■人気花魁・誰袖と田沼意次の息子の関係
このところNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、父の田沼意次(渡辺謙)以上に、長男の田沼意知(宮沢氷魚)がクローズアップされている感がある。江戸城中では、父のすぐ後ろにいつも姿が確認できる。そして、花雲助という狂名(狂歌を詠む際の号)で、吉原をはじめ市井にも現れる。それも遊んでいるように見えて仕事をしている。
第26回「三人の女」(7月6日放送)では、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)のもとを訪れた。商人なら米の値をどうやって下げるか、聞きにきたのだ。その前に、吉原の十文字屋の花魁、誰袖(たがそで)とともに過ごす姿も描かれた。
この「吉原遊び」は、蝦夷地(北海道)を幕府領にして、幕府がロシアと交易する条件づくりのためのもの。すなわち、松前藩から蝦夷地の支配権を奪うために、松前藩が禁制の抜け荷(密貿易)をしている証拠をつかむのが目的で、誰袖は、うまくいったら意知に身請けしてもらうという条件で、情報収集に協力していた。
逢瀬を重ねるうちに、2人はともに心を通わせるようになっていたが、天候不順に浅間山の噴火が重なり、いまや米不足の最中。第26回では意知は誰袖に、米の値が下がるまで当分は吉原に通えない旨を告げた。
誰袖が「仮の名で、しかも月に1度のお越し。バレるとも思えんせんが」と返すと、意知は答えた。「近々、若年寄になるということもあってな。しかし、かような折ゆえ、風当たりが強くなることは必至でな」。誰袖は聞き返した。「それでは、身請けの話は?」。
しかし、意知は間もなく、「当分」どころか永遠に吉原に通えなくなる。とんでもない悲劇に見舞われたからである。
■江戸城本丸御殿で起きた大事件
意知が若年寄に抜擢されたのは、天明3年(1783)11月のことだった。若年寄は幕閣のなかでも老中に次ぐ重職で、老中が主に朝廷や大名に関する事柄を指揮したのに対し、旗本や御家人を指揮した。
3~5人ほどいて、たいてい少禄の譜代大名が就任した。だが、田沼家はまだ父の意次が当主で、意知は部屋住みの後継ぎにすぎない。
むろん、父の権勢があってのことで、「かような折ゆえ、風当たりが強くなることは必至」という意知の言葉は的を射ている。東北や関東が飢饉に見舞われ、米価が急騰する状況では、権力者はただでさえ批判され、恨みを買いやすい。そんななか露骨な世襲の権力継承が行われれば、「風当りが強く」なって当然である。
そして、若年寄就任から4カ月ほどの天明4年(1784)年3月24日、事件が起きた。
江戸城本丸御殿の表(諸大名が将軍に謁見し、役人たちが政務を行う場)。その御用部屋には通常どおり上之間に老中、下之間に若年寄が集まり、午後1時ごろ政務が終わると幕閣たちは退庁した。同役の太田資愛(すけよし)(掛川藩主)、酒井忠休(ただよし)(出羽松山藩主)らとともに御用部屋を退出した意知は、桔梗の間に差し掛かったところで、突然、斬りつけられたのである。
■意知が刀を抜かなかったワケ
襲ったのは、「べらぼう」では矢本悠馬が演じている新番士の佐野善左衛門政言。その昔は田沼家の主家筋で、取り立ててもらいたくて自分の家の系図を提供したところ意次に投げ捨てられたり、贈呈した桜の木も神社に寄進されてしまったりと、ドラマでは散々な姿が描かれてきた。
新番士とは将軍の身辺警護役で、このときは詰所に5人がいた。そのうちの佐野が飛び出し、「山城守殿(註・田沼山城守意知のこと)、佐野善左衛門にて候、御免!」と叫んで大刀の鞘を払い、斬りかかったのである。
ちなみに江戸城内は原則として帯刀禁止、つまり大刀はダメで、脇差しか所持できなかった。佐野は将軍を警護するための大刀を抜いたわけだが、意知も脇差を抜刀して応戦すれば、身は守れたかもしれない。しかし、城内で刀を抜くと喧嘩両成敗で処分され、相手を傷つければ、理由はどうであれ死罪を免れなかった。
このため、意知は脇差の鞘で佐野の刀を受けたが、肩先に一太刀受け、長さ3寸(約9センチ)、深さ7寸(約2センチ)の傷を負ってしまう。それでも意知は必死に逃げたが、肩の傷のせいで足元がおぼつかなかったようだ。追いかける佐野の刀が両足の太ももに刺さり、さらに深手を負う。
■なぜ誰も意知を助けなかったのか
その後、佐野は意知を見失ったようだが、問題はそこまでだれも意知を助けなかったことだろう。この時点でようやく、齢70を超える大目詰の松平対馬守忠郷(たださと)に後ろから羽交い絞めにされた佐野は、駆けつけた目付の柳生主膳正通に刀を奪われ、集まってきた役人たちに取り押さえられた。
その後、意知は江戸城平川門から神田橋の田沼屋敷に運ばれ、あらゆる手が尽くされたという。しかし、出血多量が原因で、2日後の3月26日に死去。頼みの長男を失った意次の嘆きは、並大抵ではなかったという。
この斬殺事件の動機については、当時から私怨説と公憤説があり、さまざまに語られながら決着はついていない。
その書簡とは、当時のオランダ商館長ティチングが書いた『日本風俗図誌』である。ティチングは単に噂を書き留めたのではなく、江戸でかなり高位の人物から聞いて書いたという。なにが書かれていたか、以下に簡単に記したい。
■オランダ人が書き残した「真相」
まず、「この殺人事件に伴ういろいろの事情から推測するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名が事件にあずかっており」と、この斬殺は陰謀だと示唆され、田沼父子が恨まれていたことに言い及ぶ。だが、意次は高齢なので「間もなく死ぬ」が、息子は「まだ若い盛り」で改革を実行する時間がある。また、期待の息子を奪えば「それ以上に父親にとって痛烈な打撃はあり得ない」ので、「息子を殺すことが決定した」という。
続いて、事件の模様について。若年寄たちは閣議後、立ち止まって話を交えることが多いが、「その日はばらばらに分かれていた」と記す。
「三人の若年寄の一人は出羽の大名で二万五〇〇〇石、一人は武蔵の大名で一万二〇〇〇石、いま一人は遠江の大名で五万三七〇石、この三人も田沼山城守と同時に江戸城を下ったが、しかし三人は急いで歩き去ったので、山城守はかなり離れた後ろに取り残された。佐野善左衛門はそのとき芙蓉の間という広間で勤務中であったが、この機会を捉えて駆け寄ると、刀を抜いて激しい一撃を腕に浴びせた」
続けて、こうも記されている。「善左衛門といっしょに勤務していた番士たちや、中の間及び桔梗の間の番士たちが物音を聞きつけてやって来たが、しかし、それはどうも相当ゆっくりしたことであったらしく、善左衛門に逃げる余裕を与えてやろうという意図があったと信ずべき十分な理由があった」。
■一橋治済による陰謀か
ティチングが記した内容について、日本側には傍証となる史料がないので、そのまま受け入れることはできない。しかし、意次が失脚して以降、田沼関係の史料の多くがあえて抹殺されたことを考えれば、このオランダ商館長による伝聞の記述は無視できないように思われる。抹殺された証言を唯一伝える書簡である可能性も否定できない。
しかも、意知が斬られる現場を目撃しながら、佐野を止めさえしなかった面々は、ほとんどが軽いお叱り程度で済んでいる。このため『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』の著者は、「こうなると大納言家基と同様、意知の暗殺も一橋治済の手の者によって実行されたのではないかと思われてくる」と記す。
意知の死後も、将軍家治の存命中は、意次は老中であり続けたが、家治死後の失脚と転落ぶりを見ても、田沼政治が一橋治済をはじめ守旧派から激しい反感を買っていたことがわかる。その意味で、ティチングの記述には蓋然性があるように思われる。
ところで、ティチングは意知を高く評価していた。『日本風俗図誌』にはこうある。「山城守(意知)と父主殿頭(意次)はいろいろの改革を企てたために、幕府の大官たちの憎しみを買い、また国家の安寧に害ありとして非難を受け、山城守はとうとう一七八四年五月十三日、佐野善左衛門のために暗殺されてしまった。(中略)この暗殺のために、日本が外国人に開放され、日本人が他国を訪問するのが見られる希望はまったく絶たれてしまった」。
■意知が誰袖を身請けした可能性
「べらぼう」でも田沼意知は開明派、開国派として描かれてきた。
それは脚本家の創作である。誰袖は天明4年(1784)正月の「吉原細見」では、もう名前が消えているので、天明3年(1783)中に身請けされた可能性が高い。「べらぼう」では誰袖が身請けされるのは、まさに意知が惨殺される直前だから、少し時期が遅いように思われる。
史料によるかぎり、やはり誰袖を身請けしたのは、のちに公金横領で斬首される土山宗次郎である。だが、開明的な意知は、改革のためであれば吉原の花魁の身請けくらい、よろこんでした人物だったのではないだろうか。その意味では、「べらぼう」で彼が誰袖を身請けすることに、あまり違和感を覚えない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)