中、将校が「一同敬礼!」と号令すると、それまで立ち動いていた島民も兵士も止まり、一斉に頭を下げた。
■18歳の兄は泣きそうな妹に語りかけた
18歳の奥山千里(ちさと)は、ランドセル姿の妹の登喜子や父母、祖父母らを艀に乗せて本船に送り届けた。奥山家では自分と2歳年下の駿の二人が残留を命じられていた。家族を本船に移し終え、海岸に戻ろうとした際、登喜子に服をぐいっと掴まれた。
「千里あんちゃんも、一緒に行こうよう」
登喜子の目は涙で潤んでいた。家族が離れ離れになってしまうのを恐れているのだ。しかし、自分だけ「16歳以上は軍属」の原則に背くわけにはいかなかった。
「みんな残るんだから行くわけにはいかないんだよ」
そう諭すように妹に語りかけ、再び艀に戻った。
疎開対象者の乗船が終わり、動き出した本船。残留を命じられた男性島民や見送りにきた将兵、軍属たちと、疎開民たちとの別れのときが遂にやってきた。
■疎開船から見た16歳の兄の姿
登喜子は甲板上から、離れゆく故郷の海岸を眺めた。立ち尽くす人たちの中に、駿あんちゃんの姿が見えた。まだ、16歳。父母や妹らと離れたくないという思いが強かったのだろう。波打ち際のぎりぎりの所まで来ていた。登喜子は手を振らなかった。手を振ると、駿あんちゃんは泣いてしまうと思ったからだ。それが最後に見た兄の姿となった。
故郷の島影が見えなくなると、船内では大勢の女性たちが泣いていた。
「どうして息子たちを連れてこられなかったのか」
母親たちは自分を責め続けていた。登喜子も思った。
「自分がもっとお願いしたら、千里あんちゃんも駿あんちゃんも一緒に本土に行けたんじゃないか」
■「麗しの島」は激戦の末、「玉砕の島」に
疎開船は北へと進路を取り、故郷は水平線の彼方へと消えていった。島に残された100人以上の男性島民は陸軍、海軍の各部隊の拠点に分散させられた。
守備隊の陣地の建築素材として使うため、かつて大勢の児童の声が響いた国民学校の校舎も、家族の思い出が詰まった民家も、木造の建物は、次々と解体されていった。
そして、硫黄島の村は消えた。
7カ月後の1945年2月19日。栗林中将が率いる守備隊約2万3000人は、大挙して侵攻してきた米軍部隊と激突。奪われた摺鉢(すりばち)山山頂に星条旗が掲げられた後も、本土侵攻を食い止めるべく持久戦を展開し、36日間の組織的戦闘の末、玉砕した。

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酒井 聡平(さかい・そうへい)

北海道新聞記者

1976年生まれ、北海道出身。2023年2月まで5年間、東京支社編集局報道センターに所属し、戦没者遺骨収集事業を所管する厚生労働省や東京五輪、皇室報道などを担当した。硫黄島には計4回渡り、このうち3回は政府派遣の硫黄島戦没者遺骨収集団のボランティアとして渡島した。土曜・日曜は、戦争などの歴史を取材、発信する自称「旧聞記者」として活動する。取材成果はTwitter(@Iwojima2020)などでも発信している。北海道ノンフィクション集団会員。北海道岩内郡岩内町在住。初の著書に『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)。

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(北海道新聞記者 酒井 聡平)
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