中居正広氏の性加害問題をきっかけに明らかになった、フジテレビの人権問題について、同社は7月6日に検証番組を放送した。コラムニストの河崎環さんは「番組では、フジテレビの“上納接待文化”が明らかになった。
ただ、酒席での接待に女性社員を駆り出したり、女性アナウンサーに『上質なキャバ嬢』としての資質を求めて憚らなかったカルチャーは、テレビ局が一方的に作ったものではない」という――。
■フジの“上納文化”が語られた
「率直に言って驚きです」

「あまりにも前時代的で、驚きました」
元タレント・中居正広氏と元女性社員の間に起きた性加害トラブルに端を発し、経営と存続危機の渦中にあるフジテレビが6日に放送した、「検証 フジテレビ問題~反省と再生・改革~」。
番組は、瑠璃紺のビロード幕を背景に、何かの追悼番組を想起させる重苦しさで清水賢治・フジテレビ代表取締役が冒頭でひとり謝罪の言葉を述べ、頭を下げる形で始まった。そして中盤では、スタジオゲストの有識者、そして視聴していたマスコミ関係者たちまでが驚くような具体的事実を明らかにした。
前社長の港浩一氏、そして元専務の大多亮氏という経営幹部が、それぞれ“港会”、“大多会”とも呼びうるような「異常な会」を習慣的に開催していた実態が、女性社員へのインタビューによって具体的に語られたのだ。
■女性社員を選び出していた“港会”“大多会”
彼らは、取引先との接待要員の役割を担う女性社員を明確に「性別・年齢・容姿に着目して」選び出していた。港浩一氏はフジのバラエティ担当の役員だった2010年代に入社式で女性メンバーを選び出し、直々に指名して会を組織。大多氏は女性アナウンサーにこだわって接待の飲み会へ呼び出し、「若い子で性格の良さそうな子いませんか?」とメンバーを随時“補充”していた。
“港会”では、先輩の女性社員に呼び出された若手社員が「おめでとう! あなたはこの会のメンバーに選ばれました!」と告げられたという。
「『でもこのメンバーは、港さんと一緒に仲良くお食事をする会で、セーフな場所だから、安心して参加してくれればそれで大丈夫です』って言われました」
セーフな場所、とはなんだろう。セーフじゃない飲み会もあるという認識がなければ、このような言葉は出てこない。
主な目的は「芸能プロダクションなど」との会合。
さまざまな部署から集められた、「美しい、素敵な女性がいっぱい」。だが、この会には暗黙のルールがあった。
「他にどんな用事があっても基本的には必ず参加する。この会のメンバーから誘われた飲み会は最優先で(スケジュールに)入れる」

「選ばれていない女性もいるので、例えば嫉妬に繋がったりとか、あまりこの会のことは外に言わないでほしい、とは言われました」

■「断れない」「秘密の」会
断れない、しかも会の存在は秘密。「嫉妬に繋がる」という意識があるということは、そのメンバーに選ばれることは名誉だったり、なんらかの特権や、有利な立場になるチャンスが得られたりした可能性をもにおわせる。
接待のために送り出され、「隣でお世話というか、お酌をしたりして」その場の舞台装置のような役割を担い、商談や人間関係がうまくいくよう「芸能プロダクションなどの」取引先の歓心を買う。他局に比べてキャスティングが有利になるよう、有力なタレントを抱える芸能プロダクションや、タレント本人が相手だったこともあるだろう。番組に広告が欲しければ無論、スポンサーが相手だったこともあるだろう。
そして社員と取引先が何らかの性的関係に陥れば(陥れられれば)、それは“プライベートの問題”として経験値の一つくらいに見なされる。
それが上納文化でなくて何なのか。
■「港さんと大多さんが全部被った」
“大多会”に参加していたという女性アナウンサーは、大多氏が常日頃「女性アナウンサーは上質なキャバ嬢だ」との持論を述べていたと語った(大多氏は番組中で、発言は記憶にないとしながらも、その考え方が自分のものではないとの否定はしなかった)。
「ホステスで売れるアナウンサーが良いアナウンサーだというのを、(大多氏は)いつもおっしゃっていました。
なので、そういう会で盛り上げれば盛り上げられる能力があるだけ、アナウンサーとしての資質も高いという評価に繋がっていたんですよね」
「だから一生懸命に接待を、みんな頑張ろうと必死になっていたと思います」

この女性アナウンサーは、大多氏からの“接待の誘い”を業務上のスケジュールと同等、もしくはそれ以上の優先順位で扱うよう指示されたことも証言している。
それは、彼らフジの日常のビジネス習慣において上納接待が占めていた重要性を示唆している。
上納接待ありきの局であり、ビジネスであり、番組作りであった。しのごの言わずに盛り上げるノリの良さが正義とされ、セクハラやパワハラは日常の中に当然の振る舞いとして溶け込んでいた。そう断罪されても仕方のない、フジの“風土”の大きな断片だ。
元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏は、検証番組を視聴後に「港さんと大多さんが全部被ったな、と思いました」との発言をしている。
おそらく、正解だろう。
6月初旬、フジは港氏と大多氏に法的責任を問うて提訴する方針を明らかにしている。バラエティの港氏、ドラマの大多氏という、フジの黄金時代を担った大きな功績で経営幹部にまで上り詰めた2人のテレビマンは、局内にDNAのようにして蔓延(はびこ)る悪弊を“A級戦犯”として引き受け、今後待ち構える訴訟へと向かっていくのだろう。
■検証番組が見せた“限界”
今回の検証番組は、第三者委員会が指摘した自局の「ハラスメントに寛容な風土」を、現時点のフジが、本人たちにとって可能な限りまで言語化、映像化したものだったと筆者は受け止めている。裏返すならば、そこに描かれたものまでが、フジの現況における地上波“検証・反省”番組の限界でもある。
SNSなどでは「何のための接待メンバーなのか、それっぽいことをにおわせてはいたけれど、全然突っ込まれていない」「フジテレビを取り巻くスポンサーや代理店、タレント事務所側からのそういう期待があることをもっと掘ってほしかった」などの書き込みも散見された。
もちろん、描けないのはスポンサーにしても代理店にしても芸能プロダクションにしてもタレントにしても、これまで築いてきた利害の関係性があまりに強すぎ、今後のフジ再生にも差し障りが大きすぎるからだ。
■テレビ業界の女性の恐怖体験
ただ、SNSユーザーでさえフジテレビを取り巻くステークホルダーに「そういう期待」があると知っているのは、もはや商習慣として常識だからなのだろう。フジに限らずテレビ業界周辺にいる女性からは、なんなら「そういう期待」なんて表現のレベルを超えた、酷い悲劇や恐怖体験を聞かせてもらうこともある。
どの話でも、加害者は女性を陥れて追い込み、欲望を遂げるためには、その社会的な顔をあっさりと裏切る卑怯さで狡猾な知恵を働かせる。そして彼らは、話を聞いた筆者が辟易するぐらい、絶望的というか必死というか滑稽というか、とにかく容色の整った会社員(ホステスやキャバ嬢のように自分からお金を搾り取る恐れのない素人)、中でも“女子アナ”が大好きだ。
■“女子アナ”という存在を喜んでいたのは誰なのか
女子アナという名称は1980年代に発生したものなのだという。フジテレビは積極的かつ確信的に、局自前のタレントやアイドルとして女子アナを人材発掘、開発と展開を進めたのは誰もが知るところだ。もちろんフジだけじゃない。民放は地方局に至るまで、フジの手法に学び、追随した。
だが女性アナウンサーなる存在は、戦前の第1号の時代から仕事のスキルだけではない、容姿や生まれ育ちや“お嫁さん候補”としてのあれこれをマスコミで論評され、「ファンとして“見守ってやりたい”」とありがたくも見守っていただいていたのだそうだから、理不尽にも、そもそもがやたらと性的な視線で品評される存在なのだ。
そんな匂いを十分に嗅いで、“才色兼備”の“女子アナ”を目当てにニュース番組やバラエティ番組を見、誰と交際し結婚し不倫したかの週刊誌の醜聞に沸き、「あの女子アナが脱いだ!」と写真週刊誌のグラビアをウキウキ眺め、あの女子アナがいいの、俺はあいつはダメだのと品評した世間。テレビ局との取引で会食の機会が生まれれば「ファンなので、○○アナもぜひ一緒に」と要求した取引先。

女性アナウンサーや女性局員を駆り出すことが常態化しているといわれるテレビ局の、スポンサーやタレントへの酒席での接待や、女性アナウンサーに「上質なキャバ嬢」としての資質を求めて憚らなかったカルチャーは、テレビ局が一方的に作ったものではない。
女子アナカルチャーに追随した他局も、煽った他のマスコミも、女子アナ(という絶妙な鑑賞と品評の対象)に大喜びした世間も、そんなフジが作る番組を喜んで見ていた私たちもまた、時代の共犯者だったのだという自覚は持っていたい。
■「レジェンド経営者を切って終わり」じゃない
先述の通り、フジの検証番組は瑠璃紺のビロード幕を背に、追悼番組のような重苦しさで始まった。スタジオには、男女キャスター2人と男女2人の有識者、計4人が座る白いカウンターテーブルがあるのみ。
制作は、情報番組を主に担当するフジの情報制作局だが、長年の経験や番組スキルが蓄積されていると同時に、長年の社内的鬱憤も溜まっていることで有名な部署でもある。1月にフジが他社カメラを入れない初回記者会見を開いて大バッシングを受けた時には、フジ報道局も含め、「そんな記者会見があっていいのか」と報道に携わるフジ内部からの疑問やストレスも噴き出したと聞いている。
大株主であるダルトン・インベストメンツやSBI北尾吉孝氏が関わる独自提案が突きつけられた6月25日の定時株主総会を乗り切り、10月の番組改編が水面下で進む中、視聴者だけでなく株主とスポンサーに向けて自分たちの(現時点で出せる)反省をわかりやすく伝える、地上波らしい作りの番組だったとは思う。ネットの情報収集に慣れている世代や層にはまだるっこしいと感じられる部分があるのは、先述した“今後の再生に差し障りがあることは描けない”諸事情に加えて、「それがコア層と言われる一般視聴者に向けて一般的に作らねばならない地上波の限界、現実でもある」としか言えない。
フジの報道担当部署は、これまでも現在も上層部の意向と闘ってきたであろうことは想像にまったく難くないのだが、一方で、いまフジに残れる人々はこれまでのフジテレビカルチャーの片棒を(全く自発的ではないにせよ)担いでもいた、これまでのフジの風土の十分な共犯である。いまなおフジに残る選択をした彼らはその部分も自覚して、きっちりとしたクリエイティブの美意識でものづくりをしていく使命を帯びているのだとも思う。
今回の検証番組では、40年以上取締役を務めたフジテレビのドン・日枝久氏の引退も大きく(現経営陣の手柄として)取り上げられた。その描き方にも、日枝氏の引退を武勇伝で飾ったとの批判がある。
彼はたしかに、80年代当時は改革者だったし、闘うヒーローだったし、正義だった。だがその正義は、今回視聴者から疑問が噴き上がった、三度の出演オファーを受けても断固として検証番組に姿を現さない姿勢や、元副会長の遠藤龍之介氏に辞任を迫られた際に言ったという「なんで戦わないんだ」との見当違いな発言に象徴される通り、変質し、古びて腐った。
組織文化とは、組織全体で共有されるもの。フジテレビという巨大な組織は、日枝氏、そして港氏や大多氏に全てを被せて追放したからといって、翌日から真っ白に再生するわけではないのだ。
成功者バイアスは、どの世界でも残酷に、かつてのヒーローを哀れな存在にする。

----------

河崎 環(かわさき・たまき)

コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。

----------

(コラムニスト 河崎 環)
編集部おすすめ