終戦1年後に起きた昭和南海地震。朝ドラ「あんぱん」(NHK)のモデル、やなせたかし氏は新聞記者として震度6の高知県にいた。
作家の青山誠さんは「漫画家になりたいという願望を抑えていたやなせ氏は、この地震をきっかけに上京を決意する」という――。
※本稿は青山誠さん『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
■東京の生活が、やなせも暢も忘れられなかった
やなせも暢(のぶ)も、東京で暮らした経験がある。最先端の流行文化に触れ、様々な人との出会いがあった。ふたりは好奇心が旺盛なことでは共通している。かつての東京での生活に魅力を感じていた。
いまだ戦禍が癒えない東京だが、取材を通して再生への動きがそこかしこで始まっていることを知る。もっと素晴らしく楽しい明日になると信じて、夢を抱いて前に進む人々の熱情にも魅せられた。
「やっぱり、東京はいいなぁ」
そんな思いに駆られる。そして、高知に帰ると……焼け跡の整備も一段落して街は落ち着いているのだが、東京で感じたような熱気がない。心がときめかない。退屈な田舎町だと思ってしまう。
東京で暮らしたい。ふたりともその思いが強くなっている。
■暢が転職&東京移住、結婚はどうする?
最初に決断したのは暢だった。
「私、東京に行って働くわ」
突然、告げられる。知人が国会議員に当選し、秘書になってほしいと彼女を誘ってきた。その求めに応じることにしたのだという。暢からすればこの時に、
「じゃあ、ぼくも一緒について行く」
と言って欲しかったのだろう。でも、やなせには言えなかった。
少し前から、暢は結婚を匂わせ、決断を促すような言動をするようになっていた。結婚したい、一緒に東京に行きたい。と、その思いはやなせも同じだが、彼女の行動が早過ぎて躊躇(ちゅうちょ)している。
『月刊高知』で挿絵や漫画を担当するようになってからは、描くことに対する情熱がいっそう高まっている。
上京して本格的にプロの漫画家をめざす。将来の夢も明確になってきているが、それはまだ時期尚早だとも思う。
仕事を辞め上京して、生活ができるのだろうか。その不安が大きい。もう少しお金を貯めてから、もう少し絵の技術を身につけてから。と、慎重になってしまう。また、いまの恵まれた状況も決断を鈍らせる。新聞社の社員でいれば安定した収入があるし、地元の優良企業なだけに世間体もいい。その立場を捨てるのは惜しい。この居心地の良い場所からまだ動きたくなかった。
冬の寒い夜にコタツでうたた寝して目が覚めた時、冷たい布団に入るのが億劫で動けない。そのまま温かいコタツでグダクダしながら二度寝してしまう。
起きなくちゃいけないと思ってはいるのだが……。当時のやなせの心境も、こんな感じか。
■高知県をマグニチュード8の大地震が襲う
「私、先に行って待っているからね」
暢はそう言って、汽車に乗り高知を去ってゆく。ひとりホームに取り残されて、自分も早く動きださなければいけない。彼女を追いかけて東京に行かなくちゃいけないと焦る。出会いの多い都会で、暢がいつまでも自分を待っていてくれるという保証はない。機を逸すれば愛も夢も失ってしまう。
分かってはいるのだが、居心地の良い場所から離れられない。
「誰かぼくの背中を強く押してくれないかなぁ」
とか、他力本願なことを考えながらダラダラと過ごしていた。気がつけば年の暮れが近づいている。そんな時だった。
昭和21年(1946)12月21日午前4時19分、爆弾が破裂するような音と激しい揺れで目が覚める。
潮岬(しおのみさき)南方沖を震源とするマグニチュード8.0の大地震が発生し、高知県内各所で震度5~6の強い揺れが観測された。
■非常事態で記者に向いていないと思い…
自宅の周辺でも、家屋の倒壊を恐れた人々が外に飛びだし大騒ぎになっていたのだが、やなせはまた布団に入って寝てしまう。大きな揺れは収まり住まいは無事だった。だから「もう心配ないだろう」と、周囲の騒ぎに我関せず。新聞記者ならば、こんな時は真っ先に外に出て状況を確認するものだが、そんな瞬発力はない。
夜が明けて状況がしだいに見えてくる。高知県内では5048戸の家屋が全壊、死傷者は2000人以上にもなる。高知市街地はとくに酷かった。倒壊した家々の瓦礫が道路を埋め尽くし、各所で大規模な火災も発生した。家を失った被災者は約1万5000人、避難所は人があふれて入りきれない。
やなせも報道班の応援で市内の状況を取材してまわった。非常事態で混乱する街で、慣れない報道の仕事には戸惑うことばかり。
自分に新聞記者としての資質がないことを思い知らされた。こんな仕事は絶対にやりたくないとも思う。
しかし、配置換えや転勤があるのは会社員の宿命。いつまでも『月刊高知』編集部で挿絵や漫画を描いていられる保証はない。明日には報道の仕事に配属されるか、寂しい僻地の支局に転勤することになるかもしれない。居心地の良い場所に、永遠に居つづけることはできないのだ。
それならば、さっさと見切りをつけたほうがいい。いまなら、まだ間にあう。暢を追いかけて上京しよう。地震の衝撃に背中を押されて、やなせもついに決意した。
■小松暢はやなせを待ってくれていた
昭和22年(1947)の年明け早々に上京し、東横線の大倉山駅近くに下宿する暢を訪ねた。彼女は新しい彼氏をつくることもなく、やなせを待っていてくれた。
よかった、間にあった。ふたりの恋は成就して同棲を始めたが、それは理想の同棲生活とは程遠いものだった。
戦火で多くの家屋が焼失した東京に、復員兵や外地からの引揚者が続々と流入している。住宅不足が深刻だった。暢は小学生になる家主の息子と一緒に子ども部屋で暮らしていた。やなせが来てからは、子どもと3人で川の字になって寝ることに。なにやら、いきなり子持ちの夫婦になったような気分だった。
ふたりだけで暮らせるアパートを見つけて引っ越したい。そのためにはまとまった金が必要になる。住宅不足で家賃は高騰をつづけ、家賃の1~2カ月分の礼金を取るという新しい慣習も生まれている。戦前では考えられないことだった。住居費だけではない。あらゆるものが、昨年に上京した時よりも値上がりしていた。1カ月で物価が数倍になるようなハイパーインフレが終戦からずっとつづいている。給与水準も終戦直後と比べて10倍にまで上がっているが、物価の上昇に追いつかない。定職に就いている者でも都会生活は厳しい。
■「私の稼ぎでなんとかなるわ」と暢は言った
暢はいつも袖の擦り切れたジャンパー姿で化粧もせずに、高知にいた頃よりも随分と貧乏臭くなっている。これでは美人が台無し、やはり生活が苦しいのだろう。そこに無職のやなせが転がり込んできたのだから、さらに苦しくなる。
「大丈夫、あなた一人食べさせるくらい、私の稼ぎでなんとかなるわ」
と、彼女は男前な発言をする。確かになんとかなっているのだが、ギリギリの危うい生活だ。楽天的な暢とは違って、心配性のやなせは焦っていた。
世間や他人のことでどんなに周囲が騒いでいようが、興味のないことには鈍感で反応が薄い。そのため吞気なヤツだと思われたりするのだが、じつはこれで自分のことになると神経質で心配性だ。誰にでもそんな二面性はあるけれど、やなせは人一倍その癖が強い。
苦労や辛抱という言葉は大嫌い、辛い生活のなかで夢を育はぐくむなんて無理。すぐに挫けて夢をあきらめてしまう。好きな映画を観たい、興味のある本はすべて買いたい、妻にはいつも綺麗な姿でいて欲しい、ふたりで暮らせるアパートに引っ越したい……そのためには、お金が必要だった。

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青山 誠(あおやま・まこと)

作家

大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。

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(作家 青山 誠)
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