※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■配属1週間で異動
入社すると3カ月間の工場研修を経て、鈴木修は企画室に配属される。しかし、大卒者ばかりが働く企画室が、工場現場と遊離しているため、岳父であり社長の俊三に「企画室が社長にあげる報告はでたらめばかり。現場はうまく回っていない」と直訴。一週間で二輪の工程管理課に異動する。
『俺は、中小企業のおやじ』(鈴木修著)には次のようにある。
「社長の婿養子として入社したのなら、まわりからちやほやされただろうと思われるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。当時は敗戦から間もないこともあり、『会社は公器だから、一族が支配するのはおかしい』といった風潮が強かったのです」
■鈴木修の経営の原点となった工場建設
企画室と対立したまま入社3年目、鈴木修は新工場を建設するプロジェクトの責任者になる。建設予定地は愛知県豊川。本社から離れた土地に工場を建設するのは、スズキとしては初めてだった。1961年1月にプロジェクトが立ち上がり、9月には軽トラック「(初代)キャリイ」の生産を始める計画だった。つまりは、常識外れの突貫工事が要求された。
鈴木修は、工期通りに竣工させる。しかも、3億円の予算に対し2億7000万円しか使わなかった。このとき、35歳以下の若手ばかり9人を選び、中心メンバーとして、ケチケチ作戦で成し遂げる。余った3000万円は企画室に乗り込んで、「お返しします」と精算書をたたきつけてやった、という武勇伝が残っている。
これは、社長の娘婿だからできた所業だったろう。何より、計画通りにやり遂げたことは大きかった。
戸田は言った。「豊川工場の建設がうまくいったことで、鈴木修は自信をつけました。修にとっての経営の原点は、豊川工場の建設プロジェクトにあったと、私は思う」、と。ちなみに豊川には鈴木修が関わったこの工場とバイク工場があり、バイク工場跡地は「イオンモール豊川」になっている。
2013年8月29日、11代目となる軽トラック「キャリイ」の新商品発表会が、都内で開かれた。CM出演した菅原文太も出席した会の冒頭、鈴木修は次のように言った。
「建設責任者になったとき、私は30歳。自動車については本当に素人でございまして、東も西もわからなかった。モノづくりということは、こんなに大変かと(工場建設を通して)痛感しました。一方で、モノづくりを行うメーカーというものは、現場からやらないとダメだということをつくづく感じました。いま、工場監査をやりましても、プレス、溶接、塗装、完検(完成検査)におきましても、このとき(工場建設)の経験がプラスになっているのであります」
工場監査とは社長就任後に、鈴木修が1989年から実施している、生産現場の無駄をなくすためのチェック活動。一日かけて社長の鈴木修が工場の隅々まで回り、無駄な部分を見つけ出し改善を促す。国内外のスズキの工場に限らず、国内外のサプライヤー(部品会社)の工場にも及ぶ。さらには、インドなど海外を含めたディーラーの店舗や修理工場にもやって来る。
■世界一周の旅へ
1962年1月に生産本部長になると、工場建設の論功行賞的な意味合いから、鈴木修は世界一周の旅に出る。6月に出発。まずは、二輪車レースの最高峰といわれたイギリス・マン島のツーリスト・トロフィー(TT)レースに立ち会う。参戦していたスズキは、50㏄クラスのレースで何と初優勝を遂げたのだ。
レース結果からも、鈴木修は「(運を)持っている」と言わざるを得ないだろう。
ちなみに、同じレースにホンダも参戦していて、日本勢は3位までを独占したそうだ。何より、スズキはホンダに勝ったのである。
もっとも、このときの成功体験は、やがて訪れる危機の萌芽となっていく。スズキは2ストロークエンジンを採用していて、「もはや時代遅れ」と言われた2ストロークが勝ったのは24年ぶりとのこと。「2ストロークでもやれる」という自信につながった一方で、4ストロークへの転換が進まない結果を招く。特に四輪で、スズキ存亡の危機が、後に詳述する1970年代に訪れることになる。
しかし、このときには、チームも鈴木修も初勝利に酔いしれていた。
なお、エンジンの一連の動作をサイクルと呼ぶ。このため、2ストロークならば「2ストローク1サイクルエンジン」と呼ぶのが正しいだろう。だが、一般には2ストロークエンジンは2サイクルエンジンと同義に使われる。なぜか、二輪ではストローク、四輪ではサイクルと呼ぶ。
マン島TTレースの後も、鈴木修はチームに随行。オランダや西ドイツ、ベルギーなどを転戦し、最終のアルゼンチンでは鈴木修が監督代行を務めて優勝した。こうして欧州各地から南米を回る、世界一周を経験する。
転戦後の10月、フロリダ州に立ち寄ったとき、キューバ危機が発生するという緊迫の場面にも遭遇する。この旅が、鈴木修にとっては世界との最初の接点だった。
■30代の娘婿の改革に販売代理店は反発
翌63年1月に購買部長、そして同年11月には取締役に就任する。このとき33歳。「将来の社長候補」として順調に出世の階段を上っていく。
第一回の東京オリンピックがあった1964年、鈴木修は取締役営業本部長になる。
すると、販売代理店との取引を安全かつ円滑に行うため、「商品の売掛金にはきちんと担保や保証金を販売店から取る」形に切り替える。それまでは、手形一枚で車やオートバイを卸して、スズキが回収に窮する場面も少なくなかったのだ。
変更に対し、多くの代理店は反発した。
■会社が倒産する理由を熟知していた
代理店の中には、鈴木修を飛び越えて、俊三社長や鈴木實治郎専務に直訴する向きもあった。
「娘婿はひどい。何とかしてください」と。
俊三社長は技術者出身であり、代金回収や手形には疎かったとされる。
ホンダを創業した天才技術者の本田宗一郎も同じで、商品は売れているのに、会社の金庫には金がない状態に創業期は頻繁に陥っていた(ホンダの場合、もう一人の創業者である藤沢武夫が経営を担うようになって、正常な取引が実行されていく)。
この点、銀行員だった鈴木修は違った。売掛金の未回収が重なってキャッシュが枯渇すると、会社がどうなってしまうのかを、イヤというほど知っていた。会社が倒産するのは、借金が膨らむからではない。資金がショートして、支払いが不能になるからである。
担保を設定できない代理店は多く、そうした会社に対しては鈴木修は営業権を買い取っていった。メーカーであるスズキ直営に変えていったのである。
■全国を飛び回って築いた販売体制
スズキの直営代理店はそれまでは一軒もなかったのだが、現在では47都道府県のほとんどがメーカー直営の販社(代理店)になっている。スズキの資本が入らないプロパーなのは、秋田スズキなど3社となった。
代理店は、業販店に車両を卸す。業販店はスズキ以外の車も、販売するケースは多い。販売台数の多い業販店は、副代理店と呼ばれる。副代理店の中でもさらに販売台数が多いと、「アリーナ店」に昇格し商品を安く仕入れられる。
買収した販売代理店には、30歳前後の若いスズキ社員を経営者として、鈴木修は送り込んだ。ちなみに、プロパーも含め代理店はみなアリーナ店であり、卸だけではなくショールームを設けて車を一般客に販売している。「同じお客さんを、アリーナ店と業販店が競合した場合は、業販店が優先されます」(スズキ関係者)。前述したが、スズキの場合は業販店の売上比率が、いまでも6割と高い。
鈴木修は、営業権を買い取る交渉のために全国を飛び回っていた。並行してその地域の業販店も訪れて、人間関係と販売体制とを強化していった。
■将来の社長候補のはずが、“厄介払い”される
「出る杭は打たれる」のは、どこの組織でもよくあること。社長の娘婿、将来の社長候補であっても、例外ではなかった。
急進的な改革を断行する鈴木修は、「社内のさまざまな人たちに煙たがられて、体よくアメリカ駐在に厄介払いされる」(鈴木修著『俺は、中小企業のおやじ』)。
マン島TTレースで優勝した翌年の1963年、米市場でオートバイを販売する目的でUSスズキが、ロサンゼルス近郊のアナハイムに設立される。鈴木修自身が発した「海外ビジネスを、商社に頼らず、自前でやるべき」とする意見も設立のきっかけとなった。しかし、英語が不如意の自身が駐在するとは、夢想だにしていなかったようだ。
1966年1月、取締役輸出部長に就任した鈴木修は、USスズキ社長としてアナハイムに単身赴任する。
ここで、塗炭の苦しみを味わう。250㏄のオートバイ「X6」を輸出して販売したところ、最初はよく売れた。ところが、1年ほど経過すると、販売したバイクの大半が故障してしまい、クレームと返品が押し寄せてしまう。アメリカ人はギアチェンジのやり方が乱暴なため、想定以上の負荷が歯車にかかり、やがては歯が欠けていったのだ。無償で修理するのだが、コストはひたすら嵩み、USスズキは赤字が膨らんでいった。
さらに、「アメリカ市場の主流である4ストロークエンジン搭載のバイクを作ってほしい」、と鈴木修が本社に訴えても聞いてはもらえなかった。そればかりか、2ストロークの500㏄のオートバイを売るようにと、本社は押しつけてきたのだ。
マン島レース優勝という成功体験から、会社は抜けられないでいた。変わることができずにいた、と表現した方が正確だろう。
「本社が現場を知らないと、うまくはいかない」と現場にいた鈴木修はつくづく思ったが、どうすることもできなかった。一方で、経営者になってからの、彼の現場主義は、こうした苦い経験から育まれていった。
■「俺は社長には、なれんかもしれない」
窮地に立たされた鈴木修のもとを、秋田スズキ創業者の石黒佐喜男をはじめ東北地方の副代理店経営者が、総勢10人ほどで訪れる。
「困っている修さんの慰問に行った、と父は話してました」(佐喜男の長男である石黒寿佐夫・秋田スズキ会長)。
アナハイムのUSスズキから50kmも離れたロスのレストランまで移動して、みんなで食事やワインを楽しんだ。その宴席の場で、鈴木修は石黒佐喜男にボソッと話す。
「俺は社長には、なれんかもしれない」、と。
石黒佐喜男と鈴木修は、ともに宝塚の海軍航空隊にいた。面識はなかったが、絆も関係も深かった。佐喜男がスズキの秋田県総代理店になり「スズライト」の販売を始めたのは1959年。以来、「秋田の田舎者」、「岐阜の山猿」などと言い合える仲になっていった。
しかもこのときには、太平洋を渡り、遙々カリフォルニアまで来てくれたのだ。1960年代後半は、いまのように簡単に渡航できる時代でもなかったのに。そんな佐喜男に対して、鈴木修は本音を吐露したのだった。
■38歳で提出した辞表
鈴木修はUSスズキの責任者を2年間務めたが、同社は10億円を超える赤字に陥った。
「赤字は悪」とは、販売店に対して鈴木修がよく口にしていた言葉だが、USスズキでの経験が原体験となっていたのかもしれない。
67年末には常務になったものの、68年3月に帰国の辞令を受ける。浜松に帰ると、赤字の責任を取るため鈴木實治郎専務に辞表を提出した。「社長になれないかも……」どころではない、スズキを去ろうとしたのだ。このとき鈴木修は38歳。
最終的に、辞表は「預かり」となり、退職には至らなかった。が、東京駐在を命じられる。明らかな左遷だった。仕事をさせてもらえない暇な状況となった。当時の東京支店は新宿区大京町にあったが、鈴木修は逆境の中で時にパチンコに興じながらも、新たな人脈づくりに動き出していく。持ち前のユーモアと明るさを持って。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)