■居住の自由が認められない「違憲の島」
1944年7月14日。強制疎開命令を受けた最後の島民たちを乗せた船が島を出た。
小さな島で、一つの家族のように暮らしていた島民たちは、本土に送られた後、全国各地に散り散りになった。1891年に日本が正式に領有を宣言し、開拓民の入植が始まってから53年。平和で豊かな暮らしを謳歌した硫黄島民の歴史と文化はこの日、消滅した。
全国に離散した島民と子孫はいまだに帰島が認められていない。多くの日本人はその事実を知らない。日本固有の領土なのに、旧島民が自由に渡航できないのは、北方領土だけではないのだ。現在、居住が認められているのは、島内の基地に勤務する自衛官とその関係者だけだ。人数は公表されていない。
第2次世界大戦中に全島疎開となった島で、21世紀になった現在も戦時疎開命令が解除されていないのは、世界を見渡しても硫黄島だけとされる。
日本国憲法が第22条で保障した「居住・移転の自由」が認められていない違憲の島。渡航禁止はメディアも含まれている。
戦後、今に至るまで、硫黄島に対する国民の視線はずっと遮断されてきた。戦火で焼けただれた荒廃の島との情報が更新されないまま戦後の長い月日が流れた。
それが、硫黄島だ。
■島から帰れない人、島に帰れない人
私はかつて硫黄島関係者と会う際、必ずといってよいほど聞く質問があった。
「硫黄島兵士2万人のうち1万人がいまだに本土に帰れない理由は何だと思いますか」
しかし、硫黄島民の歴史に関心が向いて以降は、もう一つ質問が加わった。それは「硫黄島民とその子孫がいまだに硫黄島に帰れない理由は何だと思いますか」だ。
2024年2月、元島民である山下賢二へのインタビューが終わった後、賢二の長男・達美にその質問をした。
「私はこういうことを言っては目の前で失礼ですけど……」。そう申し訳なさそうに前置きした上で話したのは、報道についてだった。
「なんでもっとマスメディアがね、しっかりね、伝えないのかと……」
■デモ行進する元島民たちへの冷たい反応
硫黄島民の未帰還問題は、ほとんどの国民に知られていない。現在だけに限らない。硫黄島に帰りたい島民1世がまだ多く健在だった時代もそうだったと振り返る。
達美は大学時代、帰島実現を求めて国会議事堂に向かうデモ行進に参加したことがある。一人でも多いほうがいいから、と賢二から声をかけられて参加した。1979年のことだったと記憶している。先頭に立って島民1世たちとともに横断幕を持って歩いた。
そのときの沿道の通行人の反応はどうだったのか。質問すると「ああ、そうなの、という感じでした。そんなもんぐらいでしたよ」と達美は苦笑しながら答えた。
無関心だったのは通行人だけではなかった。メディアも同様だった。
■映画の中で、島民の描写は“一瞬”だった
硫黄島に多くの国民が一斉に目を向けた時期はあった。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が公開された2006年だ。
同作品は、俳優の渡辺謙が演じる最高指揮官栗林忠道中将らを軸に守備隊の戦いの経過を描いた作品だった。硫黄島を題材とした作品として希有だった点は、島民の存在も描いたことだ。空襲が激化しつつある硫黄島で、栗林中将が戦禍に巻き込まれることになった島民たちを不憫に思い「島民は速やかに本土に戻すことにしましょう」と部下に指示する場面だ。
ただ、2時間21分の上映時間の中で、そのシーンは“一瞬”ともいえる短さだった。制作上さまざまな制約があるのは仕方がないこととはいえ、描かれた島民の様子も建物も賢二から伝え聞いた話とは随分と印象が違った。
「あれは想像の中で作った話みたいな感じで、父から聞いた話と全然違っているなと思いながら観ました。
■「しょうがない」という報道で議論終了
報道の世界には、「カレンダー・ジャーナリズム」という言葉がある。過去に大きな出来事が起きた日に合わせて、その出来事にまつわるニュースを発信することを指して、そのような呼び方をする。
硫黄島について近年大きく報道されたのは、終戦70年の節目となった2015年、硫黄島を含む小笠原諸島の施政権が日本に返還されてから50周年となった2018年だ。
その報道で硫黄島の現状について触れたとしても「火山活動のため民間人は居住できない」など、国民の自由な上陸が禁止されたままの現状に疑問を呈さずに伝えるものばかりだった。そのことを踏まえて達美は言った。
「こういうことだからしょうがないんですよって報道されたら、そこで議論は終わっちゃうじゃないですか。それ以上のことについて政府の情報がメディアからは伝わってこないわけですよ。だから国民は何も知らない」
■国の方便をそのまま伝えるだけでいいのか
国が火山活動を理由に再居住を許さないのならば、火山列島である日本中はどこも居住できないことになる。水がなく、産業の発展が望めないとの理由も挙げるが、戦前には1000人以上の島民が実際に豊かな生活を送り、現在も多くの在島自衛官たちが本土と変わらぬ生活を送っている。
そういった現状なのに、報道する側は、建前としか言いようがない国の方便を伝えるだけに留まった。結果、島民未帰還問題を疑問視する人がほとんどいない現状が完成した。それが「硫黄島民とその子孫がいまだに硫黄島に帰れない理由は何か」という質問に対する達美の答えだった。
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酒井 聡平(さかい・そうへい)
北海道新聞記者
1976年生まれ、北海道出身。2023年2月まで5年間、東京支社編集局報道センターに所属し、戦没者遺骨収集事業を所管する厚生労働省や東京五輪、皇室報道などを担当した。硫黄島には計4回渡り、このうち3回は政府派遣の硫黄島戦没者遺骨収集団のボランティアとして渡島した。土曜・日曜は、戦争などの歴史を取材、発信する自称「旧聞記者」として活動する。取材成果はTwitter(@Iwojima2020)などでも発信している。北海道ノンフィクション集団会員。北海道岩内郡岩内町在住。初の著書に『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)。
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(北海道新聞記者 酒井 聡平)