アルゼンチンの地で、日本人が経営するサッカークラブがあることをご存知の方はいるだろうか?
日本サッカーの発展を標榜して生まれたともいえる「FC無双(MUSOU)」がクラブとして目指すのは、2025年のアルゼンチンリーグ2部昇格。
日本人経営による“街クラブ”が生まれた真相、大資本に頼らず海外でクラブを運営する方法、そしてかかる費用とは?
そこには日本サッカーが世界トップレベルに辿り着くためのヒントが隠されていた。
(文=栗田シメイ、写真提供=FC無双)
アルゼンチン人にとって見慣れぬ“KANJI”が刻印されたクラブ
アルゼンチンリーグに、「FC無双(MUSOU)」の名前が刻まれたのは今年の8月のこと。アルゼンチン人にとって見慣れぬ“KANJI”が刻印されたクラブの正式名称を「無双(MUSOU)Argentina C.F.」という。現在、Liga zaratena(日本の地域リーグ相当)のカテゴリーに属する同クラブの経営者はお察しの通り日本人だ。クラブの買収費用はわずか500万円程度。新クラブの創設にあたり大資本が入ったわけでもない。日本人たちの想いが詰まったアルゼンチンの”街クラブ“である。日本人がアルゼンチンリーグのクラブのオーナーになるというのは、これまでの歴史でも初の試みとなる。
同クラブは最短の2025年にアルゼンチンリーグ2部への昇格を目指し、今年産声をあげた。ブエノスアイレスから55kmほどに位置するヘネラル・ロドリゲスにホームタウンを置き、東京ドーム1個分に相当する敷地を購入し、天然芝2面、人工芝1面のグラウンドを作る計画が進む。来年にはグラウンドが完成し、本格的に日本人主導のもと始動予定だという。現地でプレーすることになる日本人選手は現在セレクション中である。
クラブが標榜するのは、アルゼンチンの育成環境から世界で活躍する日本人を輩出すること。
「リアルサカつく」ともいえる遠大な計画だが、その本気度はクラブに在籍する指導者を見れば一目瞭然だ。育成ディレクターを務めるのは、アレハンドロ・ルッソ氏。ラシン・クラブ(アルゼンチン1部)や、インスティトゥートACコルドバ(同2部)で育成の総責任者を務め、パウロ・ディバラ(ユヴェントス)やラウタロ・マルティネス(インテル)らを育成した名参謀でもある。
育成のサポートメンバーにも、ボカ・ジュニアーズ、リーベル・プレート、サン・ロレンソ、アルヘンティノス・ジュニアーズといった国内屈指の名門クラブの育成責任者が名を連ねている。さらにFCバルセロナやアルゼンチン代表でコーチを務めたラウル・マルコビッチといった欧州での経験を持つコーチも在籍するのだ。
日本サッカー界を次のステージへと導く方法
なぜ、輝かしい実績を持つ指導者たちは日本人が主導したこのクラブを選んだのか。アレハンドロ・ルッソ氏はプロジェクトに参加した理由をこう述べる。
「近年、日本の選手は大きく進化しており、国際的な競争力を持つようになった。今後より競争力を高めるためには、若い選手たちがアルゼンチンのような文化の異なる他国でのプレーを体感することが必要だ。特にストライカーとセンターバックの育成においてはね。本当の意味での世界基準のストライカーを育成することは、日本サッカー界を次のステージへと導くだろう。
クラブの共同代表は3名。その面々は元プロサッカー選手の日本人、日本人開業医、FIFA(国際サッカー連盟)とAFA(アルゼンチンサッカー協会)公認国際プロ監督のライセンスを保有するアルゼンチン人と実にバラエティに富む。アルゼンチンでプロとして活躍し、サンティアゴ・ソラーリ(元レアル・マドリード監督)らとともにプレーした森山潤氏はこのプロジェクトの発起人でもある。引退後、アルセナルFCで日本人として初となるアルゼンチンリーグ1部でのトップチームコーチを経験した森山氏は、現在はサン・ロレンソのアジア圏スカウトディレクターも兼任している。
現在9度目のデフォルト(債務不履行)の危機を迎え、経済崩壊寸前にあるアルゼンチンでは国内の新規スポンサーを見つけることは極めて困難である。必然的に日本から運営資金の援助を受ける必要性が生じるが、地球の真裏にある関係性が希薄な国に対してゼロから出資を求めるというのもハードルが高い。そんな状況にもかかわらず、なぜ膨大な費用を捻出してまでクラブの立ち上げを行うのか。その背景には、アルゼンチンの育成現場を歩いてきた森山氏ならではの感性が関係する。
「日本の育成レベルも年々高くなり、中盤やサイドバックには世界水準の選手が出てくるようになりました。ただ、センターフォワードとセンターバックに関していえば欧州の主要クラブで活躍できるレベルの選手は非常に限定的です。これは日本に限らず世界中でいえることですが、この両ポジションが高いレベルで育つためには環境に左右される面が非常に大きい。レベルが高いセンターフォワードがDFを育て、逆も然り。
そんな森山氏の想いに呼応したのが、アルゼンチンで「JAPAN MEDICAL Dr. Usui」の医院長を務める臼井摂氏だ。臼井氏は5歳でアルゼンチンに移住し、ブエノスアイレス大学の医学部を卒業後、ボカ・ジュニアーズでドクターとして勤務しスポーツドクターとしての下地を育んだ。日本に一時帰国し、鍼灸やカイロプラクティックを学んだあと、スポーツマッサージの資格を取得し、2015年にブエノスアイレスで開院を果たしている。
「移住してからの私の人生は常にサッカーとともにあった。それほどこの国のサッカーに注ぐ情熱に魅せられたんです。個人的な想いとして、日本人がもっとアルゼンチンの公式な舞台でプレーできる環境を作りたいと考えていました。この国で成功を収めた日本人はほとんどおらず、それほどアルゼンチンの文化というのは特殊ともいえます。ただ、その特殊な環境下でこそ本当のトップの選手が生まれてきている。私自身も、そんなトップレベルの日本人の誕生を見たいというのは大きかったです。スペイン語と日本語ができる強み、両国の文化を知っている人間としてさまざまな面でクラブ運営をサポートしていきたいですね」
約1億円あればクラブを立ち上げられる
クラブ設立の初期段階として、資金繰りという問題がのしかかる。では、アルゼンチンという国でクラブ運営に必要な費用はどの程度のものなのか。
森山氏によれば、2面グラウンドの工費が約7000万円。
月々の固定費に関して50万円程度。最も大きい“投資”といえるのが、指導者たちの人件費だ。育成への投資のため、豪華なコーチ陣を招聘していることが同クラブの特徴でもある。アルゼンチンもご多分に漏れず、他の南米クラブと同様に選手の売却益が主な財源となっている。FC無双が異なるのは、アルゼンチン人選手を売却するのではなく、日本からスカウトした有望な才能を育て上げ、他国や国内クラブへの売却を目指していることだろう。
市場価値が決して高いとはいえない日本人を、アルゼンチンという土壌で育て上げ売却するという着想は、いかにもアルゼンチンのトップクラブの育成に明るい森山氏らしい。
「僕の考えでは、日本が世界のトップレベルにいくために足りないのは、あとほんのわずかなもの。その“わずか”を補える環境を作りたいんです。もう一つ、世界基準のコーチングを、日本の指導者にも気軽に体感できる場を提供したかった。ウチのクラブで学んだ指導者が、日本のJリーグやクラブチーム、学校で自身の経験を還元してもらうことで、国産の良いDFやFWを生み出す一つのキッカケになればこれ以上うれしいことはないです」
ストライカー大国アルゼンチンに根づく等身大“街クラブ”の挑戦
多くのフットボールファンにとって既知の事実のため詳細は省くが、アルゼンチンという国では途切れることがなく有望な点取り屋を欧州へと輸出してきた歴史がある。
「近年のアルゼンチンでは、MFに関してはFWやDFのように世界最高レベルの選手が出ていないのも事実です。その理由の一つは、育成年代でのゲームシステムにあります。現在は4-3-3、4-2-1-3といった3ボランチ(中盤の中央に3人)を使うクラブが減り、4-4-2のシステムを使うクラブが増えている。このシステムでは、中央に配置された2人のボランチはとても静的です。彼らはDF4人の前に位置し、攻撃時にはまずサイドに配置した2人のプレーヤーを利用するため、攻撃時に動きが少なく、マークを外す動きも限定的。前向きにボールを受ける絶対数も少ない。その一方で、FWや攻撃的なポジションでは個々に局面打開力が求められ、相対するDFの相対的なレベルも上がっていく。これらの育成理論は守備、攻撃において非常に優れたストライカーを世界中に輩出している理由の一つであり、伝統的にアルゼンチンの強みでもあるんだ」
ビバス氏が述べる、競争力とこの国の伝統的な環境が突出したストライカーの育成へと紐づいている。
FC無双は現在リーグ戦で首位に勝ち点差なしの2位につけており、昇格も現実的なラインへと迫ってきた。プロリーグとして認知される3部リーグへの参戦は、スムーズにいっても2023年までの年月を要する。それまでの4年間はクラブの土壌を形成する試運転期間と位置づけ、地域と協力し育成のための試行錯誤を重ねていく。
試合を終えたある日、ホームタウンのサポーターたちからはこんな声を受けたという。「日本人なのにトヨタやホンダといった大きな企業と関係がない、俺たちに寄り添ったクラブだよ」。巨額のジャパンマネーが投入されていない、アルゼンチンに根づく等身大の街クラブの挑戦は始まったばかりだ。