クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』は、硫黄島の戦いを描いた作品だ。主な登場人物は栗林忠道中将ら日本軍の守備隊だが、実際の戦闘には島民たちも参加していたという。
北海道新聞記者・酒井聡平さんの著書『死なないと、帰れない島』(講談社)より、一部を紹介する――。
■島に残った男性たちの視点が欠けている
第2次世界大戦屈指の激戦地硫黄島。守備隊の戦記は数多い。硫黄島取材歴が長い私は、現存する日本側戦記は概ね読んだという自負がある。
戦記には一つの共通点がある。
それは“視点”だ。
すべての戦記は、最高指揮官・栗林忠道中将以下、将校と兵士の視座で記されている。軍属の視点の戦記を読んだことがない。記述があったとしても短い文章にとどまり、情報は極めて限定的だ。
軍属とは、軍隊を補助する任務を担う民間人のことだ。食事を作ったり、事務作業をしたり、大工をしたりと、仕事はさまざまだ。将兵とは違い、戦闘員ではないため、戦闘訓練を受けていない。

軍属の視点の戦記がないのは、戦わなかったからなのだろうか。硫黄島にはほかの戦地と同様に、多数の軍属がいた。日本本土や朝鮮半島の出身者だけではない。硫黄島出身者もいた。
1944年7月の本土疎開の対象外となった16歳以上の男性島民たちだ。地上戦に巻き込まれた人数は103人に上る。
彼らは本当に戦わなかったのか。それは否だ。硫黄島の防衛戦には、非戦闘員の軍属も加わっていた。そのことを伝えている一次史料が、かろうじて存在する。
■「非戦闘員」が危険な斬り込みに参加
本土側で受信した硫黄島発の海軍の電報集『硫黄島方面電報綴』(国立公文書館所蔵)だ。これによると、米軍上陸部隊との激戦9日目の1945年2月27日午後11時26分、硫黄島の海軍通信隊はこんな電報を本土に発している。

〈海軍部隊モ工員ニ至ル迄続々斬込ニ参加従容トシテ自若死地ニ投ジ多大ノ戦果ヲ挙ツツアリ陸軍幹部ニ至ル迄感激ス〉
硫黄島は陸軍と海軍の双方が防衛を担った要衝だった。地上戦を指揮したのは陸軍側トップだった栗林中将だ。そもそも海軍は海上の攻防を担う軍隊であり、陸上の攻防の訓練を十分に受けているわけではない。
それにもかかわらず、身を挺して〈斬込〉に加わってくれていると陸軍側は〈感激〉していた。さらに、その危険な斬り込みには戦闘員ではない〈工員〉が加わっていることが、陸軍側の〈感激〉を大きくしていた。
〈工員〉とは、すなわち軍属のことだ。その中には硫黄島出身者たちも含まれている。そう伝える戦記がある。
■「私たちがやらないでどうしますか」
その戦記とは、米軍上陸前に負傷、本土送還されたため玉砕を免れた多田実が記した『海軍学徒兵、硫黄島に死す』だ。同書では、軍属の装備の貧弱さについても触れられている。
それによると、工員たちは非戦闘員であるため〈悲しいかな小銃も少く、数少い手榴弾と爆雷、それに鉄や竹のヤリが兵器だった〉。そんなまともな武器もない状況の中で勇敢に戦った工員たちがいたという。
それは誰だったのか。
〈(工員の)なかでも注目を集めたのは多数の朝鮮出身者と数百人(ママ)の硫黄島民であった〉
戦力として期待されていなかった朝鮮出身者と硫黄島出身者。しかし、彼らは勇敢だった。
同書では、ある島民軍属の言葉として、次のように記されている。
〈兵隊さんが私たちの島を守ってくれるのです。私たちがやらないでどうしますか。死ねば故郷の土になるだけです〉
その言葉は、愛郷心と覚悟のすべてを物語っていた。命を落とす場所が、愛する島の地であるならば、それも本望。そんな思いが、言葉の奥底に宿っていると感じられた。多田は地上戦を経験していない。だから、この言葉は直接、島民軍属から聞いた言葉ではないだろう。
同書は自身の体験だけでなく、多くの生還者の証言を集めて綴られた戦記だ。
この言葉は、そうした生還者の証言の一つなのだろう。この言葉の後に、多田はこう続けている。
〈島民はこう語っては続々と斬り込み隊に志願して夜の戦場に消えていった〉
■重い口を開いたきっかけはハリウッド映画
島民軍属の生還者の中には戦場の記憶を語った者もいれば、生涯、沈黙を貫いた者もいた。
一方、長らく沈黙を守ってきたものの、近年になって語り始めた元島民軍属もいた。硫黄島戦当時20歳だった須藤章だ。新聞各紙を調べると、須藤の証言は2006年12月以降、少なくとも6回、取り上げられていた。
2006年12月といえば、硫黄島戦を日本側守備隊の視点から描いた、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が日本で公開された時期だ。読売新聞の同年12月20日付の記事には、須藤が戦禍の記憶を語る決心をした理由が記されていた。
〈話題の映画『硫黄島からの手紙』を見て、「子供たちに本当のことを話し、後世に伝えよう」と考え、これまで一度も公で話さなかった貴重な体験を披露する決心をした〉
■82歳は「あの戦争を恨みます」と語った
当時、須藤は82歳だった。記事には、須藤が神奈川県横須賀市の小学校で講演を行う予定であることも伝えられていた。〈暗い体験のため、これまで多くを語ることはなかったが、映画の影響と知人の市議の仲介で児童に話すことにした〉と記事には記されていた。
上映時間が2時間21分の同作品は、硫黄島戦の悲惨さを描いた内容だったが、島民軍属の悲劇については触れられていなかった。
そうしたことが、須藤に語る決心を促したのかもしれない。この3年後の2009年6月12日付の毎日新聞には、次のような記述があった。
〈地獄の記憶をほとんど語ることがなかった須藤さんは「哀れで、みじめ。あの戦争を恨みます」と声を震わせた〉
これらの記事で伝えられた〈地獄の記憶〉をつなぎ合わせ、彼の激戦地での足跡をたどってみた。
■米軍が上陸し、日本の守備隊は地下へ
1944年7月。本土への最後の疎開船が発った後、軍属として残された須藤に軍から与えられた仕事は野菜づくりだった。須藤は父の農業を手伝う中で耕作の技術を身につけていた。
作物生産は将兵たちの食料にするためだった。しかし、日本側守備隊が「定期便」と呼ぶほど頻繁に飛来する米軍機の空襲により、秋ごろになると農作業は中止となった。手塩にかけて耕した農地も爆撃されたためだ。
作業がなくなった須藤は軍の幹部に「本土に引き揚げさせてくれ」と何度も訴えた。しかし、認められず、新たな担当として「炊事係」の仕事を与えられた。

そして、運命の1945年2月を迎えた。〈水平線に山が現れた〉。そう思うほど、数多くの敵艦が硫黄島沖に集結した。上陸作戦を前にした徹底的な艦砲射撃が始まった。須藤が拠点としたのは摺鉢山の麓に築かれた地下壕だった。その中で、熾烈な砲爆撃に晒され、恐怖と隣り合わせの日々が始まった。
2月16日から3日間にわたる徹底的な砲爆撃の末、ついに地上戦が始まった。2月19日朝、米軍部隊が大挙して海岸から上陸。日本側守備隊は島全体に構築した総延長18キロメートルの地下壕を駆使して迎え撃った。このとき、通信部隊が本土に向けて送った電報には、次の言葉が記されていた。
〈本戦闘ノ特色ハ 敵ハ地上ニ在リテ 友軍ハ地下ニ在リ〉
■戦場で弟と再会、そして永遠の別れに
陸海軍2万3000人を率いた最高指揮官・栗林忠道中将が目指したのは防衛戦ではなかった。一日でも長く敵の本土侵攻を食い止めるための持久戦だった。そのため、守備隊の兵士たちは地下壕に潜みながら、ゲリラ戦を展開した。
川のない渇水状態の硫黄島での持久戦。壕の中は火山活動による地熱で、まるで蒸し風呂のようだった。兵士たちは、喉の渇きを耐えながら戦うという、“死よりも苦しい生”を強いられた。
米軍の兵士の多くは日没前には進撃を止め、拠点に戻った。戦場には、敵兵が食べ残した食糧が放置された。夜になるたびに、須藤は5、6人で地上に出て敵の残飯を拾い集めた。「ネズミの生活だ」と惨めに思いながら、地上の汚水をすすった。
地上戦に巻き込まれた男性島民103人の中には、須藤の2歳年下の弟・雄三もいた。雄三は別の部隊に配属されたため、兄弟は離れ離れとなっていた。
兄弟が再会したのは、米軍上陸から数日経った夜のことだった。敵の攻撃がやみ、須藤が外の風に当たろうと壕の外に出たときのことだ。
背後から「あんちゃん……」という声が聞こえた。振り返ると、そこには弟が立っていた。砲弾がうなりながら飛び交う中、どうやってここまで来たのか。須藤は驚いた。
雄三は、こう続けた。
「あんちゃん。敵に斬り込みに行ってこい、帰ってくるなって、洞窟から出された。でも、ぼくらには手榴弾の一つもないんだよ。食料も何もない。もう終わりだよ……」
悲痛な表情でそう語る雄三に、須藤は何も言葉をかけることができなかった。そして、雄三は茂みの中へと姿を消していった。それが、兄弟の永遠の別れとなった。
なぜ弟に「がんばろうね」の一言もかけてあげられなかったのか――。
その後悔を、須藤は生涯背負うことになった。
■援軍が来ると信じ、地下壕にこもり続けた
硫黄島守備隊の組織的戦闘は、地上戦37日目の3月26日に終わりを迎えた。
しかし、この時点ではまだ、大勢の将兵が島内の地下壕に散らばり、身を潜めていた。硫黄島は首都・東京の一部だ。本土の軍部が見捨てるはずはない。兵士たちは、そう信じていた。
本土からの援軍の到着を待って耐える者、栗林中将の「一日でも長く抵抗せよ」という厳命を胸に、地下壕にこもり続ける者。さまざまな思いを抱えながら、彼らはなおも生き延びようとしていた。
■戦後も残り続けた、味方の自決の「痕跡」
須藤もその一人だった。彼が身を隠していた壕には、負傷して動けなくなった兵士たちが何人もいた。動けない負傷兵たちは、仲間から「苦しまないで自殺しろ」と促されていた。あるとき、壕内で数メートル先にいた負傷兵が、手榴弾で自決した。須藤は猛烈な爆風を浴び、破片が眉間と左腕に突き刺さった。破片は戦後も体内に残り続けた。
生きるか死ぬか――。
極限の島では、その境界はまさに紙一重だった。
日増しに募る飢えと渇きの苦しみ。本土から援軍は来ない。自分たちは見捨てられた。そんな絶望感が残存兵の間で広がっていった。そして迎えた4月上旬、最悪の事態が起きた。壕に爆弾が投げ込まれ、土砂で出入り口が塞がれてしまった。
絶望がさらに深まる中、壕にいた軍曹が、須藤に声をかけてきた。
「あんた、地形に明るいよな。いかだで島を脱出しよう」
須藤が硫黄島出身だったからこそ、そんな誘いがかかったのだった。晴れた日には、北硫黄島や南硫黄島が望めた。彼らは、そこを目指そうとしていた。壕にいた11人は、意を決して土砂をかき分け、海岸を目指した。
■投降した者以外はみんな命を落とした
だが、彼らが壕を出た直後、米軍兵士たちに包囲された。タナカ、オギワラという名の日系人の敵兵が「日本は負ける。降伏すれば生命は保証する」と説得してきた。
須藤たちは、もはや力尽きたような心地になっていた。上半身の衣服を脱がされ、一列に並ばされた。投降すれば殺される。それが、当時の日本人の常識だった。もう撃たれても構わない。そのとき、須藤の胸には、不思議と恐怖はなかった。
投降してからわずか数分後、さきほどまでいた壕は、米軍によって徹底的に爆破された。中に残っていた兵士たちは、おそらく全員が命を落とした。須藤はそう思った。
須藤は、米軍が島内に設けた収容所に移送された。与えられた捕虜番号は3桁だった。そこで、捕虜となった者の数がいかに少ないかを思い知ることになった。こうして須藤の「硫黄島の戦い」は終わった。

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酒井 聡平(さかい・そうへい)

北海道新聞記者

1976年生まれ、北海道出身。2023年2月まで5年間、東京支社編集局報道センターに所属し、戦没者遺骨収集事業を所管する厚生労働省や東京五輪、皇室報道などを担当した。硫黄島には計4回渡り、このうち3回は政府派遣の硫黄島戦没者遺骨収集団のボランティアとして渡島した。土曜・日曜は、戦争などの歴史を取材、発信する自称「旧聞記者」として活動する。取材成果はTwitter(@Iwojima2020)などでも発信している。北海道ノンフィクション集団会員。北海道岩内郡岩内町在住。初の著書に『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)。

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(北海道新聞記者 酒井 聡平)
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