※本稿は、野地秩嘉『東映の仁義なき戦い 吹けよ風、呼べよ嵐』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■高倉健が映画に出る基準とは何か
『仁義なき戦い』『トラック野郎』以後、東映では実写映画のシリーズはなくなった。だが、ひとつだけその後も続いていたシリーズがある。それは高倉健映画というシリーズだ。このシリーズは東映だけでの作品ではない。『新幹線大爆破』に出た翌1976年、東映の専属俳優をやめ、独立した高倉健は東宝や他の映画会社と、自分が気に入った脚本の映画だけに出演した。
どういう脚本の映画に出るのかと問われると、高倉健はつねにこう答えた。
「出番が少なくてギャラが高い映画です」
聞いた側は「健さんは冗談がうまい」と誤解した。だが、本人は冗談ではなく、脚本の面白さと出演料で映画を選んでいた。それも払いきりのギャラではなくビデオ化した権利までのすべてを得ること、そして、彼の個人事務所が映画製作に出資することも条件とした。
取るべき権利を手中にすることは、日本一の俳優になった彼の矜持でもあった。
1977年、『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』に主演した彼は「任侠映画の健さん」から国民的俳優の「健さん」になる。日本一、客を呼べる俳優になった。
■「うちは健さんの本編を撮っています」
東映作品は『冬の華』『動乱』『鉄道員(ぽっぽや)』『ホタル』の4作だ。東映はもっと多くの作品に出てもらいたかった。だが、高倉健にとっては4作くらいがちょうどいいという判断だったのだろう。東映が高倉健の映画を撮りたかったのは彼が超一流の俳優と一目おき、映画会社としてのブランドを保持するためだ。
実際に東映が利益を上げていたのは仮面ライダーと戦隊シリーズのヒーローショー、展示会等のイベント請け負い、不動産開発、そしてテレビなどでの映像制作事業だ。
しかしそれだけでは映画会社としてのブランドを上げていくことはできない。日本一の俳優、高倉健の本編映画を撮っている会社と名乗ることが重要だった。東映が他の事業を獲得する際、高倉健の主演映画を持っていることは大きなメリットだったのである。
イベントや展示会の映像を請け負う際には、プレゼンで大手広告代理店などと競合になる。その時、東映社員は咳払いしてから、抑制した話し方で「うちは健さんの本編を撮ってます」とさらりと言えば、クライアントは「東映にお願いします」と手を挙げた。これは実話だ。
東映のスタッフにとって高倉健は神に等しい存在だった。
「健さんと仕事をした」という経験、ノウハウは実に大きな価値になった。本人が生きている間だけでなく、亡くなった後でも、スタッフたちは高倉健を思い出して郷愁に浸る。しかも、世界でも通用する。「ケン・タカクラの映画を撮った」と言えば、ロバート・デ・ニーロもトム・クルーズも一流の仕事をした映画スタッフと受け取る。映画会社、東映にとって高倉健は財産だ。
そんな高倉健ともっとも親しくしていたのが小林稔侍だ。高倉が亡くなった時もその後も小林はひとことも語っていない。しかし、小林稔侍が誰よりも高倉健と親しかったことは周知の事実だ。
■「売店のスポニチをすべて買い占めました」
小林は初めて会った時から、亡くなった後の現在でも高倉健をリスペクトしている。
「普通のスターさんはひとつの波で終わるものでしょう。一つの時代は作るけれど、次の時代には終わってしまう存在ですよ。しかし、健さんは大きな波を3つも持っている。デビューした頃は青春スターで、その次はやくざもので、その後が『八甲田山』と『幸福の黄色いハンカチ』……。ずっと主役を張っていたのはあの方くらいです。それにしても『八甲田山』。あの時の顔は今もまぶたに焼き付いている。僕は『八甲田山』の時の顔が好きです。歯をくいしばってるような、なんとも言いようのない、素敵な顔でした。結果的には大ヒット映画になったのですが、上映前は『まるで教育映画みたいだ』と不評だったんです。
小林稔侍は「自分が発掘されたのは『冬の華』と『夜叉』」と言っている。
「ええ、健さん主演の『冬の華』に出させていただきました。僕自身はそれまでと違う演技をしたわけじゃない。しかし、生まれて初めてマスコミに褒められた。家でスポニチに目を通していたら『冬の華では小林稔侍が抜群の演技』と書いてあったのです。あわてて起き上がって、もう一回ちゃんと読んで、それから駅まで走って、売店にあったスポニチを全部買いました。
■「それまでは女優さんのお尻を噛んだり」
あの時はセリフがひとこともない元やくざの板前の役だった。演技を褒められて、お恥ずかしい話ですが、僕は初めて気がついたことがありました。
『自分にはこういう役がいちばん似合うんだ』。それまでは鬼の役で頭に角を生やして地獄の釜をかき回したり、女性を乱暴する役で女優さんのお尻を噛んだりとか……。そんな役ばかりだったから、自分の持ち味を出せる役がどういうものかわからなかった。『冬の華』でやっと自分の持ち味に気がついたんです。
『夜叉』の時は健さんに殴られるシーンでした。健さんは『稔侍がほんとにいい芝居したから、体がかーって熱くなって、台本にはなかったけれど、思わずポケットから白いハンカチ出して、唇の血を拭けって言った』。
どちらも脇役の演技です。脇役の演技って、僕の場合は簡単なんです。
脇役の時は主役を好きになる。好きになって芝居をすれば、自然といい芝居になる」
■「稔侍、気持ち悪い、離れろ」。でもぐっと引き寄せた
小林がもっとも忘れられない1本と言えばそれは『鉄道員(ぽっぽや)』だ。高倉健はその作品を撮るために19年ぶりに大泉学園にある東京撮影所に戻ってきた。監督は降旗康男、キャメラマンは木村大作。プロデューサーは坂上順。製作は東映、テレビ朝日、高倉プロモーションなどの製作委員会になっているが、実質は東映だろう。
小林は「鉄道員(ぽっぽや)」まで東映では助演の役者だった。東京撮影所に通い、夕方までそこで過ごし、短い出演時間を終えた帰り道、ふと思うことがあった。
「俺は生涯、こういう役ばっかりで終わるのかな。あの監督、初めてだったけれど、向こうから話をしてくれたよな。ということは俺にだってどこかいいところがあるのかもしれん。あの監督、俺に声かけてくれた。こっちが話もしてないのに。次も何か役をくれるのかな。持ち味みたいなものはわかってきたし、仕事は来るけれど、でも、自信があるわけじゃない。何かやっているうちにどうにかなるだろう」
そんなところへ高倉健との共演になった。同僚の役だった。
■「稔侍、チンピラ役じゃないんだ、堂々と座ってろ」
小林は撮影所に作られた幌舞駅駅舎の事務室のセットでデスクに座っていた。高倉が来たから、すぐに立ち上がった。すると、高倉が言った。
「稔侍、お前、今までみたいにチンピラ役じゃないんだ。堂々と座ってろ」
稔侍の役は同僚の鉄道員で、高倉よりも大きな駅の駅長だ。演技プランでは小林は最初はデスクに座っていることになっていた。そして、高倉が来た時、迎えるために立ち上がることにしたのである。ところが、高倉のひとことで状況は変わった。
「稔侍、最初から立っていればいい」
もちろん、そうすることにした。しかし、内心は座ってから立ち上がる方がいいんじゃないかと感じていた。
「これじゃ、大きな駅長の威厳も何もあったもんじゃない」
駅のホームでふたりが久しぶりに出会うシーンでは、小林はちょっとした工夫をしてみた。
高倉と小林は親友同士だ。小林は仲のよさを表現するために近寄って、リハーサルで高倉の腰をぐっと引き寄せたのである。
「乙さん(主人公・乙松)、料理を持ってきたよ。久しぶりだね」とセリフを言い、高倉の腰を持って、引き寄せた。
すると、高倉はパッと離れて、「稔侍、気持ち悪いな! 離れろ」。
だが、小林はリハーサル4回のうち、4回とも「ぐっと引き寄せた」。
そのたびに高倉は「稔侍、気持ち悪い」と離れる。しかし、本番ではちゃんとやってくれた。映画が公開された後、双子の映画評論家から「仲がよすぎる。まるでホモみたいだ」とコメントされた。けれど、小林にしてみれば親しい関係を表すために体で触れ合うことにしたのである。これもまた「気を発した」演技だった。
小林は自分の出演シーンでなくとも高倉の出番があれば撮影所に行った。ほぼ毎日のように撮影所に通い、黙って演技を見守った。すると、そこには稔侍だけでなく、渡瀬恒彦、梅宮辰夫をはじめとするかつての東映の俳優たちがいた。誰もが高倉健とその演技を見るために東映の撮影所に来て、一日中、立っていたのである。
高倉健は東映が誇る最後の映画スターだった。
■降旗監督が語る高倉健と鶴田浩二の違い
高倉健シリーズは『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)の後、『ホタル』(2001年)『単騎、千里を走る。』(2005年)『あなたへ』(2012年)と3作続いた。いずれも監督は降旗康男。「単騎、千里を走る。」は監督は張芸謀(チャン・イーモウ)だが、日本で撮影したところは降旗だ。
降旗は高倉健の芝居について、こう語っている。
「健さんはプロの俳優さんらしくない不器用なところがある人です。任侠映画の時代に健さんと並び称されていた鶴田浩二さんは何回テストをやっても同じ動きができる人でした。本番もテストと同じところで顔を止めることができた。ところが健さんは本番とテストでは同じことができない。
だから少しずつ撮ることはできないんです。初めから長めにカメラを回して、たった一度を狙った方がいい。
健さんは怒鳴ったり走ったりより、普通のセリフが上手な役者です。映画の脚本をご覧になってみればわかると思うのですが、画面のなかで役者がしゃべること、動くことの8割以上は普通の生活のなかでなされる動作です。芝居だからといっていつも泣いたり、叫んだり、目を剝いたりしているわけじゃない。テレビばかりやっている役者が映画の撮影に来て芝居をすると、つい動作が大げさになってしまい、浮いてしまうことがあります。大げさに演じるのが映画の演技だと思っているのでしょう。
それに比べて健さんは抑制された演技で感情を伝えることができる。ふっと息を吐いただけで悲しい気分にさせることができる。それはすごいことなんです」
■健さんが怒っていたクルマの話
高倉健の芝居について、小林はこれまで人に話したことはない。高倉とも演技について話したことはなかった。照れくさいというより、そんなことを思いつかなかったからだ。しかし、他の誰よりも高倉の芝居、生活について知っているのは彼だ。
小林はしみじみ言う。
「おかしなことしか覚えていないんです。子犬のようにあの方にじゃれついていたのが私ですからね。『鉄道員(ぽっぽや)』の撮影の時、あの方が怒っていたことがあったんです。ある日、東京撮影所のトイレを見たかと聞かれました。
いえ、何かありましたかと聞いたら、こう言ってました。
『稔侍、おまえ、知ってたか? 用を足していたら、後ろのトイレのドア開けて、女優さんが出てきたんだ』
『旦那、ここのトイレ、古いから男女一緒なんですよ』
それでも怒ってました。所長を呼べって、撮影所長を呼んで、すぐに直せって言ったらしい。そしたら、すぐに男女別々のトイレになりました。健さんが一喝したからです。
これもまたいい思い出ですよ。そういえばあの方、真っ赤なフェラーリに乗っていたんです。
ある時、『なんだ、こんな車!』って真剣に怒ってるんです。
『どうしたんですか』
あの方、地味な性格だから、真っ赤なフェラーリを手に入れても、とても人前では乗れないんです。目立つのが嫌だから、ずっと車庫に入れていて、夜中に高速道路を走る時だけ乗っていたんです。『それなのにファンベルトが切れた』って怒る。聞いたら、ファンベルトの交換は8000円だという。いいじゃないですか、8000円くらい、払えばいいじゃないですかと言ったら、『稔侍、違うんだ。交換するのに80万もかかった』。
ファンベルトを交換するのにエンジンを下ろさなきゃいけなかったから手間賃が80万かかったと怒ってたんです。
僕は言ったんですよ。
『旦那、フェラーリに乗る人が、そんな細かいこと言っちゃいけません』
それから、ひとこともフェラーリの話をしなくなりました」
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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「巨匠の名画を訪ねて」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)