■「田沼家のプリンス」が暗殺されたのは史実
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)で、老中・田沼意次(渡辺謙)の嫡男、若年寄・田沼意知(宮沢氷魚)が江戸城新番所で番士の佐野政言(まさこと)(矢本悠馬)に斬られ、数日後に死去した。これは史実であり、権勢を誇った田沼意次失脚へとつながっていくのだが、約300年の天下泰平の世でも江戸城での刺殺事件は7件、もしくは11件あったといわれている。以下、有名なものを挙げておこう。
3代将軍家光時代、老中・井上正就刺殺事件
おそらく最初の江戸城刃傷事件といわれるのが、寛永5(1628)年8月10日、江戸城西の丸廊下にて、老中・井上正就(まさなり)(1577~1628)51歳が旗本の豊島信満(としまのぶみつ)(正次、明重ともいう)に刺殺された事件である。その場に居合わせた青木義精が信満をはがい締めにしたが、信満は脇差しで自らの腹を刺し、青木を道連れに自害した。
豊島が正就の嫡男・井上正利(まさとし)の縁談を進めていたところ、将軍世子・徳川家光の乳母である春日局が鳥居成次(なりつぐ)の娘を紹介し、正利と結婚してしまった。面目丸つぶれの豊島が悲憤慷慨し、正就殺害に至ったという(中村彰彦『乱世の名将 治世の名臣』。同書では鳥居忠政の娘となっているが、『寛政重修諸家譜』によれば成次の娘である)。
ちなみに、鳥居成次というのは、家康の忠臣・鳥居元忠の三男(忠政の弟)で、家光の弟・徳川忠長の家老を務めていた。個人的には、家光の乳母・春日局が、忠長の家老の娘を紹介するというのは腑に落ちないのだが、そういうふうに伝わっている。
家光は正就殺害を聞いて激怒し、豊島一族への処分を言い渡したが、老中・酒井忠勝(ただかつ)(忠次とは別系統の酒井氏)がこれをさえぎった。
しかし、その忠勝もまさか自分の孫が次の事件の被害者になるとは思っていなかっただろう。
■酒井忠勝の孫である大老の暗殺には黒幕が?
5代将軍・綱吉の時代、大老・堀田正俊刺殺事件
それから20年後の貞享元(1684)年8月28日、江戸城中奥(なかおく)御座の間にて、酒井忠勝の孫である大老・堀田正俊(まさとし)(1634~1684)50歳が、若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺殺された。正休は、騒ぎを聞きつけ駆けつけた老中等にメッタ刺しにされ、死亡した。
堀田正俊は春日局の養子で、4代将軍・徳川家綱の死後、弟の徳川綱吉の擁立に尽力した。天和元(1681)年に大老に任じられ、「天和の治」と呼ばれる善政を行っていた。稲葉正休は正俊の父の従兄弟にあたる。原因は諸説あるが、はっきりしない。幕府の公式見解は「発狂したから」ということになっている。一説には、堀田正俊が邪魔になった綱吉が殺害を命じたとも言われており、小説『儒学殺人事件』の題材にもなっている。
■堀田が殺され、綱吉は「生類憐れみの令」を発令
江戸城は大きく分けて「本丸」と「西の丸」で構成されており、本丸が将軍の居城、西の丸が将軍世子、もしくは隠居した将軍の居城にあたる。
中奥は社長(将軍)と役員(老中・若年寄)等の執務室で、それまでは老中等が将軍と会談していて政務を行っていた。ところが、ここが殺害現場になってしまったため、綱吉は用心して「御用部屋」という執務室を作って老中らを遠ざけた。老中等は将軍と直接会話する機会が失われたため、意思疎通するために側用人が置かれ、側近政治がはじまった(大石慎三郎『将軍と側用人の政治』)。
また、目の上のタンコブであった堀田正俊が死去すると、綱吉は悪名高い「生類憐(あわ)れみの令」を発するようになった。
■浅野内匠頭は松の廊下で抜刀したのではない?
5代将軍・綱吉の時代、高家肝煎・吉良義央刃傷事件
それからおおよそ20年後の元禄14年(1701年)3月14日、江戸城の廊下にて、高家肝煎(こうけきもいり)・吉良上野介義央(よしなか)(1641~1703)62歳が、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)(1667~1701)34歳に斬りつけられた。長矩はその場で梶川与惣兵衛(よそうべえ)に「殿中でござる。殿中でござる」と取り押さえられて一関藩邸に護送され、その日のうちに切腹、改易を申しつけられた。義央は額に傷を負ったのみで、おとがめなしだった。有名な「赤穂浪士」(忠臣蔵)の発端になった事件である。
「赤穂浪士」では刃傷事件が「松の廊下」で起こったことになっているが、実際は違ったらしい。
■江戸城の間取りから「忠臣蔵」の真相を推定
「白書院」「柳之間」というのは部屋の名前である。白書院は5室からなり、儀式や御三家の対面に使い、うち1室(帝鑑之間)は老中や大身の譜代大名の詰め所になっていた。柳之間は10万石未満の外様大名の詰め所である。また、「赤穂浪士」では長矩が真正面から切りつけたことになっているが、実際には背後から烏帽子(帽子)に刀を振りかざし、振り向いた吉良の眉間を切ったというのが真相らしい。おそらく浅野長矩は柳之間に詰めており、吉良が前の廊下で立ち話をしていたのを見つけて切りつけたのであろう。
この事件も原因がはっきりしない(筆者は柳之間前で吉良が長矩の悪口を言っていたと思っている)。長矩の叔父・内藤忠勝(ただかつ)(1655~1680)25歳が、芝増上寺にて永井尚長(なおなが)(1654~1680)26歳を刺殺した挙げ句、切腹を命ぜられており、すぐキレてしまう性格が遺伝したという説もある。
ちなみに、浅野長矩、内藤忠勝、稲葉正休はいずれも京都所司代・板倉勝重の子孫である。じゃあ板倉家の家系に原因があるのかといえば、そうではないだろう。
■家紋が似ていて、人違いで熊本藩主が刺された?
9代将軍・家重の時代、細川宗孝誤認刺殺事件
延享4(1747)年8月、江戸城大広間脇の厠(かわや)(トイレ)近くで、肥後熊本藩主・細川宗孝(1716~1747)32歳が板倉勝該(かつかね)(年齢不詳)に刺殺された。勝該は以前から精神疾患があり、一族の板倉勝清40歳が自分を隠居させ、勝清の子を跡継ぎにすると妄想・逆恨みしていたという。勝該は勝清を刺殺するつもりだったのだが、衣服に付いている家紋が似ていたため、誤って宗孝を刺殺してしまったといわれている。
宗孝はほぼ即死だったらしい。武家社会で殿中での刺殺は不覚悟の極み、最悪には御家お取り潰しといわれても仕方がない。たまたま近くに居た伊達宗村(むねむら)29歳が機転を利かせ、いい働きをした。「細川殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と叫んだのだ。宗孝の遺体は藩邸に運ばれ、治療の甲斐なく死去。併せて、子がなかった宗孝に、弟・細川重賢(しげかた)を養子にしていたと報告。
■犯人は細川家に恨みがあったという説も
その一方で実は勝該が細川宗孝を狙って殺害したという説もある。細川家の江戸藩邸は勝該の屋敷に隣接し、雨が降るたびに細川邸から勝該邸に排水が流れてくるので苦情を訴えたが、一向に修繕してくれなかったからだという(氏家幹人『旗本御家人』)。
殺害現場の「大広間」も部屋の名前で、6室から構成され、年始行事や外国人と謁見などの大きな儀式に使われていた。うち1室(松之間)は外様の大身大名の詰め所になっている。細川宗孝も伊達宗村も大広間松之間が詰め所だった。年齢も近いし、個人的に親しかったのかも知れない。
一方、板倉勝清の詰め所は「雁之間」でちょっと遠い。それから考えると、勝該は初めから細川宗孝を狙っていたのだろう。ただ、細川家としては屋敷のトラブルより、相手が発狂したおかしかったという方が外聞としていいので、家紋を変えて誤認殺人説を広めたのであろう。
ちなみに、棚からボタ餅で家督を継いだ細川重賢は、江戸時代を通じて有数の名君になったのだから、歴史というものはわからない。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)