ポップ・バンド、ザ・モンキーズのベース/ヴォーカル担当のピーター・トークが逝去した。77歳だった。


60年代にテレビ番組で生まれた当初から近年の再結成ツアーまでザ・モンキーズでベース/ヴォーカルを担当していたピーター・トークが、現地時間21日に亡くなった。死因は明らかにされていない。77歳だった。この親しみやすいミュージシャンの死をワシントン・ポストがトークの姉アン・ソーケルソンに確認した。

ザ・モンキーズのメンバー、マイク・ネスミスは「安らかな最後だったと聞いている。しかしながら私はこれを涙に暮れながら書いており胸が張り裂けるような思いだ。私はみんなで続けるということにこだわっているがメンバーの死に対する悲しみは決して癒えない」とコメントしている。トークは『ザ・モンキーズ・ショー』では愛すべきおバカを演じていたが実生活ではすばらしいソングライター、ギタリスト、ベーシストであり「キャン・ユー・ディグ・イット?」や「ピートのために」を含め、バンドに多数の曲を書き、主要な音源の多くで演奏している。「私はTV番組の俳優として雇われたんだ。4人が決まった時にこの4人で何か音楽的なことができないかという期待がプロデューサーたちの中にあったようだけど、もし音楽ができなかったとしてもただ番組さえ作れたらそれはそれでよかったみたいだね」と彼は2016年にローリングストーン誌に語っている。

しかし実際にはそうではなかった。ザ・モンキーズは本人たちは演奏はしていなかったと根強く信じられているが、実際にはザ・モンキーズの音楽監督ドン・カーシュナーが全てをスタジオミュージシャンに任せようとしていたにも関わらず「パパ・ジーンズ・ブルース」や「スイート・ヤング・シング」を含む初期の音源もトークがギターとベースを弾いた。
「カーシュナーの選曲力に異論を持ったことはないよ。ヒットの選び方を彼が知っていたのは明らかだったからね。私はとにかく自分でレコーディングしたかったんだ。自分で自身のアルバムのサイドマンになりたかったんだ」と彼は2012年にローリングストーン誌に語った。

トークはコネチカットで育ち、60年代初期のグリニッチ・ヴィレッジのフォーク・シーンを通った。そこでスティーヴン・スティルスに出会い、2人がロサンゼルスに移住してからスティルスがトークにビートルズのようなバンドをキャスティングするTV番組の話をした。「スティーヴンが私に『みんな俺のことは好きだけど俺の髪と歯がテレビ向きじゃないって思っている』って言ったのを覚えているよ。私は『はいはい、ありがとう、スティーヴン』といってオーディションに行くつもりもなく電話を切ったんだ。そしたら彼がまた電話をかけてきて『違う、君はこれをやるべきだ』って言ったんだ。スティーヴンがいなければ絶対に行ってなかったよ」とトークは2011年にローリングストーン誌に語った。

彼はミッキー・ドレンツ、マイク・ネスミス、デイビー・ジョーンズと共に番組のキャストとなった。1966年9月に放送が開始された瞬間から『ザ・モンキーズ・ショー』はビッグヒットとなり「恋の終列車」や「アイム・ア・ビリーバー」などの初期のシングルがチャート上位にランクする後押しとなった。
ほぼ一夜にしてトークとメンバーは熱狂的なファンに追われる超人気有名人になったのだ。

「一度クリーブランドでボディーガードからはぐれ、自分たちがこれから行うライブに来るお客さんでいっぱいの駅だったかバスか何かのターミナルだったかに迷い込んでしまったんだ。みんながデイビーに気づいて追いかけっこが始まった。まるでうさぎのようにパニック状態で逃げ回ったよ。私達はパトカーを見つけて飛び乗った。ライブ衣装を着たまま後部座席にぎゅうぎゅう詰めになってドアを閉めるとファンの腕がツナミのごとくパトカーの窓を覆っていたよ」とネスミスは2012年にローリングストーン誌に語った。

彼らがその音楽にほとんど口を出すことのなかった2枚アルバムの後、トークたちはバンド主導で『ヘッドクォーターズ』を制作した。1週間で『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』にその座を奪われてしまうこととなったがそのアルバムは1967年5月、ビルボード・チャートで1位を獲得した。当時はサマー・オブ・ラブ(ヒッピー・ムーブメント)のピークであり、堅物な他のメンバーとは違ってトークはその時代の騒乱を楽しんでいた。ローレルキャニオンの北側に位置するスタジオシティにある彼の豪邸はジミ・ヘンドリックスやデイヴィッド・クロスビー、キャス・エリオット、ジュディ・コリンズのようなアーティストの溜まり場となっていた。

バンドがテレビから始まったことや若いキッズをターゲットとしていたことから、上記の仲のいいアーティストとは違いトークがロック批評家からまともに相手にされることはなかった。トークは1968年の彼らのサイケデリック映画『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!』のリリース直後に疲れ果てたと言ってバンドを脱退した。
重大な経済的な問題や限られた選択肢しかないキャリアに直面した彼の人生における荒れた時代の始まりであった。彼は1972年大麻所持で逮捕され4ヶ月の刑期を務めた。しかし彼は立ち直り4年後にカリフォルニア州サンタモニカのパシフィックヒルズ高校の教師となった。

MTVが1986年に『ザ・モンキーズ・ショー』を再放送したことがきっかけでバンドは(ネスミスは除く)相当な売上を見込んだ再結成ツアーを行うこととなった。トークは2001年に突然ツアーから姿を消すまで彼らと昔の曲を演奏するツアーを続けた。「正直に言うと私は自分を見失っていてツアーの終わり頃に逃げてしまった。メンバーたちを本気で怒らせてしまったんだ。完全に私の過ちだ。自分をコントロールできていなかったんだ。だから彼らに謝罪した」とトークは2011年にローリングストーン誌に語った。

2000年代になってからトークはサイドプロジェクトのシュー・スエード・ブルースでのライブに力を入れている。彼は2009年に希少な舌癌である腺様嚢胞癌と診断されたが完全に回復し2011年にザ・モンキーズは和解して10年ぶりのツアーに出た。
翌年、ジョーンズが心臓発作により亡くなったがツアーを続けられるようにネスミスがバンドに戻った。2016年に50周年記念アルバム『グッド・タイムズ!』、そして去年には彼らにとって初となるクリスマス・アルバムをリリースした。トークの曲はその中で1曲しかなく、健康状態が良くないのではないかという噂が飛び交っていた。

「今、健康にもう少し注意を払わなければいけない状況であるということは事実だけど調子はすごくいい。それに今、家族と友人との時間、そして音楽を作る時間を満喫しているよ。友人や他のミュージシャンたちとのオンラインライブをやるかもしれないから楽しみにしておいてほしい。何か発表するかもしれないから。とにかくみんなの幸運を祈る言葉に感謝しているよ。今はプライベートな時間だから情報の更新はもうしないつもりだ。」とトークは10月にFacebookに投稿していた。

「私にできることは彼の曲が私たちを幸せにしてくれるよう、私たちの少年時代、ザ・モンキーズという特別なきらめきが永遠に生き続けるように祈ることだけだ。戦友を失って悲しいよ。飛び立て、兄弟」とネスミスは語った。
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