
7日、東アジアサッカー連盟が主催するE-1サッカー選手権が韓国で開幕した。
かつてダイナスティカップと呼ばれた同大会は、2003年に東アジア選手権として生まれ変わり、その後EAFF東アジアカップ、E-1サッカー選手権と名前を変えて開催されている。
この大会は基本的に国際Aマッチデー以外の時期に開催されることから日本代表は国内組主体になることが多く、それが新戦力の発掘に役立ってきた面もある。
今回、日本代表メンバーはすべてが国内組で14名が初招集となった。彼らは1年後に迫るワールドカップに滑り込みを果たせるだろうか。
そこで今回は、ワールドカップを控える1年前の同大会で初招集され、そのまま本大会に出場した選手たちをご紹介しよう。
山口蛍
→2013年EAFF東アジアカップの初招集から2014年ワールドカップ出場
2012年ロンドン五輪で44年ぶりベスト4進出の原動力となった山口蛍は、翌年夏に開催されたこの東アジアカップで日本代表に初招集された。
日本はこの大会の一か月前に行われたコンフェデレーションズカップで3戦全敗に終わっており、同大会では新戦力の発掘が急務となっていた。
そんな大会で日本は初優勝を飾り、山口はMVPに。アルベルト・ザッケローニ監督の信頼を勝ち取った山口は、遠藤保仁、長谷部誠に次ぐ3番手のボランチとして、翌年のワールドカップに出場を果たしている。
駒野友一

→2005年東アジア選手権の初招集から2006年ワールドカップ出場
左右両足からのクロスを得意とした駒野友一。彼は2005年の東アジア選手権で負傷した三浦淳宏に代わって初招集された。
初戦は出番がなかったが、メンバーをがらりと変えた続く中国戦で代表デビュー。後年、「1年後のワールドカップに出たいという想いを強く持っていた」と語るとおり、懸命のプレーでアピールに成功した。
そのまま加地亮の控えとして代表に定着し、2006年ワールドカップのメンバー入り。加地の負傷により、オーストラリアとの初戦で先発起用されている。
巻誠一郎

→2005年東アジア選手権の初招集から2006年ワールドカップ出場
強靭な肉体を武器にした巻誠一郎。「利き足は頭」と呼ばれ、接触を恐れないヘディングが真骨頂だった。
イビチャ・オシム監督時代のジェフ千葉で頭角を現した彼は、2005年の同大会で日本代表に初招集。これはジーコジャパンのエースだった久保竜彦のコンディション不良により追加招集されたものだった。
大会では初戦の北朝鮮戦で途中出場から代表デビューし、2戦目の中国戦、3戦目の韓国戦では先発出場を果たしている。
2006年も久保のコンディションが上がらなかったため、本大会にサプライズ選出。グループ最終節のブラジル戦では先発に抜擢された。
青山敏弘

→2013年EAFF東アジアカップの初招集から2014年ワールドカップ出場
サンフレッチェ広島のエンジンと呼ばれた青山敏弘。
本田圭佑と同じ北京五輪世代ながらA代表には縁がなかったが、2013年のこの大会で初招集され、遅まきながら27歳にして日本代表デビューを果たした。
この大会でのプレーぶりが当時のアルベルト・ザッケローニ監督に認められ、2014年ワールドカップのメンバーに滑り込んでいる。
齋藤学

→2013年EAFF東アジアカップの初招集から2014年ワールドカップ出場
メッシに例えられるドリブルが魅力だった齋藤学。4位になったロンドン五輪のメンバーで、その翌年に開催されたこの大会でA代表に初選出された。
初戦の中国戦で途中出場し、A代表デビュー。続くオーストラリア戦は先発起用され、代表初ゴールも記録した。
この活躍が評価され、2014年ワールドカップのメンバー入りを果たしている。
柿谷曜一朗

→2013年EAFF東アジアカップの初招集から2014年ワールドカップ出場
10代の頃から天才と呼ばれながらも伸び悩んだ柿谷曜一朗。しかし森島寛晃からセレッソ大阪の「8番」を託された2013年は、Jリーグで華々しい活躍を見せた。
すると同年7月の東アジアカップで日本代表に初招集。大会では3ゴールを決めて得点王に輝き、山口蛍とともに初優勝の主役となった。
一躍ザックジャパンの1トップ有力候補に名乗りを挙げ、そのまま2014年ワールドカップ出場を果たしている。
町野修斗

→2022年E-1サッカー選手権の初招集から2022年ワールドカップ出場
この大会は本来2021年に中国で開催される予定であったが、新型コロナウィルスの影響により2022年7月に日本で開催されることに。
同年のワールドカップは中東カタールでの冬開催だったため、その半年前に行われるというイレギュラーなものだった。
湘南ベルマーレで活躍しこの大会で初選出された町野は、「直前で呼んでもらえたのでかなりチャンスだと思っている。その中で結果が本当に必要。絶対に決めたい」と意気込んでいた。
その言葉通り、初戦の香港戦で代表初ゴールを含む2得点を叩き込むと、韓国戦でも試合を決めるゴール。大会得点王に輝く活躍で日本の9年ぶりとなる優勝に貢献した。
カタールでのワールドカップは、当初選ばれた中山雄太が怪我のために外れ、町野はその代替として招集されている。