スティーヴィー・ワンダーは、亡き英雄を称えた国民の祝日の制定を長年に渡り主張してきた。米国議会もついに法案を可決し、1986年、ワンダーは記念日を祝うオールスター・コンサートを主催した。


1986年1月20日夜、テレビ史上稀に見るスペシャル番組が放映された。バンドを率いたボブ・ディランはR&B調の『アイ・シャル・ビー・リリースト』で軽やかに滑り出す。さらにディランはピーター・ポール&マリーを迎え、4人で初めて『風に吹かれて』を歌った。アシュフォード&シンプソンに加わったホイットニー・ヒューストンは、『Aint No Mountain High Enough』をエネルギッシュに歌い上げ、ステージ上で躍動した。

パワフルなオールスターに囲まれていたとはいえ、この夜の主役はスティーヴィー・ワンダーだった。『An All-Star Celebration Honoring Martin Luther King Jr.』とタイトルが付けられた2時間のテレビ放送のフィナーレでワンダーは、ダイアナ・ロス、エリザベス・テーラー、クインシー・ジョーンズ、エディ・マーフィー、グレゴリー・ハインズらと一緒に『ハッピー・バースデイ』を歌った。ワンダーがキングに捧げた歓喜の曲だ。曲に先立ちワンダーは、ワシントンDCのケネディ・センターに集まった観衆に向かい、各座席の下に備え付けられたペンライトを掲げるように言った。観衆がグリーンのライトを光らせるとワンダーは「素晴らしい景色だ」とおどけてみせた。この夜はまた、重要な意味も持っていた。10年近くに渡り、彼の英雄の誕生日を国民の祝日にするよう訴えてきたワンダーの、勝利のクライマックスだった。

ワンダーとキング牧師との関係は深く、意味深いものだった。
1968年、キング牧師暗殺のニュースを聞いたワンダーは泣き崩れ、その後葬儀にも参列した。1977年、ワンダーは『ハッピー・バースデイ』の基となる曲を書いている。その後1980年、ノリの良いシンセビートに乗ったバージョンが、アルバム『ホッター・ザン・ジュライ』に収録された。ワンダーは「全く理屈に合わない/反対の声を上げる者を取り締まる法があるべきだ/あなたを祝福すべき日に」と歌った。

『ハッピー・バースデイ』は、シングル曲として全米チャートのトップ10に入ることはなかった。しかしその後何年にも渡り、ワンダーのコンサート中の感動的なハイライトとして歌われた。1981年1月、ワンダーは、ワシントンDCのナショナル・モールで行われたキング牧師の誕生日をアピールする集会に参加した。「アーティストのスティーヴィー・ワンダーとしてここにいるのではない。スティーヴランド・モリスという米国の1市民として、ひとりの人間として参加している」と、どんよりと曇った冬の空の下に集まった数万人に向かって語りかけたワンダーは、詩人でミュージシャンのギル・スコット=ヘロンと共に『ハッピー・ハースデイ』を歌い始めた。

ワンダーは自分の目指す目標に対して、現実的な意見を持っていた。「今年祝日の制定が実現しなければ、達成するまで来年も再来年もずっと続けていかなければならない」と、集会に先立って行われた記者会見で彼は語っている。事実、キング牧師の誕生日である1月15日を国民の祝日にしようとする活動は、果てしない道のりとなった。
キング牧師の友人でもあったミシガン州選出のジョン・コニャーズ下院議員は、キング牧師の死の数日後、誕生日を祝日にする法案を初めて議会へ提出した。しかし、ジミー・カーターが大統領職を退く直前に法案を支持したものの、その後何年間も議会の賛同を得られなかった。

1981年、ニューヨーク州、オハイオ州、フロリダ州、ケンタッキー州を含む12の州がキング牧師の誕生日を州の祝日とした。しかし共和党は依然として強固に反対し、共和党上院議員のジョン・マケイン、オリン・ハッチ、チャック・グラスリーは皆、反対票を投じた。さらにノースカロライナ州選出の強硬派として知られるジェシー・ヘルムズ上院議員は、「キング牧師は米国に対する敵対心や憎悪を具現化した」と主張して1983年の議事進行を妨害した。そのほかレーガン大統領は、祝日の導入により1億8500万ドル(約202億4400万円)の賃金が失われる、と主張。またコニャーズ議員は「祝日1日分のコストを本気で測ろうとしているなんて、キング牧師の価値を理解していない」と反論した。

1983年、議会で祝日制定の必要性を訴えたワンダーは、さらに声を強めた。同年秋にニューヨークで行ったコンサートで彼は、祝日制定に反対する人々を非難し、「1月15日を祝おう。皆で盛り上がろう」と呼びかけた。同年11月、ついに法案が上下両院を通過し、レーガン大統領が法案に署名。1986年1月、初めて公式にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの日が祝われた。


An All-Star Celebrationコンサートは、アフリカ系アメリカ人を記念する初の国民の祝日という重大な日に行われた。ワンダーをはじめ、彼に関連する組織のワンダー・プロダクションズとワンダー・ファウンデーションがスペシャル番組を仕切ったが、結局膨大なタスクになった。同日夜、キング牧師を称えるコンサートがワシントン、ニューヨーク、アトランタの3か所で同時に行われたが、最後のコンサートが終了したのは午後8時。テレビのスペシャル番組の放映がスタートする午後9時に間に合わせるため、プロデューサーのマーティ・パセッタと各地の500人のクルーたちは、驚くべき早技で編集作業を行った。まだデジタル化される前の話だ。しかしワンダーにとって、ストレスのかかる仕事もやりがいのあるものだった。「僕には、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日を国民の祝日にしたいというビジョンがあった」とワンダーは後に、ローリングストーン誌に語っている。「夢に見てイメージした。そして想像し、見て、信じたことを書いた。実現するまでは自分の心の中にしまっておいたのさ。」
編集部おすすめ