■見えなくても大好きな服は選べる
「お二人のシルエットがうっすらとわかる程度です。顔立ちはわかりません」
ローテーブルを挟んで石井さんの斜め向かいに座る編集者と私に石井さんが言う。
目が見えない、でも、メガネ……?
聞けば、見えていた頃に妻から贈られたすてきなフレームの眼鏡は「伊達メガネ」だった。石井さんから眼球の動きは奪われておらず、対面で話しているときの石井さんはまるで「見えている」かのように違和感がない。左耳にはターコイズのピアス。ボーダーのボートネックにジーンズ。
「見えなくても服を選べるの?って思いますよね。でも、僕の頭に中には膨大な量の服のイメージデータが記憶されているので、服を組み合わせたイメージを頭に浮かべることができるんです」
自分がどんな服装をしているのか実際に見ることはできなくなっても、好みの服で装うことは心を満たす大切な行為だという。
■「楽しいことしかやらない」と決めた
身だしなみを整えて、週に3~4日、千葉県館山市の自宅から高速バスで片道2時間かけて都心に出る。ポッドキャストのレギュラー番組への出演、業務委託契約をしている株式会社ヘラルボニーの仕事、ブラインドコミュニケーターとして依頼される仕事の打ち合わせなど。
見えなくなってから再び仕事を始めるにあたり、石井さんは、「楽しそう」「面白そう」と感じたことしかやらないと決めた。
仕事の依頼を受けると「ギャラはいくらですか」「なぜ、僕ですか?」と必ず聞く。インクルーシブデザイン(※ともすれば排除されそうな個人のニーズを理解し、それを取り込んだサービスや商品を開発すること)など障害者を起用する領域は広がってきてはいるものの、これまで社会で働いて対価を得てきた石井さんからすると驚くような低い報酬での業務の提示が少なくないという。
また、「誰でもいいから障害者枠で」という依頼は断る。石井さんは「目の見えない誰か」ではなく、「目の見えない石井健介」だからだ。
■「障害者だから安くていい」はおかしい
「障害者だからこれくらいのギャラでいいだろう、といった障害者に対する搾取構造に出くわしたことがありました。でも、僕は目が見えないからといって目が見える人に劣った仕事をしているのではありません。これは僕個人のことに限らず、障害者雇用に関して広く考えなくてはならない問題だと思います」
でも、プロジェクトの志に共振すれば、無償で引き受ける。
「楽しくない」と思った組織からは去った。経営方針に違和感を持つと、石井さんは黙っていることができない。33歳で独立するまでに数多く転職したのも、ワンマンな経営者に反発することが多かったためだという。その反骨は目が見えなくなって、むしろ開花したかのようだ。
■最新デジタル機器が生活を助けてくれる
石井さんの「見えない」生活を支えているのは、iPhoneをはじめとするテクノロジーだ。
右目の視力はほぼないが、左目だけはぼんやりと見えるため、目のきわまで近づければ大きい文字は読める。文字を確認する際はiPhoneを近づけて拡大鏡を使う。モニターを使わないやり方は、テキストをやりとりする最先端のようにも見えてくる。初の自著『見えない世界で見えてきたこと』(光文社)はこのやり方で書き上げた。
「カフェで原稿を書くこともあるんですが、僕がどこも見ずに膝の上に置いたキーボードを打っている姿は、周りのお客さんにはブラインドタッチの練習に見えるかもしれません」
と石井さんは笑った。「見えない」自分の暮らしようを「見える」人たちに開いていくこともブラインドコミュニケーションだ。
■社会にある「障壁」を取り除くために
2006年に国連総会において採択された「障害者の権利に関する条約」は、「社会こそが『障害(障壁)』をつくっており、それを取り除くのは社会の責務であるととらえている」と指摘している(株式会社WHILLウェブサイトより抜粋)。
「目が見えない」をはじめ、「何らかの機能が失われた状態=障害」ととらえる。それは私たちの側のバイアスが作動しているということだ。
世の中は複雑で多様なレイヤーから成り立っている。それらのレイヤーを見ようとしていないのは私たちの側だ。
■2人のこどもと妻に毎日必ず伝える言葉
見えなくなって9年が過ぎた。当初は「価値のない人間」と自分を否定せずにいられなかったが、尊厳を取り戻していく過程で「金を稼げるかどうかが自分の価値ではない」という考えにいたった。今ではあるがままの自分を認められる。
だが、常に心が凪いでいるわけではない。見えないことに端を発する怒りは日常の些細なことから破裂するときがある。
「音に敏感になるので、たとえば、僕がメールやSNSを音で確認しているときにテレビがついていたり娘や息子の声が賑やかだったりすると、『うるさい』『黙れ』と怒鳴ってしまうことがあります」
感情的に怒ってしまったとき、あとで「今の言い方は悪かった。パパが言葉でちゃんと説明できなかった」と説明し、ごめんねと謝る。朝起きるとハグして「今日もいてくれてありがとう」「うれしいよ」と伝える。
条件付きの愛ではない、どんな状態であってもあなたは大切な人だとこどもたちに伝えたい。目が見えなくなってから生まれた習慣だという。
妻・朋美さんに対しては――?
「寝るとき、『おやすみ』という際に、必ず、妻に『今日もありがとう』と言うようになりました。彼女が気づいているかわかりませんが」
■妻の犠牲があってこそ成り立った9年間
今日と同じ明日が訪れるとは限らない。大切な人に言い忘れたことはないですか? 石井さんはにこやかに私たちに問いかける。
「見えなくなったことで息もできないくらいに苦しんだ時期がありましたが、今では、目が見えなくなってからのほうが生きるのが楽になりましたよ」
石井さんは笑い、
「見えなくなったことはこの人の人間性に影響を及ぼしたと思います。ある意味、よい転機になったんじゃないかと思います」
と朋美さんが言い添えた。
本の中で石井さんの描く朋美さんは、いかにも看護職らしく、冷静でいつも落ち着いていて、気が強いタフな女性だ。実際に会う朋美さんは、意志を持って多くを語らない。静かだが芯に自分がある、そんな気配をまとっている。
朋美さんの人生も否応なく変わった。時間、気遣い、生活設計の心配など、朋美さんが自分を削って成り立たせた9年でもある。それは絆や愛といった言葉で簡単に整理することのできる時間ではなかっただろう。
■「彼が進む方向については任せています」
「彼が面白そう、とか楽しそう、と感じて進んでいったことは、だいたい間違いがないことを以前からわかっていました。
こうした朋美さんの寄せる信頼が、石井さんを前に進ませてきた。
後日、朋美さんに確認したい点があり、メールをした。その返信にこんな言葉が記されていた。
〈「大変だったでしょ」と言っていただくことはよくありますが、私自身はそのときの大変さを夫のように覚えておらず、言われてみると「そんなこともあったかな」「大変だったかな」と感じる程度で。〉
現実を静かに受け止め、そのときどきに集中してきた時間だったのだろう。
■「見えない」人の近くで育った長女の作文
石井さんが視力を失ったことが夫婦の形を変えたかどうかはわからない。少なくとも、もともと描いていたプランAとは異なるプランBの人生を、夫婦は必死で受け入れた。そして穏やかな暮らしを願い、手触りのある生活をつくってきた。
こどもたちにとって、物心ついたときには父は「見えない」人で、「見えない」人がいる世界を当たり前のこととして2人は育った。ある日突然、父の目の見えない友人がやってきて泊まっていく、そんな生活の中で、長女はこんな作文を書いた。
〈障害のある人との関わり方がだんだんわかってきた。
障害のある人とも、初めて出会った人とも、仲よくなりたい、という気持ちで関わる。出会い方には何ら変わりがないということだ。これは、石井さんが見えなくなってから、いちばん願ってきたことだった。
■一生懸命に走る姿は見えないけれど…
そもそも、「見えない」ことにもグラデーションがある。だから「視覚障害者」としてひとくくりにするのではなく、個々と向き合う社会になってほしいという思いが石井さんのブラインドコミュニケーターの仕事の原点にある。
それは、障害のあるなしに関わりなく、私たちが他者とつながることの原則であるはずだ。父は長女に「平等」という感受性を授けたのだ。
こどもの成長を見られない。そのことだけが、石井さんは悲しい。ことに運動会。一生懸命駆ける姿は、見たかった景色のひとつだ。
だが、見えないけれど見えた風景がある。それは小学校の運動会だった。6年生になった長女が応援団に入り、太鼓を担当した。応援合戦が始まった。ドンッと力強く太鼓が鳴る。全身に空気の振動が響きわたる。そのとき、成長した長女の姿が石井さんの瞼のうちに鮮やかに浮かび上がった。
----------
三宅 玲子(みやけ・れいこ)
ノンフィクションライター
熊本県生まれ。「ひとと世の中」をテーマに取材。2024年3月、北海道から九州まで11の独立書店の物語『本屋のない人生なんて』(光文社)を出版。他に『真夜中の陽だまり ルポ・夜間保育園』(文芸春秋)。
----------
(ノンフィクションライター 三宅 玲子)