周囲や他人に心を乱されないように生きるにはどんな心構えが必要なのか。禅僧の枡野俊明さんは「誰かからの要求に100%の力で応えようとする生真面目な生き方では気力も体力もすり減っていく。
いちいち真に受けず適度にかわす、ある意味での“適当さ”を持てばストレスをコントロールできる」という――。
※本稿は、枡野俊明『あらゆる悩みが消えていく 凛と生きるための禅メンタル』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。
■喫茶喫飯(きっさきっぱん)
まるで結界を張るように、自分の時間を大切に守る
大量の仕事を抱えて困っている同僚がいたら、手を貸してあげる。それが自然にできるのは、すばらしいことです。ただし自分にも余裕がないのだとしたら、無理して助っ人に回る必要はありません。ましてや、「いい人だから、頼みは断らないよね」と期待されてのことなら、受け入れる必要などないのです。
あるいは、最近は「デスク爆弾」なる言葉もあるようですが、たとえば職場で延々と雑談につかまってしまうような状況。こちらも自分の本意でないのであれば、タイミングを見て、感じよく切り上げるようにしましょう。
「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」とは、お茶を飲むときはお茶に、ご飯を食べるときはご飯に集中せよという意味の禅語。つまり、目の前にあることにひたすら神経を注ぐことが大切なのだということです。
時間は有限。ですから、今、自分が力を尽くすべきものは何なのか? ということを、常に見据えておきたいものです。

そして、本当に大切なもの以外は、切り捨てる勇気を持ちましょう。あれもこれもと手を出していては、すべてが散漫になり、仕事の質を上げることはできません。
冒頭の例で言うと、もちろん、自分が本当に相手の力になりたいと思ったのなら、手助けをすればよいし、気分転換をしたいと感じたのなら、雑談にも快く付き合えばいいでしょう。
ですけれど、「今は自分の仕事に専念したい」と感じるのなら、そちらを優先すべきです。
「付き合わないと、気まずくなるかな」などと考える必要はありません。判断のポイントは、自分の状況と気持ちです。そこをおざなりにして、「嫌われたくない」が先行してしまうと、どんどん便利屋さん扱いされ、「都合のいい人」という不名誉な称号を得ることになるかもしれません。ぜひ、「いい人でいるための仕事」を捨てられる自分になってください。
仏教では、「けじめをつける」という考え方を大切にしています。神社に鳥居があるように、お寺にも大きな門があり、そこで空間を区切っています。いわば、結界を張っているのです。
大きなお寺の場合は3つ門があり、本堂に近くなるほどに空間は清らかさを増し、「浄域(じょういき)」の度合いが増していきます。
ぜひ、仕事においてもこの考え方を取り入れてみてはいかがでしょうか。
自分自身に結界を張るつもりで、「ここまでは時間を明け渡すけれど、ここからは譲れない」といった境界線を設けるのです。その毅然とした意志がオーラとなって、あなたを「振り回されない人」にしてくれるはずです。
自分の領域に必要以上に人が踏み込んでこないよう防御することで、自分のペースを守る。それも大切な仕事なのです。
そしてまた、「便利屋さん」扱いされないために大切なのは、「ここは自信がある」という、自分の得意分野に磨きをかけることです。自分にしかできないことや、誰もが「この分野なら、あなたが一番」と認めるような能力を向上させていくのです。
私は日頃から、「苦手なことを克服するより、得意なことを伸ばしたほうがいい」と言っています。苦手なことを平均点以上にしようとするのはなかなか難しいですし、本人にも苦痛を強いること。一方、得意なことは磨けば磨くほど熟達し、スペシャリストへの道筋ができていくのです。
そうして自他ともに認める能力を身につければ、周りもそう気軽に「手伝ってくれ」とは言えなくなるはず。便利屋さんとしてではなく、突出した実力で指名される人になるのではないでしょうか。

■真玉泥中異(しんぎょくでいちゅうにいなり)
どんな状況のなかでも、自分への誇りを見失わない
凛と生きている人のなかに、自分自身への敬意を払わない人はいません。
「私が私であること」に静かな誇りを抱き、日々を丁寧に、真摯に歩んでいます。それは決して、おごり高ぶるとか、自分のすべてに自信を持っているとか、そういうことではありません。
「あのときはやり方を間違えちゃったな」という過去への反省も、「私、これはちょっと不得意なんだよね」という短所も、すべてを認め、受け入れたうえで、自分への尊厳を抱いているのです。
であるからこそ、自分を軽んじられるような扱いには、静かに、しかしはっきりと「NO」を伝えます。尊厳を守るために、立ち上がるのです。そしてまた、外野で何が起きても、何を言われたとしても、それによって自分の価値は損なわれないことを知っています。その確信が、自ずと凛とした風情を醸し出すのでしょう。
つまり「凛とした生き方」の内訳は、「自分へのプライド」なのだと思います。生きていれば、いろいろなことがあるものです。懸命に仕事をし、結果も出しているはずなのに、上司とソリが合わず、正当に評価されなかったり。あるいは、悪意ある人のターゲットにされて、職場やコミュニティのなかで悪い評判を立てられてしまったり。

あなたの尊厳を損なわせ、自信を奪うのには十分な出来事が起きることもあるでしょう。それでもどうか、どんなときでも「絶対に自分を嫌わない」と固く決めてください。
「真玉泥中異(しんぎょくでいちゅうにいなり)」という禅の言葉があります。本物の宝石であれば、たとえ泥の中にあっても輝きを失わないという意味です。あなたも世界でたった一つの、まばゆい宝石です。たとえ泥のような世界に投げ込まれたとしても、自分の中の内なる輝きを信じてください。あなたの誇りは、誰にも奪うことはできないのです。
たとえば上司と相性が悪く、正しく評価されなくても、その現実にとらわれすぎるのではなく、目の前の仕事にひたすら力を注いでください。その姿は必ず誰かの目に留まるものですし、そこで圧倒的な結果を出すことで、境遇も変わるかもしれません。
それでも冷遇され続けるというのであれば、その会社が根本的におかしいということですから、さっさと別の会社に移ればよいでしょう。あなたにふさわしい場所は、ほかに必ずあります。「ここで報われないなら、他の場所で花を咲かせよう」と、次へと向かう勇気を持てばいいのです。

また、会社の人事や昇格、配置換えなどには、さまざまな人の思惑も絡むものですし、タイミングや運の巡り合わせといったことも大いに関係するものです。ですから思い通りの結果が得られなくても、いたずらに落ち込む必要はないのではないでしょうか。
自分の芯を見失うことなく、今、打ち込んでいることに、さらなる強い信念を持ってください。自分の仕事が、人や社会を支えている。誰かの笑顔につながっている――そう信じて働けたら、それは、どんな評価を得るよりも誇らしいことです。
枝を張っている梅の木。高いところの枝にある蕾は、よく日が当たるため、早くに花を咲かせます。一方、低いところの枝にある蕾は、なかなか日が当たらないため、少し遅れて花を咲かせます。
これら、どちらが優れているという話ではありません。それぞれが、それぞれの場所で、自分の役割を果たしているだけなのです。
私たちも同じです。自らの「咲くタイミング」を信じて、与えられた今をまっすぐに生きる。
自分の人生に集中し、その物語を精一杯生きることだけを考えればよいのです。
自分への誇りとは、そのような他人と比べない強さであり、「自分の人生に集中する覚悟」がもたらしてくれるものだと思います。
■放下着(ほうげじゃく)
凛とした人は、「無反応」のプロ。見たくないものはドライに流す
「凛と生きる」というと、どことなく生真面目なイメージを抱く方もおられるかもしれませんね。ですけれど実は、凛々しく生きるためには、生真面目さは取り払う必要があります。代わりに、ある意味での「不真面目さ」が必要不可欠です。
生真面目な方というのは、起きる出来事一つひとつに、真正面から全力で向き合おうとします。たとえば、気が進まなくても、誰かからの要求に100%の力で応えようとする。自分自身を否定してくるようなアドバイスにも、真剣に耳を傾ける。過去の失敗で自分を責め、いつまでも反省し続ける……といった具合にです。
このようなことをしていれば、気力も体力もすり減っていき、自分が押しつぶされてしまうのは明らかですよね。
禅の言葉に、「放下着(ほうげじゃく)」というものがあります。これは、放っておきなさい、投げ捨ててしまいなさい、という意味の言葉。「着」はその強調語です。
「自分は自分」というぶれない軸を持っている人には、この放下着の精神がナチュラルに備わっています。そこには、実はある種の「いい加減さ」があります。
他者からの要望も、期待も、あるいは意見やアドバイスも、それが自分の心の平穏を奪うものであったなら、適当にかわす技術に長けているのです(人間関係に無用な軋轢を生まないためにも、表面上はそれを態度に出さないほうが賢明でしょうが)。快適に生きるためには、これくらいの図太さがあってもよいのではないでしょうか。
悩みというのは、実はすべて自分の心がつくり出していると言えます。外部で起きることは基本的には変えられません。
しかし、起きたことにわざわざ反応して「悩み」にまで発展させるか、それともぽんっと放って軽やかに生きるかは、自分次第なのです。
僧侶が坐禅を組むときの基本は、目を半分だけ開ける「半眼(はんめ)」です。目を四十五度、下に落として視界を狭くすることで、入ってくる情報を極端に少なくし、精神の集中を妨げられないようにするのです。
ぜひ日々の生活においても、この「半眼」を意識してみませんか? 自分に降りかかってくる情報、言葉、そのすべてを、律儀にじーっと見つめる必要などないのです。
ぜひ「心の半眼」を実践し、見たくないものは見ないようにしましょう。そのスルースキルを磨き上げていくことで、不快な出来事だって、華麗に跳ねのけられるようになっていきます。そうすれば、黙々と自分のなすべきことに力を注ぐことができるでしょう。
とにかく、物事はもっと気楽に、もっとドライにとらえてよいのです。そのゆるさが結果的に、自分の流儀を保つことにつながります。
もちろん、気に入らないものは何でもかんでも無視すればよいというわけではありません。自分の人生に必要なものは見極めましょう。
そのうえで不要なものを潔く捨て去れば、セルフで人生を心地よく整えられるようになっていくはずです。

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枡野 俊明(ますの・しゅんみょう)

曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー

1953年、神奈川県横浜市生まれ。禅僧、庭園デザイナー、教育者、文筆家。曹洞宗徳雄山建功寺住職。多摩美術大学名誉教授。大学卒業後、大本山總持寺にて修行。以降、禅の教えと日本の伝統文化を融合させた「禅の庭」の創作を続け、国内外で数多くの作品を手がけている。芸術選奨文部大臣賞(1998年度)を庭園デザイナーとして初受賞。カナダ総督褒章(2005年)、ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章(2006年)なども受賞している。2006年、『ニューズウィーク(日本版)』にて「世界が尊敬する日本人100人」に選出。主な作品はカナダ大使館庭園、セルリアンタワー東急ホテル庭園「閑坐庭」、ベルリン日本庭園「融水苑」など多数。2024年には最新作品集『禅の庭IV 枡野俊明作品集2018~2023』(毎日新聞出版)を刊行。禅の精神と現代人の悩みをつなぐ語り口に、世代を問わず共感の声が寄せられている。教育の現場では、長年にわたり多摩美術大学で後進の指導にあたり、2023年、名誉教授の称号を受ける。

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(曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー 枡野 俊明)
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