今やカラオケの定番となったJOYSOUNDを手がける株式会社エクシングブラザー工業株式会社のグループ会社で、常にこれまでにない発想でカラオケの新しい楽しみ方を提案し続けている。


1990年代の通信カラオケブームを牽引したJOYSOUNDだが、サービスが生まれるまでには、多くの挫折と社をかけた大きな方向転換があった。

今回は、株式会社エクシング代表取締役社長・水谷靖と、JOYSOUNDの生みの親ともいえる安友雄一(オフィス エイトックス 代表)に、当時の開発秘話を語ってもらった。

■業務用カラオケ事業を中心に、常に未知なものに挑戦していく

通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


ーーはじめに、手がけている事業について教えてください。

水谷:弊社は、業務用通信カラオケ「JOYSOUND」を主軸としたカラオケ事業を展開しています。全国のカラオケボックスやスナック、バーや旅館へカラオケ機器を納入しているほか、子会社のスタンダードが運営するJOYSOUND直営店は、全国100店舗以上に上ります。

また、スマートフォンやNintendo Switch™やPlayStation®4などの家庭用ゲーム機、ご自宅のテレビやパソコンに向けても、本格的なカラオケがお楽しみいただけるサービスを展開しています。

このほか、昨今の少子高齢化を背景に、介護老人保健施設・ヘルスケア市場に向けた音楽療養コンテンツ「健康王国」の展開にも注力するなど、音楽を軸として幅広い事業を手掛けています。

ーー事業を展開するうえで大切にしている考え方はありますか?

水谷:社名である「XING(エクシング)」の「X」は未知なるもの、「ING」には挑戦し続けることの意味が込められています。常に新しい未知なるものに挑戦していくという考え方は、28年前の創業時から一貫して大切にしていますね。

■苦境を乗り越え大成功へ!JOYSOUND開発の裏側

通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


当時の水谷(左)と安友(右)

ーー当時のJOYSOUNDの開発は、社名にも込められている通り、とても新しい挑戦だったと思います。

安友:そうですね。かなり新しかったと思います。


1986年、ブラザー工業の開発部門にいた私は、社内からの反対の声を何とか説得して、世界初となるパソコン用ソフト自動販売機「TAKERU」という事業を立ち上げました。当時のパソコンソフトはパッケージで、店舗ではヒットするものはすぐ在庫がなくなり、逆に売れないものは在庫のまま積み上がるというジレンマを抱えていましたが、それを店頭でお客様に直接ダウンロードしてもらい販売するという画期的なものでした。今でいう、コンビニのマルチメディア端末のようなものですね。

ですが、ゲームソフトやさまざまなソフトを取り扱ったものの、市場自体が思うように広がらず、利益が出ずに苦戦していました。

そんなとき、ある音楽学校から「生徒たちが作ったMIDI楽器用の3,000曲の楽曲データを、TAKERUで販売してくれないか」という提案を受けました。3000曲だと、1枚のフロッピーに10曲入れれば300種類。これをパソコンショップの店頭に並べるのは場所を取りますよね。TAKERUであれば簡単に買えるから、ぜひ売ってほしいと言われたんです。

しかし、実際にチャレンジしたものの、時期尚早であまり売れませんでした。ですが、データを非常にコンパクトにできるので、これを他の目的に使えたらと閃きました。応用できるところを探した結果、カラオケにたどり着いた形ですね。これが、通信カラオケ誕生のきっかけです。


通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


ーーいろいろな方向性を考え、カラオケにたどり着いたんですね。

安友:カラオケに特別なこだわりはありませんでした。正直言って私、カラオケ嫌いでしたから(笑)。

カラオケに決まらなかったら、おそらく取り組んでいたのはゲーム配信です。当時も考えていたものの、取り掛かる前にカラオケ事業が始まったので、それどころではありませんでした。

1989年くらいから本格的に動き始めましたが、当時はパソコン黎明期だったので、今のようにサブスプリクションサービスもなく、スマートフォンでダウンロードができるわけでもなく……。インターネットができる前だったので、通信系のシステムを含め、全て自前で作りました。

それよりも何が大変って、ブラザー工業内に音楽に精通した人がいなかったことです。ものづくりはできるけれど音楽に詳しい人がほとんどおらず、「カラオケとは?」から始まりました。雲を掴むような、頂上が見えない状態が何年か続き、悶々としていた記憶があります。

水谷:私がカラオケ事業のことを聞いたのは、1992年でした。当時私は、ブラザー工業のカラーコピーを担当する東京の事業部にいたのですが、1992年のある日、上司から「本社の名古屋に帰ってこい」と伝えられまして。
そこで「まだ秘密の段階だけど、ブラザー工業がカラオケ事業を手がけることになった」と聞かされました。

私はカラオケが大好きだったので、正直ワクワクしましたね。ただ、安友さんが仰っていたように、ブラザー工業のイメージとカラオケが全く繋がらない。当時は「社内にカラオケや音楽のことを分かっている人はいるのかな……?」と不安に思っていました(笑)。

その後、エクシングができたのが1992年の5月でしたよね?

安友:そうだね。会社を作ったのが1992年の5月。商品を出したのが10月。

水谷:1992年の5月に、安友さんをはじめ、それまでJOYSOUNDを準備してきた人たちが株式会社エクシングを作り、みなさんブラザー工業からそちらへ行くことになったんですよね。すると今度は、ブラザー工業側からカラオケ事業をフォローする人が足りなくなるわけです。

そのため、当時私がいたカラーコピー事業部門にいた若手が、ブラザー工業側からのフォローとして指名されることになりました。私が名古屋本社へ呼び戻されたのはそのためでした。

1992年5月に名古屋へ戻り、カラオケ事業に参加することになったのですが、蓋を開けてびっくり。
今だから言いますが、「本当に10月に商品を出すの?」というレベルで何も準備できていない状態だったんです。

安友:その当時は、カラオケ機器本体も手作りで作っていた研究試作2台のみ。ですが、手作りのものは販売できないので、全て設計し直さなければいけませんでした。

「安友さん、機器のアフターサービスはどうしたらいいの?」「アフターサービスのことなんて考えていない。そっちで考えて」、「安友さん、機器には研究用にものすごく高い部品を使っているから、これでは売れません。どうしますか?」「そんなことわからない。そっちで考えて」という押し問答の繰り返し。

ですが、ブラザー工業の底力と徹底した品質管理はとてつもなかったです。しっかりと10月の発売に間に合いました。

水谷:当時カラーコピー事業は、会社としてもかなり力を入れて取り組んでいた事業だったので、優秀な若手を開発・製造部門に回していたんです。そのため、優秀なエンジニアをカラオケ事業にも振り分ける余裕がありました。そういったこともあり、かなりの短期間でしたが、製品化して何とか世の中に送り出せたのだと思います。


安友:ただ、当時の事業部長さんには、こっぴどく叱られましたね(笑)。会社としてカラオケ事業を進める決定がなされたのですが、メインで作る部署をどこにするか社長と意見が割れまして。

社長は業務用通信カラオケなので品質のことも考え、産業機械の部署で作りたいと言っていましたが、僕は「電話線を繋いでいる機器だから、ファックスやコピーの事業部で作りたい」と。事業部長さんは全く納得せず、その後、個人的にも半日怒られました(笑)。ですが一旦憂さ晴らしをしたあとは、とても協力してくれましたけどね。

ーーJOYSOUNDを開発・展開したものの事業はなかなか軌道に乗らず、撤退しなければならないところまで追い込まれたと伺いました。

安友:そうですね。会社として「カラオケ事業をやっていきましょう」と決めたあとの方が地獄だったかもしれません。まさしく、一難去ってまた一難という感じでした。

水谷:ずっと大変でしたね。

最初に出した通信カラオケは「JS-1」というナイト市場向けの商品。それが大失敗しまして。
石原裕次郎さんや美空ひばりさんなどといったいわゆる懐メロの楽曲は、レコード会社が権利を持っている「管理楽曲」なんですが、当時は海のものとも山のものともわからない通信カラオケに対して許諾してもらえなかったんです。

安友:10月1日の商品発売までに、テストを兼ねてさまざまなスナックにデモ機器を設置させてもらって検証やヒアリングをしていたのですが、そのときには管理楽曲が歌えなくても評価がよかったんですよ。

ですが、10月に出荷して機器の稼働時間や稼働台数を見ていると、「これはまずいぞ……」という数値。冷や汗が止まりませんでした。10月にリリースしたものの、このままでは年を越せないという最悪のシミュレーションまでありました。

通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


ーー危機的状況に追い込まれても粘り続けられた理由は何だったのでしょうか。

安友:僕ひとりであればやめていたかもしれませんが、人もお金もかなり注ぎ込んでいたので、どんなことがあってもやるぞ、と思っていました。もともと新しい挑戦が好きという性格もありましたね。

その時点で、資本金8億円のうち、最初の3,000曲の作成に4億円をかけていました。残りの4億円のうち1億円は人件費。「じゃあ3億円でやれるところまでいこう」と、3日くらいで「ナイト市場からの撤退・主戦場を若者向けのカラオケボックスにする」という戦略の転換を決めました。大変でしたけど、毎日楽しかったですよ。

ーーそこを楽しめるのがすごいです。戦略の切り替えは3日で考えたのでしょうか?

安友:考えていたというか、10手先くらいは読んでいました。管理楽曲が入っていないことで受け入れられないことも考えてはいましたが、正直まさかその道を進むとは思っていませんでした。

当時はまだ30名ほどの会社だったので、全員を集めて会社の総意として方向転換を決めました。これでダメだったら諦めよう、と。意思を統一したあとは、ひたすら作業。クリスマスイブまでに若者が歌いたい曲を2,000曲作りました。

水谷:「こんな曲がカラオケになるはずがない」というアルバムの曲も入れて、カラオケボックスに置いたら、今度は生産が追いつかないくらい大人気になりまして。

安友:「部品がないのでこれ以上作れません」と水谷さんが頭を抱えるくらい。

女神は見放さなかったです。方向の大転換を若者の皆さんが支持してくれて、何とかやっていけました。

水谷:振り返ってみると、今では考えられないスケジュールでしたね。本来は3年かけて作るような新商品を、安友さん、「2ヵ月で出せ」って言うんですよ。でも、楽しかったです。

安友:みんな頑張ってくれましたね。あそこでポキっと折れてしまっていたら、今のエクシングはなかったと思います。

水谷:そういえば、JOYSOUNDをリリースした2年後くらいに、ブラザー工業とエクシングが同じ税務署管内で納税額1位と2位になったんです。

安友:新聞に載ったよね。

水谷:あれはやはり嬉しかったですね。報われたというか。みんな喜んでいました。

安友:開発当時は会社がなくなるのではないかとまで思っていたので、想像もしていませんでした。

通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


ーー新しく道を切り開くのは難しいことです。挑戦し続けられた理由はどこにあったのでしょうか?

安友:そもそも、“新しいことが好き”というマインドセットだったからだと思います。

学生の頃、ブラザー工業に「好きなことをやっていいからいらっしゃい」と呼ばれてから定年まで30数年、ずっと好きなことをやり続けさせてもらいました。実は、「これをやりなさい」と言われた記憶がないんですよ。そんな会社はなかなかないと思います。新しいことにチャレンジするのは、ブラザー工業とエクシングのDNAなのでしょうね。

「TAKERU」に始まり「もっと大きいことをやってくれ」という提案に乗り、カラオケというテーマに出会えて、そこから30年近く経った今もエクシングは頑張ってくれている。素晴らしいことだと思います。

■チャレンジをやめないことが業界で変わらぬ支持を得られている理由

通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


ーー時代が変わると流行も変化していくものですが、JOYSOUNDが開発から30年近い時を経ても多くの人からの支持を獲得している理由は何だとお考えですか?

水谷:新しい遊び方やサービスを常に提案しているからだと思います。

1990年代にJOYSOUNDが牽引してカラオケブームを作り、その後、カラオケとの相乗効果で音楽業界でも多くのヒット曲が生まれるなど、通信カラオケがどんどん広がっていきました。一時は10数社、通信カラオケを手がける企業があったほどです。

それが今は、第一興商さんと弊社の2社のみ。第一興商さんは通信の前からカラオケ事業を展開している老舗で、カラオケの王道を極めている企業です。

対して我々は、“業界初”のサービスを打ち出すことで、これまでにないカラオケの楽しみ方を提案し続けていることが特徴。業界初となるカラオケ・ソーシャルメディア「うたスキ」を立ち上げ、カラオケを楽しむ様子を撮影して、ほかのユーザーとコラボレーションできるようにしたのも弊社が最初です。

通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


現在は、「みるハコ」という新サービスを通じ、歌うだけにとどまらず、ライブ・ビューイングやアニメ、映画などの多彩な映像コンテンツを提供することで、カラオケルームを新しいエンタメ空間へ変えていこうという提案をしています。

通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


このように、業界の発展のために新たなサービスを常に出していることが、我々が業界に残り続けている理由だと考えていますね。

■「諦めずにどうしたらいいか」を考えてみる

ーー現在は、新型コロナウイルスの感染拡大による影響を受けたり、当時のTAKERUのように革新的な技術を持っているものの時期尚早につき不振に苦しんだりしている企業があるかと思います。苦境を乗り越えて成功を掴み取ったエクシングだからこそ伝えられるメッセージをいただけると嬉しいです。

通信カラオケブームの火付け役・JOYSOUNDの開発秘話。「撤退寸前」という苦境を乗り越え大成功へ


水谷:数々の苦境を乗り越えてきている我々としては、「課題に逃げるのではなく、乗り越えるためには何をすべきか」という考え方が大切だと言えますね。これまで弊社が成功を掴み取ってこられたのは、諦めずにどうしたらいいかを考える企業文化があったからだと思います。

新型コロナウイルスは今、我々にとっても乗り越えるべき壁です。カラオケメーカーとして、苦境に立たされた業界を支えるべく、自分たちが持っている知恵や力で乗り越えていきたいと考えています。

安友:アイデアラボを作ったビル・グロスによると、新規事業を立ち上げるときに何より大切なのは、いいアイデアではなく、「タイミング」なんだそうです。JOYSOUNDが通信カラオケに参入したタイミングも、まさに、レーザーカラオケのディスクが満杯になる10年に一度のチャンスでした。

これまでの日常が覆るようなコロナ禍というタイミングの今こそ、諦めずに知恵をしぼることで、これまでにない新しい商品やサービスが生まれるチャンスに繋げられるのではないでしょうか。

※「Nintendo Switch」は、任天堂株式会社の商標です。

※「PlayStation」は、株式会社ソニー・インタラクティブエンタテインメントの商標または登録商標です。

記事・執筆=ameri、監修=エクシング

【株式会社エクシングのPRTIMES STORY】

カラオケメーカーと店舗の立場から語る、コロナ禍を生き抜くJOYSOUNDの戦略 ~歌う場所を超越した、新たなエンタメ空間への進化~PR TIMES STORY×コロナで苦境に立たされた「ライブハウス」と「カラオケ」がタッグを組む理由。逆境をチャンスに変える、JOYSOUND「みるハコ」の戦略とはPR TIMES STORY×
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