■家系図が…、「べらぼう」が張っていた伏線
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)第6話で、田沼意次(おきつぐ)(渡辺謙)の嫡男・意知(おきとも)(宮沢氷魚)のもとに、旗本・佐野善左衛門政言(ぜんざえもんまさこと)(矢本悠馬)が佐野家の家系図を持ち込み、さかのぼれば田沼家は佐野家の家来筋だったので、この系図をもとに田沼家の家系を改竄(かいざん)してもよいと申し出た。それを意知から聞いた意次は、「出自などどうでもいいのだ」といって、佐野家の系図を庭の池に投じてしまった。
ただし、同時代の人物評によれば、田沼意次は、「外面では親しみやすく諸大名とは親しく付き合い、自身の出世を謙遜し、下級の家来たちにまで親切に声をかけるなど、少しも権勢を誇るところがなかった」という(藤田覚『田沼時代』)。
とてもじゃないが、渡辺謙のような豪胆な人物ではなく、むしろ丁寧で気配りの人だったらしい。また、意次の悪評は反田沼派によるものが多く、客観性を欠くという指摘もある(大石慎三郎『田沼意次の時代』)。おそらく、ヨソ様の大事な家系図を池に放り投げるような御仁ではあるまい。
では、そもそもの話。田沼家の家系って、どうだったんだろうか?
■田沼家は鎌倉時代まで遡る武家だった?
松平定信が老中を務めていた時代に、江戸幕府が大名・旗本の家系図を集めた『寛政重修諸家譜』によると、田沼家の家系は以下の通りだ。
田沼家は、藤原氏にして佐野庄司成俊の末裔である。成俊から6代目にあたる壱岐守重(いきのかみしげつな)が下野国安蘇(しもつけのくにあそ)郡田沼村(栃木県佐野市)に住んではじめて田沼と号し、鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経に仕えた。3代後の田沼丹後守(たんごのかみ)重行は新田義貞に属した。
その子孫は千本(せんぼん)に改姓したが、田沼伊賀守光房が田沼に復姓。子がなかったので、新田氏の支流・高瀬山城守忠重の次男を養子として、田沼山城守重綱と称した。子孫は上杉、武田、武蔵忍(おし)城主の成田氏に仕え、再び武田勝頼に属したが、武田家滅亡後、田沼次右衛門吉次(じえもんよしつぐ)が紀伊藩主・徳川頼宣(よりのぶ)に仕え、子孫は紀伊徳川家に仕えた。
■実際は意次の父が養子に入り田沼姓を名乗る
しかし、実際は違ったらしい。『三百藩家臣人名事典5』によれば、田沼意次の父・田沼専左衛門は「実父は菅沼半兵衛、養父は田代七右衛門重章。養子となって以後、御伽(おとぎ)に召し出され、田代の一字と菅沼の一字を取って田沼と称し、家紋を田代の常紋七曜を用いるように命ぜられる」という。
先祖が田沼に住んでいたから田沼を名乗ったのではなく、2つの姓を合作したから田沼になったのだ。おそらく田沼という地名を探して、佐野の近辺に田沼村があるから、佐野氏の系統を探したら田沼がいた。その末裔としよう――そうやって作った偽(にせ)系図なんだろう。
■紀州で将軍吉宗に仕えた父は低い身分だった
意次の父・田沼専左衛門意行は、8代将軍・徳川吉宗が部屋住みである頃から仕え、吉宗の将軍就任にともない、江戸に出て600石の幕臣に取り立てられ、子の意次が抜擢される伏線となった。
先述の『三百藩家臣人名事典5』によれば、田沼専左衛門の「名は重意」だったという。のちに意行に改名したのだろう。
江戸時代には主君の名前と同じ字を使うことを憚(はばか)る風習があった。だから、田沼重意は、9代将軍・徳川家重の名前に遠慮して田沼意行に改名したのだろう。そして、子の田沼意次(もとつぐ)は、将軍世子・徳川家基(いえもと)に遠慮して「おきつぐ」に改名したのではないだろうか。
ここで想像をたくましくすれば、家基という名前は、10代将軍・徳川家治(眞島秀和)が老臣の松平武元(石坂浩二)、父以来の側近・田沼意次にちなんで命名した可能性がある。武元は「たけちか」と読ませるが、『寛政重修諸家譜』によれば初名は「たけもと」だった。信頼する二人に「もと」の字がつくので、子に「いえもと」と名乗らせた。漢字は異なる字を選んだが、二人は遠慮して読み方を変えたのではなかろうか。
ちなみに、田沼意次の曾祖父は「吉重」、祖父は「義房」だったという。祖父ははじめ「吉房」だったが、5代将軍・徳川綱吉を憚って「義房」に改名した可能性もある。
■上り詰めた田沼意次は、息子にも政略結婚を
意次の義父は一橋徳川家老、弟も一橋徳川家老である。
意知の妻は老中・松平康福(相島一之)の娘である。江戸時代も中期以降になると、先祖代々の家柄だけでなく、閨閥(けいばつ)が重要なファクターになっていた。妻の親が老中というケースが多いのだ。実際、松平康福の義父も老中なのだ。
当然、意次の子女と縁続きになろうという大名も多かった。三女は寺社奉行・西尾忠移(ただゆき)、四女は若年寄・井伊直朗(なおあきら)、養女は奏者番・大岡忠喜(ただよし)に嫁ぎ、三男は老中・水野忠友(小松和重)の婿養子、五男は土方雄年(かつとし)、六男は九鬼隆貞(くきたかさだ)の養子になっている。
■佐野政言は藤原家にもつながる名門の出?
佐野氏は藤原北家・秀郷(ひでさと)流の名門である。佐野基綱は鎌倉幕府に仕えて御家人となり、戦国時代は下野国で勢力を築いたが、徐々に北条家の侵食に遭い、当主・佐野宗綱が討ち死にすると、娘しかいなかったため、北条氏康の子どもを婿養子に迎えた。豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が滅ぶと、富田家から信吉を婿養子に迎えて大名として存続したが、実兄の改易に連座して信吉も改易されるが、。しかし、子孫は3500石の旗本として永らえた。
一方、佐野善左衛門の家系は、家祖・佐野与八郎正安(よはちろうまさやす)が三河国大幡(おおはた)(愛知県岡崎市大幡町)を領し、家康の祖父・清康に仕えて武功を挙げ、下和田村(愛知県岡崎市下和田町)を賜ったという。
『寛政重修諸家譜』では正安以前の系図を載せていない。下野の佐野氏との具体的な関わりは不明である。南北朝時代かそれ以前に下野から移住したのか、もしくは全く無関係で、たまたま佐野を称していた家系だったと推定される。
■佐野は「世直し大明神」として祭り上げられる
佐野政言は天明4年(1784)3月24日、江戸城中之間において田沼意知に斬ってかかり、深手を負わせ、意知は死亡。政言は切腹を命じられるも、田沼の汚職政治を正したとして江戸の人々から「佐野大明神」と祭り上げられることになる。
政言が田沼意知を斬りつけた理由については、田沼家に多額の献金をしてきたのに良い役職に就けなかったという恨みゆえともされる。しかし、諸説あり、実際のところは不明である。意知が政言から系図を借り受けて返さなかったという説もあるのだが、そもそも佐野善左衛門家は下野の佐野氏につながる系図を所持していなかった可能性が高い。
佐野政言の家紋は丸に剣木瓜(けんもっこう)だが、「べらぼう」では揚羽蝶(あげはちょう)にされている。これは下野の佐野家の家紋が揚羽蝶だからなのだろう。
たとえばオランダの長崎商館長であるティチングは、その著『日本風俗図誌』のなかで、この事件について次のように書いている。「この殺人事件に伴ういろいろの事情から推測するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名がこの事件にあずかっており、またこの事件を使嗾(しそう)(そそのかす)しているように思われる」(大石慎三郎『』)。
ドラマとしては壮大な陰謀事件にした方が面白いと思うのだが、「べらぼう」では単なる私怨にされてしまうのだろうか。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)