当時たしか28歳、僕は中国の北京に一人旅をした。何故、中国の北京だったのか、それは幼き頃に家族で行った中華屋さんの壁に貼ってあった万里の長城に憧れていたからだ。
行きの飛行機の搭乗口で、僕の前に親子が並んでいた。僕はその母親に少しの間、荷物と5歳の娘を見てて欲しいと頼まれ、言われるがまま母親が添乗員と話終わるまでその子と待った。日本語と中国語がペラペラなのがびっくり。そして偶然なのか飛行機の席が隣で、その子のお人形遊びにも付き合うことに。
母親はそんな僕を気に入ってくれたのか、親戚の女性を紹介したいと言うので携帯番号を教えた。そして北京の空港でお別れ。いきなりドキドキな展開に僕は少し浮き足立っていたが、暫くしてどこかで携帯電話を失くしたことに気が付いて、膝から崩れ落ちた。
北京の空港から電車で市内へ。驚いたのは中国人はみんな異常に急いでいること。電車では日本のように降りる人を待つなんてしない。乗る人は降りる人をお構いなしに我先にと乗り込む。道路の歩行者用の信号は、誰も見ないただの飾りだった。
胡同という昔ながらの路地を歩き、予約した四合院ホテルに到着。四合院は中庭を囲むように四つの辺に建物がある平屋の伝統様式の建物で、今はホテルとして活用されている。どうにか片言の英語と手振りで部屋に案内してもらう。狭いけど伝統的な模様のベットカバーや壁紙で、汚い感じもなく雰囲気のある良い部屋だ。熱いシャワーも出たが、浴槽がないため、シャワーを出すと横にある便器がびしょ濡れになるのが笑えた。
翌日は紫禁城こと故宮博物院を練り歩き、ラストエンペラーという映画のワンシーンを思い出した。毛沢東の顔がよく見える天安門広場は沢山の人でごった返していた。ここで昔起きた大変な事件にも思いを馳せる。ホテルに戻り、受付で万里の長城のツアーに申し込む事ができた。
翌朝5時にホテルの前で待っていると、黄色いコートの小柄なお姉さんが走ってきた。
だんだんと古い田舎の景色になり、同じ田舎でも印象が日本と全然違うのが新鮮だった。八達嶺という目的地にはすぐに着いた。そしてついに、かつて中華屋さんで見たあの万里の長城を歩くことができた。通行止めで歩ける距離はさほど長くないけど、景色は抜群によく、何よりその歴史が足から全身に駆け巡った気がした。
長城の麓でガイドのお姉さんと欧米の女子3人組がなにやら揉めている。なんとなく察するに、ガイドさんに勧められたお茶屋さんで、欧米の女子3人組が高額料金を払わされたらしい。ガイドさんは本当に悪気はないらしく、女子3人に詰められて泣いてしまっていた。
その後のツアーは、有名な地下墓地に行ったり、ご飯を食べたり、工場兼お土産屋さんに行った。
ホテルに戻り、こんなモヤモヤする日は飲みに行こうと夜の街に出る。下調べもなしで北京の飲み屋街を歩いて、客引きに導かれるまま繁盛している店に入った。ただ、なぜか店の奥のカラオケルームのような個室に通された。すると、綺麗なお姉さんが現れて僕の横に座るではないか。変な汗が出てきた。2、3秒の間フリーズしたかもしれない。ここはキャバクラだったのかな。
僕は美人なお姉さんに乗せられて、お酒がどんどんと進み、いつの間にかいい気分になっていた。頼んでもいない料理が運ばれて来るのはどうして。いつの間にかお姉さんが2人もいるのはなぜ。テーブルの沢山のグラスと料理を眺める。
僕は逃げるようにお会計を頼んでレジへ向った。まさかと思ったが、なんとその金額、日本円で約18万円!そして横には大柄の怖いお兄さんが現れる。震える手でクレジットカードで払い、マイナス8度の夜、異国の地で途方に暮れた。
最後の日は、天壇公園で昔の人に倣って、もう二度と昨日のような事は起こりませんようにと祈願した。最後に日本から予約していた中国雑技団を観劇して、この旅は大団円だ。さようなら中国北京。最低で最高な思い出。
■原題:最低で最高な中国旅
■執筆者プロフィール:松井 潤平(まつい じゅんぺい)システムエンジニア
1979年静岡県生まれ。父の仕事の都合で埼玉県に移住し、同県の小中高を卒業。東京の専
門学校を卒業の後に就職。趣味の一人旅で中国北京へ。
※本文は、第7回忘れられない中国滞在エピソード「中国で人生初のご近所付合い」(段躍中編、日本僑報社、2024年)より転載したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。











