■見えない深刻な健康リスク
老いを思い浮かべるとき、多くの人は白髪やしわ、時にはもの忘れを連想するかもしれません。しかし、高齢者の健康を最も脅かすにもかかわらず、写真にも会話にもなかなか登場しない見えないリスクがあります。それは栄養不足です。
栄養不足と聞くと、多くの方は貧困や飢餓、人道危機を思い浮かべるかもしれません。しかし現実には、先進国でも途上国でも、何百万人もの高齢者がいつの間にか栄養不良に陥り、活力や自立を奪われているのです。これは単にちょっと食が細いレベルの話ではありません。体が必要とする栄養と、実際に摂れている栄養との間に、慢性的で気づかれにくいギャップが生まれているのです。
最新の医学研究によれば、栄養状態が悪い高齢者は入院のリスクが高く、入院期間も長くなり合併症も多く、回復も遅れがちになるとわかっています。看護施設や病院など、食事管理がきちんとされている環境でも、実際には30~50パーセントの高齢患者が何らかの栄養不良だとする報告もあります。自宅で暮らす高齢者でも、3~13パーセントが栄養不足とされ、低所得地域ではさらに高い割合にのぼります。
■栄養不足を引き起こす複雑な要因
年齢を重ねると、自然に食欲が落ちてきます。
高齢者にとっては、実は食べるという行為自体が大きなハードルです。虫歯や合わない入れ歯もありますし、加齢によって唾液量が減少して咀嚼が難しくなります。誤嚥性肺炎の原因にもなる嚥下障害も、脳卒中や認知症、パーキンソン病などの病気によってよく見られます。また、慢性関節リウマチなどで手先が不自由になると、食器を持ったり食事を準備したりするのが難しくなります。足腰が衰えて買い物や調理が困難になることも、ますます食事が疎かになる要因です。
さらに、うつ病は高齢者に多く、食欲を大きく減退させる主要な原因のひとつです。大切な配偶者や友人を亡くした後、食べること自体への興味を失ってしまう人も少なくありません。孤独、喪失感、生きがいの喪失といった感情が、栄養摂取の機会を奪っていくのです。食事は本来、誰かと共にする社交的な営みです。
高齢者は、心不全、糖尿病、慢性閉塞性肺疾患、がんなど、複数の慢性疾患を抱えていることが珍しくありません。これらの病気や、それに伴う炎症、治療の副作用によって、体が必要とするエネルギーは増える一方で、食欲や栄養の吸収は低下してしまいます。また、多くの薬が食欲減退や吐き気、味覚の変化などの副作用を引き起こします。複数の薬を長期間服用している場合、栄養素の吸収を妨げることもあり、薬漬けは栄養不良のリスクを高める重大な要因なのです。
また、先進国においても低所得の高齢者は、新鮮で栄養価の高い食品を手に入れるのが難しく、結果として栄養の偏りが生じやすくなります。高血圧や高コレステロール血症を気にして、塩分や脂肪、特定の食品を極端に避ける方もいます。しかし、専門家の指導なしに行われる自己流の食事制限は、かえって栄養バランスを崩し、深刻な栄養不足を引き起こしかねません。
■栄養不足とともに現れるサルコペニアとカヘキシア
高齢者の栄養不足には、しばしば2つの医学的な状態が伴います。ひとつは「サルコペニア(筋肉減少症)」です。これは、筋肉量や筋力が加齢とともに減少する状態で、栄養不足があるとその進行が著しく加速します。サルコペニアが進むと、転倒や骨折のリスクが高まり、日常生活の自立度も下がっていきます。
もうひとつは「カヘキシア(悪液質)」と呼ばれる状態です。がん、心不全、末期の肺疾患や肝疾患など、重篤な慢性疾病のある人に見られることが多く、激しい炎症や代謝異常が関係しています。通常の栄養介入では改善が難しく、早期の見極めと対処が求められます。
■科学的根拠に基づく栄養対策
朗報もあります。高齢者の栄養不足は、避けられないものではありません。正しい知識と適切なアプローチがあれば、予防も改善も十分に可能です。高齢者の栄養学の面で2019年に発表され注目を集めたのは、スイスで実施された臨床研究です。栄養不良リスクを抱える入院患者に対し、個別栄養介入の効果を初めて大規模かつ体系的に検証した臨床研究で、医療界に大きな影響を与えました。
研究の対象となったのは、がんや感染症、心不全などを抱え栄養リスクが高いとされた2088人の入院患者です。平均年齢は65歳を超え、多くは高齢者でした。参加者は2つのグループに分けられ、一方は通常の病院食を、もう一方は管理栄養士による個別化された栄養サポートを、入院後48時間以内に受けることになりました。
栄養サポート群では、明確な栄養目標が設定され、必要に応じて栄養補助食品なども使用されました。その結果、79パーセントの患者がエネルギー摂取目標を、76パーセントがたんぱく質摂取目標を達成しました。
30日後の主要な指標である死亡、集中治療室転棟、予定外の再入院、重篤な合併症、日常生活動作の著しい低下の発生率は、通常の病院食群が27パーセントであったのに対し、栄養サポート群では23パーセントに抑えられていました。死亡率も、通常の病院食群の10パーセントに対し、栄養サポート群では7パーセントに低下し、35パーセントの死亡リスク減少が示されました。
特筆すべきは、80歳以上の高齢者や、虚弱状態、認知症を合併する患者において、この介入の効果がより顕著に現れていたことです。これらの方々は食欲や自己管理能力が低下しやすく、代謝の予備力も乏しいため、わずかな栄養不足が命に直結する可能性があります。管理栄養士による個別介入が、こうしたハイリスク患者に対しても確実な成果をもたらしたことは、臨床の現場にとって極めて実用的な知見となりました。
さらにこの研究は、医療経済の観点からも注目されました。重篤合併症や再入院、集中治療室転棟といった高額医療の発生率が減少したことで、1人あたり約3万円の医療費削減効果が確認されました。栄養支援はコストがかかると誤解されがちですが、実際には医療費削減にもつながる費用対効果の高い方法であることが、科学的に裏付けられたのです。
さらに平均3.2年間、最長5年にわたる長期追跡調査も2021年に発表され、入院時の栄養リスクが高いほど、その後の死亡率が有意に高くなることが示されました。たとえば高リスク群では、1年後の死亡率が60パーセントに達していました。
■実践的な栄養管理のアプローチ
一般的に、高齢者には1日で体重1キログラムあたり30キロカロリーのエネルギーと、体重1キログラムあたり1グラム以上のタンパク質が必要とされています。たとえば、体重60キログラムの女性であれば、1日1800キロカロリーと60グラム以上のタンパク質が目安となります。手術後や病中病後にはさらに多くの摂取が望まれます。
食事量を増やすためには、単に数字の問題だけではなく、食べる体験そのものを大切にすることが重要です。心地よい環境で食事をする、誰かと一緒に食卓を囲む、親しみのある味つけや料理を提供する、噛みやすく飲み込みやすいように工夫する、過剰な食事制限を避けて、食べたい気持ちを大事にする、といった形です。また、食事中の声かけや、食器の使用をサポートすることでも、摂取量は大きく変わります。
食事だけでは不足する場合、飲む栄養補助食品が役立ちます。ミルクシェイク、プリン、プロテインパウダーなどは、少量で高い栄養価が得られるよう設計されており、風味や形状も多彩です。さらに必要であれば、経管栄養や静脈栄養が検討されることもありますが、これは医師を含めたチームで慎重に判断される医療処置で、本人の生活の質や希望を最優先にすべきでしょう。
■栄養ケアを阻む見えない壁
しかし、高齢者にとっての栄養の重要性は科学的にも明らかになっているにもかかわらず、それでもなお、栄養不足は見過ごされ、十分な治療が行われていない現実があります。その背景には、見逃すことのできない複数の問題が存在しています。
まず、多くの医師や看護師は、学生時代に栄養について十分に学んでいません。そのため、糖尿病や心不全、認知症などの病気には詳しくても、それらすべての病態に栄養が深く関係しているという視点を持ちにくいのです。また、高額な新薬や最新の手術手技などばかりに注目が集まりがちで、地味な栄養学には医療者側があまり関心を持たないことも珍しくありません。この知識のギャップにより、患者の体調悪化における栄養面の重要性が軽視されてしまう面があります。
また、家族でさえも、少しずつ体重が減っていく様子を「年齢のせい」や「食が細くなっただけ」と見過ごしてしまうことがあります。しかし、それは本来、即座に対応すべき深刻な警告サインである可能性もあるのです。
高齢者はたくさん食べなくてもよい、タンパク質は控えめでよいといった誤解が、社会にも医療現場にも根強く残っていますが、これは大きな間違いです。高齢者ほど筋肉量が減少しやすく、代謝ストレスの影響を受けやすいため、わずかな栄養不足でも健康に深刻な影響を及ぼします。
残念ながら、日本の医療機関や介護施設では、スタッフが常に多忙で、人手不足も深刻です。赤字病院や施設が大多数という状況で、当面改善が見込めません。食事介助の時間は限られており、個別に対応することが難しい現場も多くあります。個々の患者に合わせた献立の計画、食事の支援、体重や摂取量の継続的な観察など、栄養管理には相応の手間と時間がかかります。明確な指示や予算がなければ、栄養は後回しにされがちです。
そこで、家庭などでできる簡単な方法として挙げられるのは、体重測定です。単純なことですが、月に一度でも体重を測定することは、深刻な問題が起こる前に気づくための大きな手がかりになります。さらに、最近食が細くなっていないか、食事を抜くことが増えていないか、好物に手をつけなくなっていないか、服が緩くなってきていないか、といった変化に家族や介護者が注意を払うことで、栄養不足のリスクを早期に察知することができます。
また、定期的な歯科受診、入れ歯の調整、口の乾燥や痛みの治療は、快適な食事の基盤です。口の中が不快であれば、どんなに美味しそうな食事も手が伸びません。まずは「痛くない」「食べやすい」環境を整えることが、栄養摂取の第一歩です。
近年、社会的孤立という概念が注目されていますが、うつ病や孤独感は、食欲を大きく奪っていきます。カウンセリングや地域活動、趣味の再開などによって、食欲だけでなく生きる意欲そのものを取り戻すことができます。時には心の回復が、体の栄養状態を改善する鍵になるのです。
食事は本来、人とのつながりを感じる大切な時間です。家族と食卓を囲んだり、地域の高齢者向け昼食会、食事支援や配食サービスなどを活用したりすることで、食事が再び「楽しいひととき」となります。孤独な義務だった食事が、誰かと笑い合う喜びに変わるのです。
栄養価の高い食事を少量ずつ、1日数回に分けて提供するだけでも、栄養摂取量を大きく改善できます。タンパク質を強化したスナックや、飲み込みやすくした食事形態の工夫、ゆっくり寄り添っての食事介助など、小さな工夫の積み重ねが食べることの壁を低くしていきます。
高齢者の栄養不足は、避けられないものではありません。予防や治療、回復も十分に可能です。ただし、私たちの老いと食への向き合い方を変える必要があります。食べることは単なる生命維持ではありません。そこには、自立、尊厳、そして人生の喜びが詰まっています。栄養とは医療であると同時に、つながりであり、文化であり、思いやりでもあります。今こそ、体重減少や転倒、寝たきりという本格的な症状が出る前に、予防のための行動を起こすべきときなのです。
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谷本 哲也(たにもと・てつや)
内科医
鳥取県米子市出身。1997年九州大学医学部卒業。医療法人社団鉄医会理事長・ナビタスクリニック川崎院長。日本内科学会認定内科専門医・日本血液学会認定血液専門医・指導医。2012年より医学論文などの勉強会を開催中、その成果を医学専門誌『ランセット』『NEJM(ニューイングランド医学誌)』や『JAMA(米国医師会雑誌)』等で発表している。
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(内科医 谷本 哲也)