■『国宝』がすごいのは映画版だけではない
映画『国宝』は、公開から1カ月が過ぎてなお、週末観客動員数のトップを走っている。公開開始から7月13日までの38日間で興行収入は、56億円を超える。3時間近い上映時間のため、映画館では、1日最大で4回しかスクリーンにかけられないにもかかわらず、何より、6月6日の公開から日が経てば経つほど、評判が上がり、多くの人が詰めかけている。
ヒットの理由は何か。素朴に言えば、ストーリーが面白く、演技が上手で、映像が美しく、音楽が優れているからである。そんな月並みな言い方しかでてこないほど、すべての要素が至高である。
主演の吉沢亮と、横浜流星が演じる歌舞伎役者の完成度は、いくら絶賛しても、し尽くせない。1年以上に及ぶ稽古が2人の演技を裏打ちする。しかも、どちらも女形である。男性が女性になる、その難しさを、どちらも本職に匹敵するほどの迫力で演じている。
もとより、吉田修一による原作がすごい。
■吉沢亮と横浜流星の熱演に涙
極道の家に生まれた喜久雄(吉沢亮)が、歌舞伎役者の家に引き取られる。その家の御曹司・俊介(横浜流星)と切磋琢磨し、時に諍いを起こしながらも、50年の役者人生をまっとうする。「ただひたすら共に夢を追いかけた」との映画のコピーそのままの展開は、鑑賞中に何度も涙を誘う。
監督は、これまで『悪人』と『怒り』と、吉田修一作品を映画化してきた李相日である。「歌舞伎を見せる以上に、“歌舞伎役者の生き様”を撮りたかった」(同作パンフレットでのインタビューより)と語るように、本業ではない俳優の起用によって、長編小説のダイジェストではない完成度を誇る。
ただ、ここでは、映画ジャーナリストの大高宏雄氏が指摘するように、客層が「当初の主流だった50代、60代に加えて、20代、30代の女性層が増えてきた」ところに注目したい。若い女性が映画館の座席を埋めているのは、なぜなのか。
■なぜ「20代、30代の女性層」に刺さるのか
もちろん、吉沢亮と横浜流星という当代きっての演技派俳優2人の出演は大きい。李監督が「彼(吉沢亮)がいなければ映画として立ち上がらないし、彼がいることで出発できる」と断言し、また、以前にも組んだ経験をもとに「(横浜)流星のひたむきさやストイックな姿勢に、もう1回懸けてみよう」(ともにパンフレットより)とした、その決意が結実している。
また、映像の美しさは、撮影のソフィアン・エル・ファニアに依るところが大きい。フランス映画『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)で、カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールを獲得した世界観は、日本文化を描く本作では、その繊細さをとらえる点で、見事な化学反応を起こしている。
ほかにも、脚本の奥寺佐渡子や美術監督の種田陽平のすばらしさなど、スペースがいくらあっても足りないほど、ヒットの背景は、いくらでも挙げられる。プレジデントオンラインで毎日新聞記者の勝田友巳氏が分析する通り、「2025年屈指の一作であることは間違いない」。(〈映画「国宝」は豪華で美しいのに「どこか物足りない」…興収50億円を見越す大ヒット作で“描かれなかったこと”〉)
原作者の吉田修一が「100年に1本の壮大な芸道映画」と公式サイトで評するほどの作品なので、老若男女を問わず、誰もが見たい。若い女性だけに限らないのではないか。そう考えるほかない。
それでも、「20代、30代の女性層が増えてきた」からこそ、ここまで大ヒットしているのであり、そこには何らかの決め手があるに違いない。それは何か。
■「その才能が、血筋を凌駕する」の真意
ライターの武井保之氏が、東洋経済オンラインで述べるように、「歌舞伎ファンが口コミで伝えている」から、幅広い世代に広まっている。そこに若い女性も含まれている。そうなのだろう。
吉沢亮と横浜流星の演じる女形は、本職の歌舞伎役者に匹敵すると言えよう。たおやかさ、艶かしさは、たとえ1年以上の訓練を受けたとしても、彼らの持つ天賦の才がなければ出せない。パンフレットの見出しのように「その才能が、血筋を凌駕する」のは、物語だけにとどまらず、歌舞伎の血筋とは無縁の2人の俳優が、本業を上回る様子も同時にあらわしている。
歌舞伎ファンにとって、まるで歌舞伎を見ているかのような満足度をもたらしている。
■なぜ歌舞伎がテーマの映画は少ないのか
実は、歌舞伎をテーマにした映画は、意外に少ない。名匠・溝口健二監督の『芸道一代男』(1941年)はプリントが現存せず、小津安二郎の『鏡獅子』(1936年)はドキュメンタリーである。『国宝』は、モデルとする役者がいるとはいえ、まったくのオリジナルであり、それを元にした映画となると、先行する作品がなかなか思い当たらない。
言い換えれば、それくらい、映画で歌舞伎をあらわすのは難しいのではないか。
『国宝』の原作に「主な参考資料」として、その劇評が挙げられている、演劇評論家の渡辺保は、「音楽や舞踊や演技を利用し、返信し、生きつづけている『ある感覚』こそが歌舞伎そのものなのである(※1)」と定義している。
映画もまた総合芸術であり、音や動き=映像を合わせたものなのだが、歌舞伎は、そのあいまを行ったり来たりしているから、映像作品としては、なかなか描きづらい。まさにここに、『国宝』が歌舞伎ファンを唸らせる要因がある。
描きづらさを無理に克服しようとして誤魔化してはいない。
この、あきらめと覚悟をない混ぜにした感覚こそ、まさしく、渡辺保の表現した「ある感覚」であり、『国宝』がとらえた「歌舞伎そのもの」にほかならない。
■テーマは「歌舞伎そのもの」ではない
なるほど、歌舞伎ファンが口コミで伝える要素に事欠かない。とはいえ、それだけでは、ここまで多くの若い女性が見に行きはしないだろう。
歌舞伎ファンである私からすると、『国宝』のテーマは、「歌舞伎そのもの」ではないから、ここまで広がったように見える。たしかに、歌舞伎の魅力を、とても上手に映像化してはいる。それも、舞台裏(楽屋)をはじめとした人間ドラマを丹念に追いかけ、李監督の目指した“歌舞伎役者の生き様”の再現に成功している。
だからこそ、歌舞伎とは違う。
まず、長さである。
10年前に92歳で死んだ祖母は、ものごころつく前から90年近くにわたって歌舞伎を見ており、「歌舞伎なんて、途中で寝とけばいいのよ」と、よく言っていた。そう。途中で居眠りをせずには、体力も集中力も持ち堪えられない。
■原作版『国宝』との決定的な違い
次に、退屈さである。『国宝』の原作では、たとえば「隅田川」について、その筋書きの解説から、演出上の違いに至るまで、こと細かに描写されている。ただ、歌舞伎をまったく知らなければ、そうした部分は余計というか、乱暴に言って退屈である。
原作者の吉田修一が、これでもかと、具体の演目について紙幅を費やしたのは、歌舞伎にとって必要なのである。重要なのは見せ場だけではない。いや、見せ場よりも、それ以外の、つまらないと言えばつまらない、だが、それゆえに、ストーリーを際立たせるために必要不可欠な場面を描かなければならない。
そうした場面を理解するためには、知識が要る。物語を知った上で、聞き取りにくい古語に耳を澄ませながら、舞台を見続けなければならない。
これに対して、映画『国宝』はどうか。3時間のほとんどを、まったく飽きさせない。前提とすべき知見は不要だし、作中のほとんどは現代語であり、歌舞伎のシーンも踊りに焦点を当てている。高い緊張感を保ったまま、クライマックスまで突っ走る。
最後に値段である。歌舞伎のチケットは高い。最も安くても5000円であり、桟敷席は20000円と、若い女性が頻繁に通える価格設定ではない。対する映画は、一般料金で2000円、サービスデーなどでは1300円と、はるかに安い。
すなわち、いくつもの点で映画『国宝』は、見やすい。歌舞伎のようで「歌舞伎そのもの」ではない、いわば、“ジェネリック歌舞伎”ゆえに、ファン以外にも広まったのではないか。
■「ジェネリック」だからこそ味わえる魅力
私はここで、ジェネリック=邪道とか、ジェネリック=偽物、などと馬鹿にするつもりは毛頭ない。それどころか、ジェネリックの価値を讃えたいのである。
なぜなら、この映画のタイトル『国宝』こそ、ジェネリックそのものなのである。言うまでもなく、これは「人間国宝」に由来するのだが、通称に過ぎない。「国宝」とは、それ自体では有形文化財であり、形がある、何らかのモノである。
ここから「重要無形文化財保持者」、つまり、形のない何かを持っている人を、いわゆる「人間国宝」と呼んでいる。ジェネリックな=一般的な「国宝」が、「人間国宝」と言えるのではないか。眼に見えないものを持っている人間そのものを「国宝」と呼ぶ。
ジェネリックの価値が、ここにある。歌舞伎そのものではないために、かえって、私たちは、その魅力を味わえる。映画で歌舞伎を描くだけでも稀有であるのに、それどころか、今年最大のヒット作品になっている。その理由は、多くの人たちが、こうした隠れた意味を、敏感に覚知したからではないか。
参考文献
※1:渡辺保「歌舞伎の論理」渡辺守章・渡辺保・浅田彰『演劇を読む』放送大学教育振興会、1998年、126ページ
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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)
神戸学院大学現代社会学部 准教授
1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。
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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)