2023年9月に行われたレスリング世界選手権・男子グレコローマンスタイル67kg級3回戦。曽我部京太郎は東京五輪の金メダリストであるイランのモハマド・レザ・アブドルハム・ゲラエイを序盤は圧倒し、追い詰めた。
(文・撮影=布施鋼治、トップ写真=長田洋平/アフロスポーツ)
「ペットボトルの一件は書かないでくれ」
2023年9月23日(現地時間)、セルビアの首都ベオグラードで開催されたレスリング世界選手権男子グレコローマンスタイル67kg級3回戦でモハマド・レザ・アブドルハム・ゲラエイ(イラン)に敗れた曽我部京太郎は13位に終わった。
5位以内に入らないとオリンピックの出場枠には絡めないので、代表争いは振り出しに戻った。曽我部がパリ五輪に出場するためには、4カ月後の天皇杯全日本レスリング選手権で優勝したうえで4月のアジア予選でファイナリストになるか、5月の世界最終予選で3枠に入らないといけない。
ゲラエイ兄が彼の弟と曽我部の試合中にペットボトルを投げ入れた直後には、少々背筋が寒くなる出来事もあった。
なぜ彼らがそういうことを言ってきたのかは容易に想像できた。レスリングは日本ではマイナー競技の域を出ないが、イランでは国技として存在し、人気でもサッカーに次ぐステータスを誇っている。1956年のメルボルン五輪でイラン初のオリンピック金メダリストに輝いたのは男子フリースタイル87kg級のゴラムレザ・タクティーであり、この戴冠をきっかけに彼はイランの当時の大統領が嫉妬したといわれるほどの国民的英雄となったという。
二十数年前、筆者も首都テヘランで開催されたレスリング世界選手権を取材したが、会場は連日超満員で同胞の選手が勝つたびに場内は興奮の坩堝と化していた。
そのほとぼりが冷めたあと、別のイラン人の記者が「先程は申し訳ないことをした。気にしないで」と同胞の蛮行を謝罪してきた。どこの国にも隠蔽しようとする者がいれば、ジャーナリストとして書くべきことは書かないといけないというスタンスを持つ者もいるということか。
イランは、時として政治とスポーツが密接に結びつく国だ。3年前には反政府デモに参加して警備職員を殺めた罪で服役したレスラーのナヴィド・アフカリの死刑が執行された。
「こういうことがまた起きては困る。日本側が何もしないのは…」
その後、悔やんでも悔やみきれない事実も判明した。ゲラエイが大量得点を奪った際、曽我部の足に手がかかっていることが判明したというのだ。
グレコローマンは上半身で勝負を争うスタイル。手が相手の下半身にかかっていると反則となる。そこでゲエライがコーションをとられ減点されていれば、スコアは8-0となり、その時点で曽我部が勝っていたはずだった。残念ながらそのタイミングでセコンドがチャレンジを出さなければ、一度裁定が下された判定が覆ることはない。
グレコローマン競技がすべて終わったあと、ペットボトル投げ入れについて日本グレコチームの笹本睦コーチは「向こうの遅延行為なので、それに対する抗議はUWW(世界レスリング連合)に正式にしています」と打ち明けた。「イランにはなんらかのペナルティが下ると思います。
その努力は実を結ぶ。10月10日、イランで発行される新聞「テヘランタイムス」などがUWWはゲラエイ兄に暫定の活動停止処分を下し、懲戒の手続きに入っていると報じた。
続いて11月18日、UWWはゲラエイ兄に対して1年間の出場停止と1000スイスフラン(約17万円)、イランレスリング協会に5000スイスフラン(約85万円)の処分を科した。同国の協会は暫定処分が下された時点で、UWWを控訴する方針と報じられていた。イランが本当にそうしたかどうかはわからないが、いずれにせよこのペナルティによってゲラエイ兄がパリ五輪に出場する可能性はなくなった。
曽我部京太郎と清岡幸大郎の“心強い”共通点
12月24日、曽我部は天皇杯全日本レスリング選手権決勝の舞台に立っていた。
戦前の予想通りの顔合わせだったが、曽我部は接戦の末に国内最大のライバルを撃破。来年4月、キルギスで開催されるアジア予選への出場権を手にした。
試合後、曽我部は喜びを口にした。
「(遠藤とは)何度も勝って何度も負けて、今回は本当に勝負で、(この優勝をつかむまでに)本当にすごく苦しい思いもしてきたので本当にうれしいです」
すごく苦しい思い──それは遠藤とのライバルレースとともに、昨年の世界選手権での一件を指しているように思えた。
そこで筆者が「もしあのときペットボトルの投げ入れがなければ、自分が勝っていたと思うか」と聞くと、曽我部は「それはもう本当にそのときの状況がそのときなので」と前置きしたうえで、話し始めた。
「いま振り返っても、自分は前に進んでいる。もうそのことは振り返らずに、いまは常にパリのことを考えています」
ペットボトルを投げ入れたゲラエイ兄がUWWから1年間の出場停止処分を受けたことについては?
「ゲラエイ選手の弟と自分の試合に対して失礼(な行為)。自分たちは正々堂々と闘いたかったので、それに関していえば、とても悔しい気持ちがあります」
曽我部はゲラエイ兄弟を別個に考えていた。兄は兄、弟は弟ということだ。なんてスポーツマン精神に則ったマインドなのだろうか。彼がインタビューを受けている最中に男子フリースタイル65kg級の決勝の試合開始を告げるホイッスルが鳴り響いた。赤コーナーからは曽我部と同門の清岡幸大郎が出ていた。
清岡は準決勝で大本命の乙黒拓斗を破ってのファイナル進出。決勝では高校時代に1勝1敗という、かつてのライバルからあっという間に11点を奪い、テクニカルスペリオリティでの勝利を収めた。清岡は試合の前年(2022年)突如降りかかってきた父の死を乗り越えての優勝だった。
曽我部も清岡も大学4年生。パリ五輪のときには社会人1年生になっている。他に2人の共通項を挙げるとするなら、東京五輪の金メダリストを破る、あるいは肉薄する実力をすでに兼ね備えているというところだ。
いつまでも過去の涙にとらわれているわけにはいかない。ぶちまけられた水は何も語ってはくれないのだから。
<了>
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