■絶望の中で突然あらわれた「神さま」
「儲かりまっか?」
大柄な見知らぬ男性が、ウナギの加工を手掛ける「うな智」の事務所の扉を開けて入ってくるなり、そう尋ねてきた。
「うな智」の代表、上田智子さんは、「なになに? 大きい車ベタづけで怖い……」と怯えた。上田さんは全国でも珍しい女性のウナギ職人で、詳細は後で触れるが、当時、ひとりで職人の仕事をしながら自分の会社を経営していた。
男性が訪ねてきたのは、「ポケットに100円しか入っていない日もありました」という絶望的な状況を乗り切るために、税理士と切羽詰まった打ち合わせをしている最中だった。
「今、来客中なんですけど」と応えると、男性は「それなら、待っとくわ」と事務所の駐車場に停めてあったレンジローバーに戻っていった。税理士が帰った後、上田さんはその男性と向き合った。
「変なおっさん入ってきたと思ったやろ」と笑う男性は、自己紹介を始めた。
「ちょっと教えてほしいねん、いろいろ。いま65やねんけど、これから10年間、飲食やりたい思って。うちの母親がすごいウナギが好きやから、ウナギやりたいんですわ」
■「大丈夫やで、僕と知り合ったから」
上田さんは戸惑った。話を聞く限り、身分に嘘偽りはない。とはいえ、なぜなんの縁もない自分のところに、いきなり現れたのか?
こちらの疑念など気にする様子もなく、男性は「時間ある?」と聞いた。その問答無用の勢いに気圧されるように頷くと、男性は上田さんと、上田さんの会社のサポートをしていた男性を車に乗せ、自身が若者に経営させているという鮨店に向かう。男性は気さくで、初対面とは思えないほど打ち解け、「うな智」の苦境も話した。食後、加工場まで送ってもらった別れ際、その男性はこう言い残した。
「大丈夫やで、僕と知り合ったから」
現在、兵庫県西宮市で「うなぎ心斎亭」の取締役を務める上田さんが、後に「神さま」と呼ぶようになる恩人との出会いだった。
■わずか3カ月でクビに
上田さんは1973年、大阪の堺市で二人姉妹の次女として生まれた。父親は不動産管理会社の2代目、母親は和裁士として働いていた。
専門学校の総合ビジネス科を卒業後、最初に就職したのは産業廃棄物処理を手掛ける会社の事務職。「人にお願いして買ってもらうのも、それをされるのもイヤ。接客も嫌い。土日休みがいいから事務職しかない」という理由で、親戚から紹介してもらったそうだ。
この会社を辞めたのは、25歳の時。職場の人間関係に悩んでいた時期に母親の末期がんが発覚し、実家に戻る。それからはアルバイトをしながら看病する生活で、幸いにも4年ほどして母のがんが完治。これを機に就職活動をして、実家近くの会社で前職と同じ事務職として勤め始めた。
小売店のレジのサポートをしていたその会社を、わずか3カ月でクビになる。社長から急な配置転換を告げられ、「考えさせてください」と応えたら、「上田、もう帰っていいよ」と、まさかのクビ宣告。頭に来た上田さんはその足で労働基準監督署に向かうも、担当者はつれない態度で、闘う術も知らなかった上田さんの不当解雇は覆らなかった。
仕事に復帰してからわずか3カ月で無職になった上田さんは、気晴らしをしようとアメリカのロサンゼルスに住む親せきを訪ねた。
13歳のニューカレドニア人や17歳の中国人と机を並べて学ぶ生活は刺激的で、帰国の日が近づくと、「お金を貯めて、もう一回こよう」と考えるようになった。
■3人のウナギ職人との出会い
留学資金を稼ぐために、もう一度、職探し。2004年、30歳の時に採用されたのが、大阪の中津にある魚の卸売をする会社だった。
ここでも事務職に就いたが、大阪市中央卸売市場に魚を受け取りに行ったり、顧客に魚を届けたりと、さまざまな仕事を任された。デスクワークだけの事務職に慣れていた上田さんにとってはそれが思いのほか新鮮で、いつしかニュージーランドに戻ることを忘れ、仕事を楽しむようになった。
上田さんの運命を変えたのは、入社から2年後、社長が倒産しかけたウナギ店を買収し、そのウナギ店が持っていたビルに会社ごと移転したこと。そのビルの1階には水槽と冷凍庫があり、2階はウナギの加工場、3、4階がオフィススペースになっていた。
加工場では、毎日、大量のウナギをさばく3人のウナギ職人が働いていた。村上馨さん、村上信行さんの兄弟と、見高新一さんの3人は60代のベテランで、毎日7時に出社していた上田さんよりも早く仕事を始めていた。
会社に着いて階段を上ると、3人が小気味よいリズムで立ち働く姿が見える。
そのうち、「馨ちゃん」「ノブさん」「見高さん」と呼ぶ間柄になっていった。
■女性がやらないことをしてみたい
この頃、上田さんは休日を持て余すようになっていた。親しい友人たちが結婚をしたり、出産をしたりして、若い頃のように遊ぶ相手がどんどん減っていたのだ。
趣味もないし、目標もない。父は経営者、母は和裁士、姉は介護職と手に職を付けているのに、私にはなにもない……。漠然とした焦りを感じ始めた時、「どうせなら、女性がやらないことをしてみたい」と思い立つ。
振り返ってみれば、幼い頃から、ままごとのような女の子っぽい遊びには興味がなく、男の子と鬼ごっこや「べったん」(めんこ)をするのが好きだった。小学校の卒業文集には、大人になったら就きたい職業として「自衛隊」と書いている。それからも、興味を引かれるのは長距離トラックの運転手や空港で飛行機を誘導するマーシャラーなど、女性の存在が珍しい仕事ばかりだった。
ある朝、ウナギ職人たちにその話をしたら、3人が「ウナギやれや」と言った。
「女の職人はおらんし、やってみたらどや」
それまで一度も想像したことのない提案だったが、その場で「やってみようかな」と答えていた。毎朝、3人の淡々とした仕事ぶりを眺めながら「すごく気持ちいい」と感じていたことも、背中を押した。
「それなら、一応社長に許可もらってこい。作業は、朝の5時から9時までの4時間。社長にいいって言われたら、来いや」
「わかった」と頷いた上田さんは、社長のもとへ。すると「9時から自分の仕事ができるんやったら、別にええよ」とあっさり許可が下り、翌朝から4時半出勤が始まった。
初日の朝、いつものように車で職場に向かうと、早朝の道路はガラガラで、いつも30分かかる道のりが15分で着いた。
「なんか、気持ちいい!」
この日、女性ウナギ職人の修業が始まった。
■ぐちゃぐちゃになったウナギ
ウナギ職人の世界には、「串打ち3年、裂き8年、焼き一生」という言葉がある。
「裂き」とは、氷漬けにして仮死状態にしたウナギの頭を目打(めう)ちで固定し、首もとに切れ込みを入れて、骨に沿って腹を裂くこと。これを「腹開き」という。(関東では背中側に包丁を入れる「背開き」)。
2枚にさばいたウナギの皮と身の間に串を指すのが、「串打ち」。皮目を下にして身を置き、皮と身の境目に慎重に串を通すのも重労働で、慣れないうちは指がつるという。
串を通したら、焼く(関東では白焼きの後に「蒸し」の工程が入る)。いかに香ばしく、皮をパリっと、身をフワフワに焼くのか、腕の見せ所だ。一匹、一匹、脂ののり具合が違うので、焦がさないように全神経を集中する。
上田さんの師匠は、それまで雑談相手だった3人。師匠たちは初日から上田さんに包丁を渡し、「さばいてみろ」と言った。
「普段から料理をしないし、魚をさばいたこともないから、本当に難しかったですね。包丁が骨に当たるやろと言われても、その感覚がぜんぜんわからない。包丁を立てろと言われて、自分では立てるつもりやけど、ぜんぜん違う。ウナギは、なんやこれってぐらいぐちゃぐちゃになりました」
上田さんの練習で使用するウナギは1階の水槽で死んでしまった個体なので、どんなに失敗しても問題ない。師匠たちは叱ったり怒鳴ったりすることもなく、むしろ優しく指導してくれた。後日、その理由が明らかになる。師匠たちは、「どうせ1週間も続かんやろ」と思っていたのだ。しかし、上田さんは腹をくくっていた。
「修行させてくださいと言って教えてもらっているんで、自分から辞める気はまったくなかったです」。
■会社の倒産と残された借金
一般的に、師匠と弟子といえば一対一の関係だろう。上田さんが恵まれていたのは、3人の師匠がそれぞれの得意分野を教えてくれたことだ。3人の息はピッタリそろっていて、それぞれ言うことが違って困るようなこともなかったという。なにより、3人のプロフェッショナルの仕事ぶりを間近で見ることが、大きな学びになった。
「3人とも仲が良くて、本当の兄弟みたいでしたね。いつも競馬とか相撲とかの話をしながら、1時間で100キロのウナギをさばいていました。ほんまに一流の職人だと思います。ウナギのさばきに関しては3人から、頭打ちはノブさん、串打ちは馨ちゃん、焼きは見高さんメインで教えてもらいました」
3人の師匠のもとで、上田さんは5時からの修行に没頭。毎日、「あ、もう9時か」と感じるほど集中した。最初はなにひとつ満足にできなかったことが、少しずつできるようになるのが嬉しかった。一度も辞めたいと思うことなく、気づけば8年が経っていた。
その一方で、9時以降の本業は大変なことになっていた。ウナギ屋を買収した頃は好調だった経営が次第に傾き、やがて火の車に。その頃、役職についていた上田さんの給料は未払いになっていたにもかかわらず、銀行2社から250万円の借金をして、さらに自分の貯金も取り崩し、会社に貸し付ける形で社員の給料の支払いに充てていた。未払いの給料と会社に貸し付けた分を合計すると、600万円に及んだ。
「今思えば、なんでそこまでしたんやろうという感じなんですけど、社長もいい人やったし、若い社員も増えていたから、会社を潰したくなくて。でも私は経理で会社の数字をずっと見ていたからもう手遅れなのもわかっていたんで、ほんまにしんどかったです」
上田さんの借金も焼け石に水で、働き始めて10年目の2014年4月に会社が倒産。高齢だった師匠3人は引退することになった。
■借金300万円超を背負い、40歳で独立
ブランドウナギ「筑紫金うなぎ」を養殖、販売している福岡の水産会社の役員から電話があったのは、倒産の後処理に追われている時だった。人づてに上田さんがウナギ職人として修行していたことを知ったようで、「一緒にやりませんか?」と誘われた。
しかし、ウナギの養鰻場は鹿児島にあり、移住が前提だという。40歳でいきなり縁もゆかりもないところに引っ越すのはさすがに気乗りせず、一度は断った。
そこで「やってみたらどうや? 迷惑かけたし、俺ができることは手伝うから。ちょっと話しようか?」と言ってきたのは、倒産した会社の社長。上田さんは、困っている人がいたら放っておけない性格のせいで会社を潰してしまった社長と縁を切ることなく、連絡を取り合っていた。
その社長が交渉にあたり、先方から「筑紫金うなぎ」を仕入れて加工、販売するという形で、大阪の池田市に加工場を作ることになった。その際に法人化する必要があり、2014年7月、上田さんがひとり社長を務める「うな智」を設立。加工場の設備はすべて、倒産した会社で使っていたものを入れた。
「倒産した時、ウナギの焼き台とまな板、包丁と串とタレかけも、ほかのゴミと一緒に捨てられそうになっていたんです。それを見たら泣けてきて、買い取らせてくださいとお願いしたら、値段もつかないから、2階から降ろす費用を出すならいいと言われて。また60万円ほど借金をして引き取りました」
開業資金を含め、膨らむ借金を背負い、40歳にしてウナギ職人として独立した上田さんに吹き付けたのは、追い風ではなく向かい風だった。20歳で就職してからアルバイトか事務職しか経験したことのない彼女にとって、師匠の教えを守ってウナギの加工はできても、その売り先を確保する営業、さらに販売までひとりでこなす難しさは、想像を超えていた。
■食費と睡眠時間を削る日々
学生時代から営業も接客も嫌いで事務職に就いた上田さんだが、そんなことも言っていられない。それまでの給料生活と違い、ウナギが売れなければ収入ゼロ。前職の社長に教わりながら、必死の売り込みを始めた。営業の電話をかけても、最初は誰も相手にしてくれなかった。少しでも興味を持ってくれたら、ウナギを持って駆けつけ、頭を下げた。
最初に売り場を用意してくれたのは、川西阪急百貨店。どこからか「うな智」の話を聞きつけ、「催事に出展しませんか?」と声がかかったのだ。その催事に出展していたほかの業者と親しくなり、別の百貨店の催事担当者につないでもらった。昔からの友人の知り合いから催事の話をもらうこともあった。
こうして地道に販売先を広げ、和歌山や四日市(三重県)の催事にも参加するようなったものの、生活は一向に楽にならなかった。
加工場がある建物は住宅街にあり、昼間にウナギを焼くと苦情がくる。そのため、朝にウナギをさばき、日中は営業か催事に出て、夜中に焼くというサイクルで、まったく休む暇がなかった。
そのうえ、出展できる催事が毎週あるわけではないし、催事に出ても毎回それほどたくさんウナギが売れるわけでもない。仕入れたウナギをなんとかして売る自転車操業で、食費と睡眠時間を削る日々が続いた。
「いまより10キロ以上痩せていて、ほんとにガリガリでしたね。当時はタバコを吸っていて、ご飯を食べるか、タバコを買うかを迷って、タバコで空腹を紛らわせる生活でした。ポケットに100円しか入っていない時もありましたよ。年末年始に実家に帰るお金もないんで、親には『お正月に仕事が入ってるから帰れません』と嘘をついていました。ちなみに、両親は私がタバコを吸っていたことを知りません、ごめんなさい(笑)」
それでもなんとか営業を続けて4年目、上田さんは崖っぷちに追い詰められる。
■絶体絶命の危機に現れた男
2017年の年末、「筑紫金うなぎ」を生産していた水産会社が倒産。この報せを受けた上田さんは、顔面蒼白になった。その時期、すでに翌夏のお中元の商談が進んでいて、営業をかけていた高島屋から採用の連絡が届いていたのだ。
これでウナギを確保できずに破談になれば、高島屋に顔向けできなくなるだけでなく、大きな売り上げを失って「うな智」の破綻が現実味を帯びる。上田さんは水産会社と話し合いを重ね、なんとか1トンのウナギを確保してもらうことで合意に達した。
その際、「お金がないから、お中元が終わって高島屋から入金があった後じゃないと代金は支払えない」と伝えていた。にもかかわらず、お中元の準備を始めようという段階になって、水産会社から「先払いじゃないとウナギを卸せない」と連絡がきた。
「どうしよう……」と頭を抱えた上田さん。借金以外の選択肢が思い浮かばず、過去に何度か営業に来ていた信用金庫に連絡をしたところ、決算書を提出するように言われた。ところが、決算書を送ると「信用できない」と突き返された。開業以来、資金難で会計士を通さず自分で決算していたことが理由で、融資には会計士のハンコが必要だという。
お中元のタイムリミットが迫るなか、池田市内で会計士を見つけ、相談をしていたその日、「儲かりまっか?」と現れたのが、冒頭に記した男性、Kさんだった。
その日は「うな智」の今後を左右する日だったため、前職の社長も顔を出していた。「ウナギをやりたい」というKさんは上田さんと社長を連れ出し、鮨を食べながらざっくばらんに話をした。
別れ際、「大丈夫やで、僕と知り合ったから」と言って帰っていったKさんは、前職の社長と意気投合したこともあり、それから頻繁に顔を出すようになった。何回目かに顔を合わせた時、こう言われた。
「上田さん、お店出さへんか?」
■キツネにつままれたような展開
その時はまだお中元のウナギの代金をどうするのか決着がついておらず、店を出すことなど考えられない上田さんは、それまでの借金も含めて洗いざらい話し、決算書も見せた。
するとKさんは、涼しい顔で聞いてきた。「僕があなたに出資します。ウナギの代金も払います。だからお店やる? やらへん?」
翌日、デパートでの催事を控えていたこともあってその話は途中で終わったが、催事の後、再びKさんからオファーを受けた。上田さんにとっては渡りに船で、冷静に考えれば断る理由もない。「やります」と答えた翌日、喫茶店に呼び出された。
Kさんから「はい」と渡された紙袋には、帯が付いた現金1000万円が入っていた。慌てふためいた上田さんは店を飛び出し、銀行に駆け込んだ。そのお金でウナギの代金を支払い、夏のお中元を無事に乗り切った。
キツネにつままれたような展開だが、話はここで終わらない。Kさんから「会社潰れんように、催事とか物産でつないでて」と言われておよそ3カ月後の2019年6月、兵庫県の宝塚市にKさんの全額出資で「宝塚 うな智」がオープン。上田さんは、20席ほどの小さな店でオーナーシェフに就いた。
「Kさんに、宝塚南口に良い物件空いたみたいやから、大型店舗開く前に練習も兼ねてオープンせえへんか? と言われたんです。それで急遽『うな智』ができました」
翌年7月には、同じく宝塚に倍の広さを持つ「うなぎ処 うな富 本店」が開店。その際、上田さんはKさんに「私は別に経営がしたいわけじゃないし、能力もないし、経営はできる人にやってもらいたい」と話をして経営を別の会社の社長に任せ、後進の技術指導を始めた。その後、Kさんは瞬く間にうな富の店舗を増やし、現在7店舗(うな智を含む)。上田さんのもとで学んだ弟子たちがそれぞれの焼き場を担当している。
そして2024年4月、兵庫県の西宮に新たにオープンしたのが、新ブランドの「うなぎ心斎亭」。席数34と「うなぎ処 うな富 本店」より少し小さくなり、落ち着いて仕事に取り組めるようになったこの店で、上田さんはいま焼き場を仕切りながら、師匠の教えを若手に引き継いでいる。
■“神さま”が手を差し伸べた理由
29歳で不当解雇され、40歳の時に働いていた会社が倒産、その会社のためにした借金と貸し付けた計600万円もほとんど返ってこず、独立しても苦難が続き、45歳になって取り引き先が潰れて廃業の危機。底なし沼でもがいていた上田さんに蜘蛛の糸を垂らすように浮上のきっかけを与えたKさんを、彼女はこう評する。
「もう、ほんまに神様みたいな人ですね。もしKさんに会っていなかったら、自己破産して、実家に帰っていたと思います。親にも、その予告の電話はしたんですよ。もう帰るかもしれへんみたいな。Kさんがあっての今なので。ほんとに超ラッキー」
ところで、Kさんはなぜ、上田さんに手を差し伸べたのか? Kさんに電話で話を聞いた。
「僕は大阪の千里に住んでいてね。池田の加工場の前を毎日車で通っていたんですよ。僕の母親は大のウナギ好きだったから、ウナギの看板を見て、どんな人がやっているのかなって気になっていたんです」
ただ、昼間に通りかかるといつも閉まっている。ちょうどウナギの店をやろうかと調べ始めていた時期だったから、それでますます、どういう店なんだろうと興味が募った。
ある朝、6時頃に店の前を通ったら、女性が働いているのが見えた。ウナギ職人の世界で女性の姿を目にすることは滅多にない。「女性がやっているのか!」と驚いたKさんは、「うな智」のスケジュールを見て、催事が終わったタイミングで事務所を訪ねた。
その後に起きたことは、前述の通り。それにしても、それまで見ず知らずの上田さんに1000万円を出資し、お店の資金まで出すというのは大胆な決断ですね、と言うと、Kさんはズバリ、「勘です」。
「彼女と話してみて、お金儲けとかそういうことよりも、ウナギをさばきたい、ウナギを広めたいという思いを感じました。そこに、ビジネスのスタンスとして共通するところがあるなと思ったんですね。それに、彼女のウナギを食べてみたらさばきも上手だし、おいしいから、成功しそうだなと思ったんですよ。だから、助けてあげたいというよりも、協力したいということで出資しました」
■師匠から譲り受けた包丁
2023年3月、「うなぎ処 うな富 本店」に、上田さんの師匠、ノブさんと見高さんが訪ねてきて数年ぶりに再会した。Kさんから「トモさんの師匠とお茶がしたい」と頼まれて、声をかけたのだ。もうひとりの師匠、馨ちゃんはすでに亡くなっていた。
上田さんはその日、見高さんから包丁を2本、譲り受けた。取材の日、見事に磨かれたその包丁を見せてもらった。「卒業証書みたいですね」と言うと、「ちょっと寂しかったです」と微笑んだ。今は見高さんの包丁で仕事をしているという。
2006年にウナギの修業を始めて、今年でちょうど20年。土用の丑の日には、ひとりで150キロをさばく技量を身に付けた。休日以外は、ひたすらウナギと向き合う日々。「飽きませんか?」という僕の質問に、上田さんは「飽きません」と即答した。
後日、上田さんから届いたメールにこう書かれていた。
「(見高さんに会った時)75歳になっても『こないだ300kg捌いてきたでー』って軽く話してました。まだまだ師匠の半分です」
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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。
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(フリーライター 川内 イオ)