■お笑い芸人兼神主である狩野英孝が「2億回」も聞かれた質問内容
「で、お寺と神社は、何がどう違うの?」
お笑い芸人の狩野英孝さんは宮城県北部の栗駒町(現栗駒市)の実家が神社(櫻田山神社=さくらださんじんじゃ)で、第39代神主を務めている。持ちネタ「ラーメン、つけメン、僕イケメン」にちなみ「イケメン神社」とも言われているそうだが、芸人兼神主という肩書が珍しがられて、番組内やプライベートなどで、本人曰く「2億回も」冒頭の質問を受けたという。答えはこうだ。
「神社は神様、お寺は仏様。信仰してるものが全然違うので、明らかに違う。神社っていうのは、石、川、山、海とかそういう存在するものに神様が宿るとされていて。ご神木とかもあるように、木に神様が宿っている。お寺は仏様なので、仏教なんですよね。自然に宿るとかではなく……」(フジテレビ系、「酒のツマミになる話」2月21日放送分)
「ぼくがよく言うのは、『始まりと終わり』ってこと。例えば、神社は子供が授かりますように、子供が生まれて新たなスタート、合格祈願、高校大学で新しくスタートしたい、商売繁盛、店をたてて新しく何かをスタートとか。
ほかの出演者からのツッコミに一部しどろもどろになるシーンもあり、よく理解できたという人もいた一方で、モヤモヤした表情の人も。現役の神主なら、ここはすっきり即答してほしいところだが、その実、この問いは複雑で、奥が深い。
深淵なる日本の伝統宗教の姿を、京都の浄土宗僧侶であり、日々、宗教関係の取材をしているジャーナリストとして、大学などで講義をしている筆者がきっちり簡潔に解説してみたい。文末には寺院・仏教と神社・神道の主な違いをリスト化した。
まず、神社から。各地に存在する「神社」がはじまったのはいつか、お分かりだろうか。1000年前? 2000年前? 実はそんなに歴史は長くない。正しくは1871(明治4)年以降だ。それまでは、一般には「宮」あるいは「社」と呼ばれていたが、同年の神祇官制度および、神社の序列を定めた官国幣社制度によって「神社」という用語が一般に用いられるようになった。
では、日本で「仏教」がはじまったのは? こちらも、さほど古くはない。やはり明治以降のことである。
さらにいえば「宗教」という言葉や概念が生まれたのも明治時代だ。わが国が西洋に門戸を広げた時、「religion」の概念を、仏教用語を使って「宗教(ものごとの本質を説く法)」と訳したのだ。
以上に挙げたように名称だけでも、明治期以前と以降では大きく異なっている。日本の伝統宗教は近代になって、がらりと姿を変えた。江戸時代までは信仰の対象である「仏と神」、施設でいえば「寺院と神社」が習合していた。その状態が明治維新時に分離・解消され、「仏教と神道(寺院と神社)」が明確に切り離された。そして、それぞれの施設に宗教法人格が与えられたのだ。
歴史を遡って説明しよう。わが国における「宗教」の起源は、定かではない。
■「神社・神道」のルーツを深掘りしていくと…
原始宗教の存在を示す古い文献としては、古墳時代初期(3世紀後半)の『魏志倭人伝』がある。そこには歴史の授業に出てきた邪馬台国の女王「卑弥呼」が登場する。魏志倭人伝では卑弥呼について、「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆(しゅう)を惑わす」と述べている。「鬼道」とは「神々と交流するなどの祭祀」を指す。神々の主体となるのは山や川、太陽や月、雨や雷などの自然や自然現象と考えられる。人々が制御不能な大自然に畏怖を抱き、「神なる存在」を見出したのだ。
原始時代には、卑弥呼のように神々と交信する呪術師(シャーマン)が出現した。祈りや弔い、占いなどの呪術・儀礼を実施した。これを一般的には自然崇拝、精霊崇拝などという。今につながる神道のはじまり(古神道、原始神道)といえる。だから、本来の神道には「教祖」がいない。原始宗教を今に伝える姿を見たければ、たとえば、神が宿るとされる「沖縄の御嶽」や「種子島のガロー山」などが存在する。
当時の祭祀の場所は、巨岩の上に設けた磐座(いわくら)や、しめ縄などで聖域をつくった神籬(ひもろぎ)といった自然環境の中。現在の神社のように、神体を祀る宗教建築物があったわけではない。
なお、神社のシンボルである鳥居の起源や意味は、よくわかっていない。現存する最古の鳥居は山形市鳥居ヶ丘にある「元木(もとき)の石鳥居(いしとりい)」(平安時代初期、国の重要文化財)とされている。
神社本庁の公式サイトには「天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋にお隠れになった際に、八百万の神々が鶏を鳴せましたが、このとき鶏が止まった木を鳥居の起源であるとする説や、外国からの渡来説などがあります」としている。
こうした原始的かつ素朴な宗教が萌芽する中で6世紀、わが国に本式の「宗教」が入ってきた。大陸から仏教(あるいは儒教など)が、一体の仏像(釈迦牟尼仏)とともに伝来したのだ。
■「寺院・仏教」のルーツは6世紀に遡る…
それを取り入れようとしたのが天皇や皇族らであった。仏教の受容を巡っては厩戸王(聖徳太子)の時代に、守旧派の物部氏と改革派の蘇我氏が、熾烈な争いを繰り広げた。
仏教公伝にまつわる逸話は『日本書紀』に書かれている。欽明天皇から仏教の受容を巡って意見を求められた豪族の蘇我稲目はこう答えた。
「百済より西側の国々は皆、仏法に帰依しております。
すると、物部尾輿が異論を唱えた。
「わが国の天皇は、天地における百八十(ももあまりやそ)の神々を祀り、四季を通じて祭祀を司ってきました。今、海外から来た得体の知れない仏を拝めば、きっと神々の怒りを買ってしまうことでしょう」
こうして、蘇我・物部両者は対立を深め、最終的には合戦へと発展する。当初、物部氏が形勢を有利に進めた。苦戦を強いられた蘇我氏であったが、蘇我氏側についた厩戸王は最終決戦の前夜に白膠木(ぬるで)で四天王像を彫り上げ、
「この戦いに勝った暁には、四天王を祀る寺を建てることをお約束します」
と発願。敵将の物部守屋が討ち死にすると、物部氏は総崩れし、蘇我氏が勝利した。
ここで重要なポイントは、仏教受容派の厩戸王は用明天皇の皇太子であったという点。つまり、神々を祀る神道の最高祭主である天皇家の皇太子が、別の宗教である仏教に帰依するといった「シンクレティズム(syncretism、宗教混淆)」現象が起きたのである。
シンクレティズムは他国の宗教でもみられる。たとえば中国では、仏教・儒教・道教による「三教」が早くに形成されていた。6世紀に仏教伝来した時点で、すでに多くの宗教が融合している状態であったのだ。
わが国では長年にわたる大陸との交易・交流によって、仏教や儒教や道教、陰陽道、さらには神道を含めた土着的な宗教がまるでミックスジュースのように重層的に混じり合い、独自の宗教がつくられていったのだ。
なので、今でも日本の仏教には神道や儒教、道教などの要素が色濃く残っている。現在、各地の寺院では先祖供養が実施されているが、これは儒教の影響が多分に含まれている。先祖供養で使用される位牌は儒教で使われる「木主」が起源だ。また寺院の中には七福神の福禄寿や寿老人などを祀っているところもあるが、これは道教のアイテムである。現在、仏教のカテゴリに入っている修験道には、道教や神道の考え方が多分に見られる。
■【寺院・仏教×神社・神道】18項目の決定的な違いリスト付き
こうしたシンクレティズムの状態を、学問的に整理しようとする動きが平安時代に登場した「本地垂迹説」という神仏習合思想である。
本地垂迹説は、日本の神々は仏菩薩が化身としてこの世に現れた姿(権現)だとする理論だ。この結果、たとえば天照大神は大日如来が本地(本来の姿)。瓊瓊杵尊は釈迦如来、八幡神は阿弥陀如来などである。こうして、神社の神殿で、偶像が祀られていく。同時に、神宮寺、別当寺などという形態で、神社に付随する寺院も増えていった。そこに住持する社僧も現れた。
したがって、特に中世以降における寺院や神社は、現在のように「仏教=寺院」「神道=神社」と明確に分けて存在したのではない。同じ境内地に仏菩薩や、権現としての神々などが混在して祀られ、それをひっくるめて「寺」と呼んだのだ。
寺院の中には「社」がつくられた。現在でも寺の中に鳥居やお宮があったりするが、それはかつての神仏習合時代の名残りである。このように、寺院と神社が混じり合った宗教施設があちこちに出現した。
たとえば、京都の八坂神社は江戸時代までは祇園社感神院という神仏習合施設であった。ほかにも、京都の愛宕神社は元は白雲寺という寺院、奈良の春日大社は興福寺の支配下にあり、伊勢の神宮には神宮寺という習合寺院があり、出雲大社(杵築大社)は鰐淵寺と習合していた。
鎌倉時代から江戸時代まで、仏教は武家社会に庇護される形で興隆する。特に江戸時代、キリシタン禁制を目的にした寺請制度によって、寺院はムラ社会における確固たる地位を築いた。すると既得権益に守られた仏教は、常に神道より立場が上、という状態となった。神社を支配下におき、僧侶によって神官を虐げるということも、しばしば起きた。企業でいえば、親会社が寺院、子会社が神社というような支配関係である。
他方で17世紀に入ると、仏教の支配的構造に異論を唱える学説が登場する。国学だ。国学は『古事記』『日本書紀』などの古典研究を基にして、古来の神道に理想を求めた。国学思想では仏教はしょせん、外来宗教という位置付けであった。国学思想は幕末の、尊王攘夷を掲げる武士層の、精神的支柱となっていく。
そして政治権力が転換した明治維新時、過去最大の宗教改革が断行された。
1868(慶応4)年3月に発布された「神仏分離令」である。この法令によって、神仏習合が禁止された。神仏分離令は王政復古、祭政一致に基づいて、神と仏を区別するのが目的だった。その内容は神祇官の再興、神社における僧侶の還俗、権現号の廃止、神葬祭への切り替えなどである。
しかし、為政者や神官の中には、この神仏分離令を拡大解釈する者が現れた。そして仏教にたいする熱狂的破壊行為へと発展した。それが「廃仏毀釈」である。
そのため鹿児島では一時、寺院と僧侶がゼロになった。また松本、富山、苗木、伊勢、津和野、土佐、宮崎などでも市民をも巻き込んだ激烈な廃仏運動が展開された。廃仏運動にたいし、新政府はたびたび戒める布令を出すが、コントロール不能な状態に陥った。
廃仏毀釈が与えた仏教界の影響は甚大であった。多くの仏教建造物、仏像、仏具、経典が灰燼に帰した。廃仏毀釈によって9万あったと推定される寺院は半分の4万5000ほどになった。廃仏毀釈がなければ日本の国宝はゆうに3倍はあったとされている。
廃仏毀釈は10年ほどで沈静化。だが、その時には「神道=神社」「仏教=寺院」という明確な棲み分けがなされていた。現在、寺院の隣接地に神社があったりするが、これは明治初期に1つの境内地を寺院と神社に切り分けた証といえる。
現在における神道(神社)と仏教(寺院)の違いは以下の表のようになるだろう。例えば……。
起源は……寺院は6世紀に仏教伝来(百済から)、神社は原始からの自然信仰に基づく
宗教としては……仏教・寺院はグローバル宗教、神道・神社は土着宗教
シンボルは……寺院は仏像、曼荼羅など、神社は鳥居、注連縄など
参拝時の作法は……寺院では合掌・礼拝、神社では二礼二拍手一礼
お守りは……寺院は厄除けや先祖供養中心、神社は願掛けや開運が中心
観光資源としての位置づけは……寺院は仏像や伽藍・庭園を含めた文化資産、神社は自然との調和、縁結びやパワースポットとして人気
狩野さんも次回また誰かに「お寺と神社の違いって?」と聞かれた際などには、ぜひ参考にしていただければ幸いである。
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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。
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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)