毎年6月は、LGBTQをセレブレイトするプライド月間だ。クイーン、マドンナ、シルヴェスターからエルトン・ジョンまで、1970年代から現代まで、米ローリングストーン編集部が選ぶLGBQTを讃える刺激的かつ革新的な楽曲の数々をピックアップ。


LGBTQセンシビリティを意識したことがあるだろうか?40年前、性別や性に関するアイデンティティに対し、ここまで多くの言葉が存在しただろうか?もっとシンプルに言おう、過去から現在まで、クィアのセックスやドラマ、心の痛み、苦しみ、解放、そして衝撃を奮い立たせるのにベストな楽曲は、どの曲だろうか?ここに挙げた楽曲はすべてを網羅している(或いは、ランキングしている)わけではないが、ポスト・ストーンウォール・ディスコの世代から、今日のジェンダークィア・ミレニアル・ロックまでを橋がけするラインナップだ。往年の名曲と言われる楽曲がリストに入っている一方で、含まれていないものもある— —グロリア・ゲイナー、カイリー・ミノーグ、ル・ポール、ブリトニー、シェールに対しては申し訳ない気持ちがあるが、我々はあなたたちを尊敬している— —ここに、1970年代から現在までの、LGBTQを誇る26曲を紹介しよう。

ドナ・サマー「アイ・フィール・ラヴ」(1977)

シンセ音が印象的なこの楽曲は、現在のEDMの手を借りずに生まれた楽曲。1977年、オーケストラとヴォーカルをフィーチャーしたディスコ・サウンドの中間を絶妙に行き交うこの楽曲は、まるで遠くのセクシーな惑星から送られてきたようなトラックだ。さらにドナ・サマーとジョルジオ・モロダー、そしてピート・ベロッテによる画期的なコラボレーションは、新たな音の言語、奇妙で怖いほどのエロティックな欲求に対するエクスタシー、満足感、そしてモダンダンスフロアの気高さを併せ持っている:これ以上のクィアがあるだろうか?ディスコの女神であるサマーは当初、説得が必要だったと言う。「ジョルジオがこの、ポップコーンみたいなトラックを私の元へ持ってきたのよ。レコーディングした、とか言って」と、のちに彼女は振り返る。「その時、私はこう言ったの。”ジョルジオ、これは何なの?!”ってね」

ヴィレッジ・ピープル「Y.M.C.A.」(1978)

ヴィレッジ・ピープルは奇抜なグループでも、一発屋でもない。フランス人のジャック・モラリによって「強く、ポジティブな、アメリカ人のステレオタイプを体現したような」グループとして集められたと、グレン・ヒューズ(バイカー)が1979年4月、ローリングストーン誌の巻頭特集で明かした。彼は「”アメリカ人”と言う神話に、限りなく沿った」とも語っている。結成当初、6人はゲイクラブでキャリアをスタートさせたが、一連のヒットを受けて、全米ツアーやTV出演を果たし、ディスコでもお馴染みの顔となった。
全世界で1000万枚以上売り上げたこの楽曲は彼らをスターダムにのし上げ、楽曲の内容は暗に男性同士の関係を示唆しているものであるにもかかわらず、今現在も結婚式や成人式の定番曲となっている。先に挙げたローリングストーン誌の巻頭特集では、何人かのメンバーは自身のセクシャリティに関して語るにあたって、消極的であった(1979年のことだから、当然だろう)。しかしデイヴィッド・ホードー(道路工事人)は「Y.M.C.A.」について「俺たちは社会に対して舌を突き出しているみたいなものなんだよ」と語っていた。

シルヴェスター「ユー・メイク・ミー・フィール」(1978)

プリンスに対して大きな敬意を払ってはいるが、シルヴェスターは近年ポップミュージック界において、最も汚れなく、卓越したファルセットを持つシンガーと言って良いだろう。 ジュディス・バトラーが活躍する以前にジェンダーフルイド、ノンバイナリージェンダー、そしてゲイであることにも オープンだったシンガー(パフォーマンスにおいても、プライベートな生活においても)は、控えめに表現しても「ディスコの女王」である。自身のゴスペルのルーツが、シルヴェスターを駆り立てて曲を書かせ、並外れた歓喜の歌を作ることに繋がったのだ 。実直で、AIDS患者やその病気に対して、認知度向上や患者の支持など様々な活動のため資金を募っていた彼は1988年、44歳と言う若さで、AIDSの合併症でこの世を去った。それから30年を過ぎた今でも、彼の楽曲は私たちを踊らせてくれる— —少しの涙とともに。

クイーン「ドント・ストップ・ミー・ナウ」(1978)

クイーンのファンの大部分はフロントマンのフレディ・マーキュリーがステージ上の存在感がいかに堂々としていてオープンであったとしても、その事実に対して無知であったようだ。彼のフレディは隠そうとしなかったのに。1978年にアルバム『ジャズ』をリリースしたクイーンはまさに過渡期であり、小さなクラブからスタジアムへのし上がり、世に出すすべてのシングルがチャートの上位へと羽ばたいていった。「ドント・ストップ・ミー・ナウ」は『ジャズ』のリードシングルであり、バンドの象徴とも言える多重録音のハーモニーを採用した楽曲ではあるが、アメリカでは最高位86位と、予想していたほど奮わなかった。
しかしイギリスではトップ10にランクインを果たす。「だからみんなは僕をMr.ファーレンハイトと呼ぶんだ/光の速さで旅をする/君を超音速の男にしてあげたいな」という歌詞にもあるように、少年たちが自らを曝け出す準備が整ったことを匂わせる内容になっている。

ダイアナ・ロス「アイム・カミング・アウト」(1980)

多くのダンスフロア・レコードがそうであるように、1980年にリリースされた「アイム・カミング・アウト」は、ダイアナ・ロス本人がナイル・ロジャースと、シックの中心メンバーであるバーナード・エドワーズが、プロデュースを依頼した。ロジャースはのちにMail on Sunday紙に対して、この曲を書いた理由を「彼女が同性愛者を支持したいと言っていたから」と明かした。しかしこの時、ロスに小さな嘘をついたと言う。「DJが彼女に、”(この曲は)彼女のキャリアを台無しにするだろう”と伝えたそうなんだ——人々は、彼女が同性愛者だと思うだろうから、とね」と、ロジャースは語る。そして「その時、初めてアーティストに嘘をついた。”君は、何を言ってるんだ?そんなクレイジーなこと、人生で初めて聞いたよ!”と返したんだ 」と、当時を振り返った。そして元ザ・スプリームスの彼女は今、自身のショウを行う際、生き生きとした力強いトラックとともに幕を開ける——そしてこの曲はザ・ノトーリアス・B.I.G.とパフ・ダディ(訳注:現ショーン・コムズ)による、ヒップホップシーンにおける往年の名曲「モー・マネー・モー・プロブレムス」のサンプリング楽曲として、新たな人生を歩んでいる。

エルトン・ジョン「エルトンズ・ソング」

エルトンが自身のキャリアの中で不器用であり、最も暗く、混乱していた1981年にリリースされた『ザ・フォックス』。そこから見落とされていたのが、この「エルトンズ・ソング」だ。この曲は、同性愛者として成長していく様を表したピアノバラードになっている。
歌詞は「グラッド・トゥ・ビー・ゲイ」でその名を世に知らしめたイギリスのパンクロッカー、トム・ロビンソンによって制作された。一番の聴きどころはクライマックス、エルトンが「僕の人生をあげるよ/君の隣に一晩いるために」と歌い上げるパートだろう。おそらく彼は、自身の高ぶる感情に恐ろしさを感じていたのかもしれない——それは彼が、すべてを世に明かそうとする、数年前の出来事だった。

ウェザー・ガールズ「ハレルヤ・ハリケーン」

この素晴らしい、泡立つような、体の疼く夢のようなダンスソングには、驚くべき2つの事実がある。デヴィッド・レターマンの右腕であるポール・シェイファーが(ポール・ジャバラと)制作した作品であり、ドナ・サマーがこの曲以外に、レコーディングを拒んだ作品はなかった。「彼女は歌詞を嫌っていました。なぜならドナは、再びクリスチャンとして生まれ変わっていたからです。彼女は、罰当たりな内容だと感じたようです」と、シェイファーがヴァニティ・フェア誌に明かしている。しかし問題は無かった。トゥ・トンズ・オブ・ファン=ウェザー・ガールズとして再洗礼された彼女たち(数十年に渡ってスタジオ・シンガーとして大活躍したマーサ・ウォッシュもメンバーだ)が立ち代わり、セクシーな潤いに餓えた人間たちが乾期を吹き飛ばす様子をアピールして、大ヒットを飛ばしたからだ。ハレルヤ!

イレイジャー「ア・リトル・リスペクト」(1988)

イレイジャーの作品の多くはゲイ・ブライドを讃える内容を描いているわけではないが、ゲイ・ロマンティックの真実を追求している——セクシー過ぎることはなく、感情に対して率直であり、20世紀の終わりに向かって同性愛者の男性がどのような人生を送っているか、を表現しているのだ。アンディ・ベルとヴィンス・クラークによるデュオが、物憂げでありながらも軽快なシングルを世に送り出し、それが同性愛者に対する偏見が多かった時代の1988年に世界的なヒットを飛ばした際には、多くの人々がその事実を革命的だと感じただろう。
アイオワに住むストレートのティーンエイジャーは、周りに言えないボーイフレンドがいる、繊細でボロボロの男性の祈りを歌ったような内容の「ボーダーライン」に合わせて、プロムで踊っていたことに気づくだろうか?同性愛者であるティーンやトウィーン(訳注:8-12歳の子ども)は、ほとんどそのことを隠すのだ。「もし音楽をやっていたら、それを何かに役立てるべきだし、本質を持つべきだと思う」と、ベルはセブンティーン誌に語っていた。「同性愛者であり、それをオープンにしておくことが、僕の本質なんだ」

マドンナ「ヴォーグ」(1990)

たった5000ドルという少額予算と共に、マドンナと彼女が頼りにしているリミキサー、シェップ・ペティボーンはこの曲のレコーディングに向かった(最初この曲は、ほかのシングルのBサイドトラックになるはずだった)。マンハッタンの地下室にあるスタジオで収録されたこの曲には、即興で映画スターを並べたラップが組み込まれた。「彼女はいつだって、ファーストテイクで終えてしまう実力の持ち主なんだ」と、ペティボーンは2015年、米ビルボードに語った。結果として、「ヴォーグ」はポップシーンの女王の象徴となる楽曲にまで発展しただけでなく、古い体制のハリウッドと80年代後半のクラブシーン、そしてハーレム・ドラッグ・ボールの橋渡し役を務め、さらにそれらの魅惑、(イメージの)破壊、インスピレーションとAIDS大流行の時代に自身を守ることの大切さなどを定義づけた(そしてあのビデオ!男性陣と、ダンスも素晴らしい!)。この曲がきっかけとなって、マドンナはその後、「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」でLGBTカルチャーにその身を投じ、自身の写真集『SEX』とアルバム『エロティカ』でその要素をさらに拡大していった。ソウルは音楽の中に。

ジョージ・マイケル「フリーダム!90」(1990)

ここからジョージ・マイケルがカミングアウトをするまで 8年余の歳月が必要だったが、才能に恵まれ、ソウルフルでカリスマティックなワム!の元フロントマンは長いこと、白人のセックス・シンボルとして扱われ、世界中のLGBTQの人々からはロール・モデルとして、そして流行の火付け役として認知されていた。「僕は自身の仕事をする中で、自分のセクシャリティを定義づけることに対して、寛大ではなかった。僕は自分の人生を書いているわけだから」と、1998年、カミングアウトしたCNNのインタビューで語っている。その後彼の作品は、自身のセクシャリティや恋愛関係と密接に結びついていった(パートナーをAIDSで亡くしたことも含めて)のち、1990年に発表した不滅の名曲は、まだ大声を出して叫ぶことができなかった内容を変革的な、斬新な正直さを以って表していた:それは「あなたは知るべきことがある/それを明かすべき時が来た/それは僕の奥深くにあるんだ/僕のあるべき姿が」と言う歌詞にも見て取れるだろう。
しかしこの曲のミュージックビデオは——ハンサムなスターの姿がなく、スーパーモデルたちがリップシンクをし、彼が『フェイス』時代に着ていた安っぽいレザー・ジャケットが映り込む——あまり釣り合っていないかもしれない。

ディー・ライト「グルーヴ・イズ・イン・ザ・ハート」

巧みにファンキーなサンプルを重ねた、サイケデリックで奔放なトリオのディー・ライトは——ドラァグ文化にインスパイアされたレディ・ミス・キアーがフロントを務める——鮮烈なクィア・クラブ・キッズのエネルギーを世に送り出し、同時に熱の籠ったトラックとビデオで、多くの人々に独特の美学を見せつけた。今日でもこの曲は、盛り上がりたくてたまらない人々を誘う、魅惑の入り口的な役割を果たしている。

パンジー・ディヴィジョン「アンセム」(1993)

ベイエリア出身のゲイ・パンクのパイオニアであるパンジー・ディヴィジョンは、グリーン・デイが1994年、アルバム『ドゥーキー』を提げたツアーを行った際に帯同し、メインストリームへヒントを得た。セクシーな内容の歌詞と、世間の目を気にしないスタンスが、それらがファッショナブルであるという認識ができる前に、クィア・キッズの世代に慕われたのである。彼らの楽曲の中から、代表曲を選ぶのは難しい——「ディック・オブ・デス」、「グルーヴィ・アンダーウェア」、もしくはプリンスのカバーソングである「ジャック・ユー・オフ」か——迷うところだが、我々は、ゲイ「アンセム」という考えには反するような1曲を選んだ。「俺たちが持っていることの1つは、ゲイでいることを歌うことだ。俺たちはただゲイのミュージシャン、ってだけじゃない」と、ジョン・ギノーリは昨年、最新アルバムとなる『クアイト・コントラリー』をリリースした際、ローリングストーン誌に語った。「俺たちは自分たちの曲の一部として、ゲイであることを歌っているんだ。思うに、時が経つに連れて、リリースした当初よりも具体的にゲイを示唆する内容ではなくなって来ているんじゃないかな。なぜなら、あの頃は俺たちが本当に歌いたいと思ったり、ユニークなことを歌うチャンスがあった時だったからね」

メリッサ・エスリッジ「カム・トゥ・マイ・ウィンドウ」(1993)

自身をスターダムにのし上げたアルバム『イエス・アイ・アム』に収録されたこのヒットソングを書いた時、エスリッジはツアー中に孤独を感じており、いなくなってしまった恋人に思いを馳せていた。彼女のカウガール・ブルースがグラミー賞の最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を勝ち取ったというだけでなく、ゲイ・コミュニティを支援する楽曲内容であったことを、彼女はあまり知らなかった。
「アルバムがヒットするのと同時に、私はカミングアウトをしたの」と、彼女は2009年、エンターテインメント・ウィークリー誌に明かした。「ゲイ・コミュニティは私を勇気付けてくれて、サポートしてくれた。この曲のブリッジ(「彼らがどう考えようと気にしない/彼らが何を言おうと気にしない/彼らがこの愛について何を知っているの?」)が、アンセムにまでなったのよ。それは私が今まで歌に込めて来たあらゆるメッセージを迂回して、大衆の意識の一部になっていった。今でもこの曲をライヴでパフォーマンスをする時は、とても大事な瞬間なの」

ピーチズ「ファック・ザ・ペイン・アウェイ」(2000)

カナダのダーティな性の賢者からの、良きアドバイスだ。ローランドMC-505の助けを借りて、バイセクシャルであり、演劇教師からラッパーに転身した彼女は、2000年にリリースした『ティーチズ・オブ・ピーチズ』で、この上なくえげつないディスコ・ミュージックを確立したのである。「ファック・ザ・ペイン・アウェイ」はとてもチャートに入れられるような曲ではないが、『サウスパーク』から『30 ROCK/サーティー・ロック』といったTV番組から『ロスト・イン・トランスレーション』まで、一度耳に入れば離れない、嘘だらけの歌詞がしっかりと世の中に浸透している:「私を求めたら良い/ブロンディのようにね/ クリッシーもチェックして/いつだっていいから」。この曲はマドンナがジムでワークアウトをする際のお気に入りの楽曲として挙げており、ロンドンで踏んだ舞台『アップ・フォー・グラブズ』でもこの曲を使用した。2003年にガーディアン紙がピーチズに行ったインタビューによると、彼女は感謝の証として、マドンナとガイ・リッチーにサイン入りパンティーを送ったと言う。「下着にサインをしたんだよね」と振り返る彼女によると、「”親愛なるガイへ。ファックは後で。愛を込めて、ピーチズ”っていうのと、マドンナには”親愛なるマドンナへ。今すぐファックしましょう。愛を込めて、ピーチズ”って書いたよ。クールでしょ」とのこと。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ「ウィッグ・イン・ア・ボックス」(2001)

もしこのリストにミュージカルの楽曲も入れるとするなら、『ヘドウィグ』のオリジナル曲を選ぼう。ベルリン出身のトランスジェンダーであるロックシンガーに焦点を当てたこの作品は、ブロードウェイ・ミュージカルにおいてアイコニックな存在であり、映画作品としても名高い。主演のミッチェルは、ニューヨークのドラァグ・クラブであるSqueezeBox!で、ヘドウィグとして知られるキャラクターを生み出した。ハウスバンドのリーダーであり、ヘドウィグの楽曲製作者であるステファン・トラスクの助けを借りて、ミッチェルは1994年、SqueezeBox!でヘドウィグをデビューさせる決意がついた。彼の最初のウィッグはペーパータオルと接着剤、ホチキスによって支えられていた。「ドラァグもやったことがなかったし、ロックバンドと歌ったことも無かったんだ」と、ミッチェルはローリングストーン誌に語った。「まるで洗礼を受けているようだったよ。僕がやっていたことは、すべてヘドウィグのサポートのためだった。 コメディをやったり、そのお金をウィッグと衣装作りに使っていた。」

リンプ・リスト「アイ・ラヴ・ハードコア・ボーイズ/アイ・ラヴ・ボーイズ・ハードコア」(2001)

汗まみれの革ジャンに身を包んだアメリカン・ハードコアバンド、リンプ・リストは90年代後半のクィアコア・ムーヴメントにおける最前線で活動していた。 敬虔なストレート・エッジであること、誇り高いホモセクシュアルであること、そして薬物禁止を掲げる彼らのスタンスは、バーやクラブ、そのほか中毒性の高い場所がLGBTQの避難所的な役割を担っていた時代に、バンドの存在を際立たせた。フロントマンのマーティン・サロンドギーは、ラテン系バンドのロス・クルードスに在籍中、カミングアウトをした。彼にとっても、「アイ・ラヴ・ハードコア・ボーイズ/アイ・ラヴ・ボーイズ・ハードコア」が2001年にリリースされた際はカタルシスを覚えたと言う。「俺は80年代、カミングアウトすることは無かったんだ」と、Portland Mercury紙に明かしたサロンドギー。「当時、クィアの連中を見かけたと時のことを思い出す。その時はナーバスだったよ。中には暴力的な人たちもいて、怖かったんだ。俺がゲイであることに積極的になろうとした時、それが心地よいと感じるのにも、カミングアウトするのにも、時間が必要だった。今は何が起きたとしても、心の準備ができているよ」

シザー・シスターズ「テイク・ユア・ママ」(2004)

ニューヨークシティ出身のキャンプの女王、シザー・シスターズは家族へのカミングアウトに対するジレンマを、純粋なコメディとして表現した:「テイク・ユア・ママ」の中で、フロントマンのジェイク・シアーズは、その話題を降る前に母親にアルコールを飲ませて、楽しませておくことを提案している。この曲は彼らのセルフタイトル・デビューアルバムに収録された。アルバムはU.K.アルバムチャートで1位を飾り、9度のプラチナ・アルバムに輝いた。ボノは同年、彼らを「世界で一番のポップグループだ」と賞賛し、エルトン・ジョンは2006年のスマッシュヒットソング「ときめきダンシン」でバンドとコラボレーションを果たした。残念ながらアメリカでは、彼らのヨーロッパでの成功があまり広まっていないが、それでも、「テイク・ユア・ママ」は全国のゲイバーでとても重要な1曲なのだ。

ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェア「ブラインド」(2008)

「ブラインド」は2008年、DJのアンディ・バトラーとトランスジェンダーのシンガー、アノーニとのコラボレーションによって生まれ、瞬く間にダンスフロアの定番曲となった。アノーニはダークなニューディスコトラックを、彼女がインスパイアを受けたニーナ・シモンのように軽快に歌い上げた。バトラーはのちにニューヨーク・タイムズ紙に、「ブラインド」は「ゲイとして育ち、家族や社会のグループが自分を拒絶していること、なぜこんな状況に生まれたかを、自分に問い続けていることを思い起こさせる曲なんだ。でも、逃げられると知ってからすぐに、僕はそうするし、そうすることで、自由や安堵感を手に入れられるだろう。でも大人として、過度な人生や傷ついた人々、たくさんの混乱を見つけた。そんな時に、僕は”盲目”になったんだ 」と語っている。

ロビン「ダンシング・オン・マイ・オウン」(2010)

この歴史的な素晴らしい楽曲は、レナ・ダナムや、説得力の高いスウェーデン女性のお気に入りだ。しかしロビンによる、ポップ最高峰と言っていいこの曲では、クィアや、社会に取り残された人々に対する共鳴と、その実態が表されている。この曲の主人公は、クラブで意中の元恋人が新しい恋人といるのを発見し、それを見ないようにしているものの、最も拒絶された、孤独で孤立した心境になる。しかしながら家に帰ろうとしたり、理解しようとするのではなく、失恋のヒロインは、私たちがすべきことをする:たった1人で、自分のためだけに踊るのだ。

レディー・ガガ「ボーン・ディス・ウェイ」

マドンナが引き起こした現象を一旦忘れて(確かに美味しい内容ではあるが)、爆発的なディスコ・メタルサウンドと、世界で最も地位を確立し、LGBTQの強い見方であるマザーモンスターが曲に込めた自己愛、自己肯定にフォーカスしてみよう。「この3つの単語が思い浮かんだとき、みんなが私に対して長年聞いてきた”あなたは誰なの?真実のあなたは誰?”という質問に対して、”やっと答えを見つけた!”という感じだったの。私は、私として生まれてきたのだから」と、ガガは2011年、ローリングストーン誌に語った。「その意味は、日に日に大きくなっていく。日々、私のファンのみんなは、その言葉の重みに気づいていくのだと思うわ」

メアリー・ランバート「シー・キープス・ミー・ウォーム」

レズビアンでクリスチャンであるシアトル出身のメアリー・ランバートは、「シー・キープス・ミー・ウォーム」で究極のドリームガールとなり、自身を恥じる気持ちを削ぎ落とした。2012年に大ヒットしたマックルモア&ライアン・ルイスの「セイム・ラヴ」に参加し、大きな注目を浴びたランバート。3人が2014年のグラミー賞の授賞式で行ったパフォーマンスは、同時に行われた33人の同性愛者や異性愛者のための結婚式ソングとなったのだ(クィーン・ラティファがその重大な役割を果たしていたことは言うまでもないだろう)。「私は日曜日に泣いているんじゃないわ」と情熱的に歌う彼女は——まるで祈りを捧げているようだ。

ティーガン&サラ「クローサー」(2013)

カナダの姉妹デュオであるティーガン&サラは2013年にリリースしプラチナを獲得したアルバム『ハートスローブ』から、親密さの後ろに見え隠れする胸の高鳴りを捉えた。ミュージックビデオでは様々な性別のカップルがブランケットでできたテントでじゃれあったり、お互いをメイクしあって、その信頼度を表現していたりする。それはクィアの友情を表現する、息を飲むような手法であり、セクシャルやロマンティックなだけでない愛が存在すること、そして広い範囲での居心地の良さを描いている。ティーガン・クインは 「私は、若い頃の自分について書いたのよ——腕を組んで学校の廊下を歩いたり、感じたことや起きたことについて一晩中電話で話したりね。それは必ずしも恋愛関係になったり、告白するだけのことじゃなかった。あの時、何かが起きるかもしれない、っていう感情はすごくドキドキしたし、満足していたわ」と、当時を振り返る。「これらの関係性は、性的であったり、身体的なものの曖昧さの中に成り立っていた。これ以上ロマンティックなことってある?」

パフューム・ジーニアス「クイーン」

シアトルのマイク・ハッドレアスはミュージックビデオ「クイーン」の中で、若い少年から驚異的なクィアへ変身した。「私が気取って歩く時、家族は安全じゃないわ」と歌いながら、彼は会議室へこそこそと入り込み、スーツの男性で埋め尽くされた部屋で腰をくねらせる——LGBTQの人々へ恐怖を感じ、嫌悪感を持っている人々に対し役員室や評議会、そしてストリートから仕返しをしているのだ。2014年のガーディアン紙のインタビューに対して、ハッドレアスはこう明かしている:「私は、自分がコントロールできないことが人々を不快にしていることに対して、いつも強い怒りを感じているの。だからこの曲は、”ふざけるな”ってメッセージが存分に込められているわ——私は、私じゃない誰かが、一度で良いからこの不快な気持ちを味わってみれば良いと思っていたのよ」

アゲインスト・ミー「トゥルー・トランス・ソウル・レベル」

2016年、著書『Tranny: Confessions of Punk Rocks Most Infamous Anarchist Sellout』で、アゲインスト・ミーのフロントウーマン、ローラ・ジェーン・グレースは、モーテルの部屋の中に消え、ドレスを着る練習をし、徐々に自身を女性として導いていった様を明かしている。2014年、ローラはローリングストーン誌に「女性でいることに対して勇敢になっているのに、まだそれを秘密にしていて、どこにもいく場所がない状態」であったと告白。「何もないような場所にあるモーテルにたどり着き、廊下を彷徨いながら、誰にも見られたくないと思っていた」と言う経験は、生きるために戦うトランスジェンダーの女性としての咆哮を歌い上げたパンクチューン「トゥルー・トランス・ソウル・レベル」のアイディアに繋がった。

シャミール「オン・ザ・レギュラー」

といったポップ界のカウンターテナーたちが作り出した伝統の狭間で、2015年にアルバム『ラチェット』でデビューしたシャミール・ベイリーは、セクシーかつ中性的な言葉遊びを繰り出し、リスナーの心を奪った。同年、ベイリーは、自身がジェンダークィア であることを呟いた——「自分にジェンダーはないし、セクシュアリティもないし、どうでも良いと思ってるから」と。その後、ベイリーはThe Advocate誌に「小さい頃から男性的であり、女性的なエネルギーを持っていた。中性的になろうとして、こうなったんじゃないんだよ」と語っている。自身のスウィートなサウンドそのままに、敢えてカッコつけるようなことはしない。それは、カウベル・ディスコ的な要素を持つ「オン・ザ・レギュラー」からもはっきりとわかるだろう。「私を試さないで」と、ベイリーは優しく囁く。「私は、フリーのサンプルじゃないから」

シーア「アライヴ」

2013年の8月、シーアはこう呟いた:「私はクィア。でも自分をレズビアンだと定義づけてはいないわ。だって、今までデートしてきた相手はほとんど男性だったから。女性ともデートしてきたけどね」こうして様々な噂をシャットアウトし、シーアというヒットメーカーの紡ぐ曲を愛する、LGBTQの羨望の眼差しに浸ることとなった——彼女はリアーナの「ダイヤモンズ」やビヨンセの「プリティ・ハーツ」他、様々な楽曲制作を担当した——彼らの気分を向上させ、力づけるようなメッセージを送るために。シーアのアルバム『ディス・イズ・アクティング』からシングルカットされたほとんどの楽曲は、様々な目的へのアンセム・ソングであり、「アライヴ」では彼女の非常に力強いヴォーカルワークが、アデル、トバイアス・ジェッソ・Jrと共作したトラックに乗せて響き渡る。歌詞の中にあるように、「あなたはすべてを奪っていった」が、彼女はこう宣言する。「それでも、私は息をしている/私は生きているわ!」
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