江戸城の大奥にいる女性たちは、男性と隔離された生活を送っていた。外出先は寺社に限られていたが、そこで僧と交わるものもいたという。
歴史の謎を探る会編『江戸の性生活 夜から朝まで』(KAWADE夢文庫)より紹介する――。(第2回)
■8代将軍・吉宗が行った“大奥リストラ作戦”
江戸の「三大改革」といえば、享保の改革(1716~45)、寛政の改革(1789~93)、天保の改革(1841~43)である。これらの改革は、いずれも幕藩体制の立て直しが目的であり、金食い虫だった大奥の改革も行なわれた。
なかでも、ユニークなリストラを行ない、大奥にかかるコスト削減に成功したのは、享保の改革を断行した8代吉宗である。
吉宗は、幕府から庶民にいたるまで質素・倹約を徹底させようと、大奥のリストラをもくろんだ。しかし、大奥は政治や人事についてかなりの力を持っているので、将軍といえども、徳川宗家の出身ではなく、紀州から入った身の上、正面切ってリストラをぶち上げれば、どんなシッペ返しを食らうかわからなかった。
そこで、吉宗は一計を案じ、こんなことをいった。「奥向きの女中のなかで、容姿にすぐれた二五歳以下を選び出して参れ」。
大奥中が色めきたったのは、いうまでもない。吉宗は、紀州時代、正室を亡くしており、将軍に就任したときには独身だった。ようやく側室を持つ気になったのだろうと、女中たちは、念入りに化粧したり、御年寄に売りこむ者も現れた。御年寄のほうでも、さっそく、飛び切りの美人を選びだし、リストをつくった。

やがて、選ばれた50人が吉宗の前に御目見えした。すると、吉宗はこう告げた。
「今日限り、そのほうたちに暇をつかわす」
つまり、その50人がリストラの対象だったのである。吉宗は、美人なら大奥を出ても良縁に恵まれるだろうと考えたのだ。彼女たちにしても、大奥を出るのは残念でも、飛び切りの美女と将軍からお墨付きをもらい、自尊心は満たされている。大きな不満の声があがることもなく、吉宗は見事にリストラに成功したのだった。
■僧侶との禁断の愛
大奥女中は、男性と隔離された生活を送り、市中の男と接触する機会もめったになかった。そんな彼女たちの外出先は寺社に限られていたため、お寺参りが彼女たちのいちばんの息抜きになっていた。ところが、その機会を利用して、寺社で好みの僧侶と交わる者が現れた。
寺院のほうでも、将軍家帰依の寛永寺や増上寺といった大寺院は、大奥女中にハンサムな僧をあてがって、大奥への影響力を保とうとしていたようである。
しかし、それ以外の寺院があまりに派手にお女中たちも“もてなす”と、手入れを受けることがあった。たとえば、大奥を襲ったスキャンダル事件として、下総中村村(現在の千葉県市川市)の智泉院と、雑司が谷の感応寺の一件がよく知られている。

11代家斉の時代、将軍の愛妾のひとりにお美代という側室がいた。彼女の父親については諸説あるが、智泉院の住職日啓だったといわれている。当時、日啓の宗派では妻帯を禁止していたので、日啓は破戒僧ということになるが、その子のお美代はかなりの美貌に恵まれていた。
■大奥を激震させた“スキャンダル”
彼女は成長すると、中野播磨守の屋敷で奉公しはじめたが、美貌と才気を認められて、中野播磨守の養女となったあと、大奥女中として採用された。すると、すぐに家斉の目に留まってお手つきとなり、姫君を産んだ。
その幸運にあやかろうと、多くの大奥女中が、お美代の実家である智泉院にお参りするようになる。やがて、大奥女中たちは智泉院の僧たちと肉体関係を持つようになった。
いっぽう、側室となったお美代は、家斉に頼んで、江戸の雑司が谷に感応寺を建てさせ、将軍家の菩提寺にしようとした。感応寺は、智泉院より江戸城から近く、将軍のお声がかりの寺であることから、すぐに多くの大奥女中がお参りするようになる。やがて、大奥女中たちは、こちらの寺でも美僧たちと関係を持つようになり、これが大きな噂となって庶民のあいだにも広がった。
ただし、家斉の存命中は、将軍の側室を巻きこむ大スキャンダルとなるため、お咎(とが)めはなかった。しかし、家斉が亡くなると、両寺はすぐに寺社奉行の摘発を受け、関係者は処分され、両寺は破却された。
お美代の父日啓は、遠島の刑を申し付けられたが、流される前に獄死している。
■将軍と正室の本当の夫婦仲
将軍のなかには、2代秀忠のように正式には側室を持たず、正室一筋だったといわれる将軍もいれば、多数の側室を持つ将軍もいた。3代家光以降は、良家出身の正室が世継ぎを産み、彼女の実家が強い発言権を持つことを防ぐためにも、複数の側室を持つことがしきたりとなっていた。
たとえば、家光は、公家社会でも最高位の家柄の出である鷹司孝子を正室にしたが、夫婦生活は一度もなかったといわれる。これには、正室の孝子に子どもができるのを恐れた人々が、作為的に不仲にしたという説がある。
その家光以降、将軍の正室は、天皇家、宮家、公家から迎えるのが慣例になっていった。例外として、島津家から嫁いだ11代家斉、13代家定のケースがあるが、両人とも、輿入れに先立って近衛家の養子となり、「公家の姫」として嫁いでいる。そのうち、「島津篤子」から「近衛敬」となって家定の正室に入ったのが、2008年のNHK大河ドラマの主人公「篤姫」である。
篤姫が家定の正室として迎えられたのは、大奥に同じく島津家から正室を迎えた2代前の家斉が、長寿で子だくさんであったことにあやかりたい気持ちがあったからだともいわれる。
■正室から生まれた将軍はゼロ
家定は、それまでふたりの正室を迎えていたが、つぎつぎと亡くなり、家定自身も病弱で子どもがいなかった。そのいっぽう、篤姫の養父で薩摩藩主の島津斉彬には、幕府内で発言力を高めたいという思惑があった。
この篤姫の例からもわかるように、将軍の結婚は、愛情もヘッタクレもない政略結婚がふつうだった。
天皇家や宮家、公家から迎えられたのも、将軍家の箔づけのためで、将軍と正室との夫婦生活は、おおむね冷たいものだった。
じっさい、家斉と島津家出身の正室とのあいだに生まれたのは、わずかひとりだった。また、家定に嫁いだ篤姫の場合、結婚から2年もたたないうちに家定が亡くなり、ふたりのあいだに子どもはなかった。
また、正式の側室を持たなかった2代秀忠の正室於江が、3代家光を産んだケースをのぞいて、正室から生まれて将軍になった者はいない。正室は、あくまで将軍家に箔をつけるお飾りにすぎなかったといえる。
■家康と秀吉の好みの女性の違い
初代将軍である家康には、わかっているだけで、16人の側室がいたが、いずれも低い身分出身の女性だった。家康は、未亡人を好んで迎えたので「後家好み」ともいわれた。
たとえば、家康がもっとも愛した側室といわれる西郷局は、2度も夫を亡くした女性だった。しかも、身分が低かったので、母の弟で家康の忠臣だった西郷清員の養女となって、家康の側室となった。彼女が2代秀忠の生母である。
その他の側室も、低い身分の出身だったり、未亡人だったりするが、家康が側室にそういう女性を選んだのは、彼らしい緻密な計算からだった。
家康は、今川家に人質にとられていた16歳のとき、同い年の築山殿と結婚して、長男の信康をもうけた。
ところが、桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に敗れると、家康は信長と手を結ぶ。これによって、もともと今川側の人間だった築山殿の立場が危うくなった。
さらに、築山殿が、信康の正妻(信長の娘)に辛くあたったことで、信康の正妻が、築山殿と夫の信康は武田信玄に通じていると信長に密告。それを信じた信長が、家康にそのふたりを殺すように命じ、家康は泣く泣くふたりを死なせた。また、その後、家康は、秀吉の妹の朝日姫と無理やり結婚させられている。
そうした体験から、家康は、身分の高い女性はとかく政争の種になるが、身分の低い女性を迎えれば、感謝こそされ、トラブルの種になることはないと考えるようになった。そして、身分の高い女性を迎えてプライドを満たした秀吉とは対照的に、家康は側室に身分の低い女性や未亡人を選び続けたのだった。

----------

歴史の謎を探る会(レキシノナゾヲサグルカイ)

歴史の中に埋もれている“ドラマチックな歴史”を楽しむべく結成された、夢とロマンを求める仲間たちの集まり。学校では教わらない史実の裏側にスポットを当て、一風変わった視点からのアプローチには定評がある。

----------

(歴史の謎を探る会)
編集部おすすめ