1975年4月のキャロル解散コンサート、1977年7月のキャンディーズ解散宣言、1984年8月の尾崎豊ステージ飛び降り事件など、数多くの伝説が生み出されてきた日比谷野外音楽堂。その歴史は古く、1923年(大正12年)に初代野音が開設、1954年(昭和29年)に改築をし2代目大音楽堂として再開。
1982年(昭和57年)より全面改築工事を行い1983年(昭和58年)に3代目大音楽堂が完成し、現在も使用されている。公共の施設ということもあり、野音を使用するためには抽選に当選しないと使用できないが、筆者は運良く当選を引き当てることができ、2019年4月20日にクリトリック・リスのライヴを主催させてもらったことがある。今回、日比谷野音の館長である菊本誠二氏に日比谷野音の歴史について話を伺うことができた。その歴史の一部でも垣間見ることができたらと思う。2023年には100周年を迎える日比谷野音。これからどんな伝説が生まれていくのだろうか。

─日比谷野音が90周年を迎えた2013年のニュースで、野音の歴史に関しての資料がほとんど残っていないという報道を観ました。今回、90周年時に制作されたパンフレットを観せていただいていますが、作るにも苦労されたそうですね。

なぜ日比谷野外音楽堂には自由な気風があるのか? 96年の歴史と未来を野音館長が語る

野音館長の菊本誠二氏

菊本:よく知っていますね(笑)。2013年、90周年記念事業として野音の歴史を振り返って整理をしようとしたんですけど、過去の資料があまりなくて。分かる限りでまとめて整理をしたのが、このパンフレットなんです。今でも伝説として語り継がれている、ステージが炎上したキャロルの解散コンサートやキャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」って解散宣言をしたのが日比谷野音で、忌野清志郎さんのコンサートだったり、尾崎豊が飛び降りた事件とか、まだ本当に駆け出しの頃のX-JAPANとかも出ている。
野音の歴史を振り返ると、ロックの歴史がよく分かると思います。例えば1969年には野音で10円コンサートをやっているんですよ。成毛滋さんやミッキー吉野さんらが中心となって。最近亡くなられた内田裕也さんも出ている。このコンサートはロックの市民権を得るために10円でやったんですね。それと野音の歴史を振り返ると、ロックだけじゃなくてフォーク、ジャズ、J-POP、クラシックとかの歴史もわかりますよね。今も活動しているけど、アリスとか、渡辺貞夫さんとか、山下洋輔さんとかに出てもらったりもしていますし。初代の野音では、吹奏楽やオーケストラのコンサートも盛んに行われていましたね。

─これだけの歴史があるので、いろいろ変化してきた部分も多いと思うんですけど、最近でいうと客席の椅子も綺麗に変わりましたよね。

菊本:部分的な改修もやっています。来年のオリンピック・パラリンピックに向けて、椅子を木製(ヒノキ)に変えたり、トイレも全部洋式化したり、あとはステージの床も綺麗にしました。来年4月からオリンピックが終わるまでは、野音をオリンピックのためのイベントの会場として使うという東京都の方針があって。
それでリニューアルしましょうとなったんです。

─日比谷野音は公共の場所であると同時に、自由を尊重している会場だと思います。野音の歴史を振り返る中で、どうしてそういった精神が生まれていったと思われますか?

菊本:そこはアーティストサイドが作っていったと思うんですよね。90周年の実行委員の1人に、南こうせつさんがいて。記者発表会の時に「野音には自由な気風がある」ということを言っていたんですよね。野外ならではの開放感はあると思うし、公園の中にあるから、緑があって自然と触れ合えたりもする。あと、コンサートは夕方ぐらいから夜にかけてやるじゃないですか? 最後は真っ暗になっちゃうんだけれど、自然の演出みたいなものは野音でしか感じられないですよね。夕暮れから太陽が沈んできて、夜の暗闇に移っていく。都会のど真ん中でそんな演出でコンサートは他ではできないからね。基本的に、ここは公共施設だから、ある程度の決まりというかルールはあるんですよ。むしろ、普通の民間の方よりも厳しいかもしれない。その中でも、アーティストと会場の長い歴史の中で、風土と歴史とルールが作り上げられてきたんだと思います。


─菊本さんが野音を運営していく中で、心掛けていることはありますか?

菊本:基本的に、管理者サイドとしては、楽しくライブができて良かったと思って使ってもらいたいんです。安全性とか最低限のものをきちっと守っていただいた上で、来たお客さんにも楽しんでもらえるような形ができればということを大切にしています。

なぜ日比谷野外音楽堂には自由な気風があるのか? 96年の歴史と未来を野音館長が語る


─伝説的なライブが多く生まれてきた場所でもあると思うんですけど、それはどうしてだと思われますか?

菊本:今は東京の中でもキャパの大きい会場がいっぱいあって、ビッグアーティストとか集客力のあるミュージシャンはそういうところを使っているじゃないですか? でもかつては3000人を超えるようなキャパの会場は都内でもほとんどなかったんですよね。まだ野球場もあまりコンサートで使っていない時代だったし、日本武道館だって昭和39年の東京オリンピックの時にできている会場なので。こっちは大正12年だからね(笑)。都内の中でも1番キャパが大きかった会場だったと思うから、必然的にビッグアーティストというか大物がライブを行っていたんだと思います。昭和37(1962)年にはフランク・シナトラなんかも来ていますしね。野外の開放感もあったと思うし、色々な要素が噛み合って必然的に歴史に残るようなエピソードだとか伝説が産まれたんじゃないですかね。1990年代以降ぐらいになってくると、アーティストはどんどん他の会場に移っていって、今は若手ミュージシャンの登竜門みたいな存在になっている。野音には歴史があるし、有名ミュージシャンが踏んだ舞台だから、一度は野音のステージに立ってみたいという憧れ、ストーリーがあって、若手アーティストは今でもそう思っているんじゃないですかね。

─たしかにそうですね。

菊本:ただ、最終的な目標が野音のステージかと言うと、今は違うと思うんですよね。
ステップアップの場所だと思う。小さいホールだったり、ライブハウスからスタートして、2000~3000人ぐらい集客できるようになったら、目指すのが野音だと思うんです。ロック系のミュージシャンは特に野音のステージに立って、その後、武道館とか、アリーナとかドームとか、ステップを踏んでいく。その中において野音は絶対外せない会場ではあると思いますね。いろいろなアーティストが野音をステップとして使って、何十年か経てば、デビュー当時の思い出の場所ということで、もう一度野音に戻ってこようとかという人もいるだろうし。30年ぐらい毎年のように必ずやってるエレファントカシマシのようなバンドもいますしね。彼らにしてみれば、野音が聖地になっているわけですよ。エレカシって、実はもう3000人のキャパじゃ入りきれないぐらいの集客力があって。アリーナとかでもやれるのに、そういう想い入れを持ってやってくれているんだと思います。

─野音の場合、4月から10月の土日だけがライブに使用できる期間ということもあって、1年の中で立てる回数が決まっているのも特別感の1つかなと思いました。

菊本:それもあるかもしれないですね。基本的に平日できないのは、音の問題なんですよね。
近くに官庁とか一般企業のオフィスがあって、日中はみんな仕事をしているから、周りに迷惑をかけちゃいけないということで、平日はコンサートができないようになっちゃっているんです。あと、4月から10月に限定しているのは、冬の期間は野外で寒いからアーティストサイドが基本やらないんですよね。12月とか1月なんて手がかじかんじゃってギター弾けないでしょうし(笑)。ただ、近年は温暖化の影響もあって暖かい日もありますけどね。

─野外ならではの天候の問題もありますよね。野音の場合は、逆に雨が降ったら降ったで、伝説として語られることも多いですよね。

菊本:オーディエンスの方はずぶ濡れになって大変かもしれないけども、後になって思い出のコンサートということで、記憶に残る人も多いみたいですからね。

─すでに、2023年の100周年というのも見えていると思うのですが、この先の日比谷野音をどういう場所としていこうと考えられてらっしゃいますか。

菊本:3代目の野音の建物が1983年にできたので、今年で数えて36年経つんですね。来年のオリンピックが終わって、37年、38年になる。初代も2代も、だいたい30年スパンぐらいで建て替えているんですよ。そういう意味では、施設として老朽化してきているのは間違いないので、その改修だったり見直しは必要になってくると思います。
まだきちっと決まっているわけではないけれど、40年近くになってくれば絶対検討せざるをえないと思います。

─今の建物は3代目ですけど、初代、2代目、3代目と、ハードの面でも大きく変わってきているんでしょうか。

菊本:初代、2代の建屋の中がどうだったかまで分からないんだけど、実はあまり変ってないと思います。コンサートをやるときは音響も照明も持ち込みですし。そういう意味では、初代と2代と比べて、備えられている設備ってあまり変わっていないかもしれない。PAとかない時代だっただろうし、初代なんかはマイクがあったのかも分からない。もしかしたら、マイクとかスピーカーとかもない時代だったかもしれないですしね。

─本当に場所があって、どう使うかってところから始まったのかもしれないんですね。

菊本:先日、NHKの大河ドラマの『いだてん』に、昭和10年代のロサンゼルス・オリンピックで日本の水泳陣が活躍をしたシーンがあったんですけど、メダルをいっぱい獲って帰国をして、その報告会を野音でやっていたシーンがあって。映像を見るまで私も知らなかったんですよね。こんなことがあったなんて。さすがNHKだから、実際に野音でやっている報告会の映像を持っていて、それが映って。「日比谷公園の野外音楽堂において、帰国の凱旋報告会を行いました」ってナレーションも出ていて。日比谷公園ってここだよな……? って(笑)。

なぜ日比谷野外音楽堂には自由な気風があるのか? 96年の歴史と未来を野音館長が語る


─野音館長である菊本さんもテレビで観て知るというまさかの事態だったんですね(笑)。100周年のときはそういう映像とかも、提供してもらえるといいですよね。

菊本:そうそう。今度NHKに訊いてみようかと思って。日比谷公会堂の方の資料は全部残っているんだけど、野音は残っていなくて。

─90周年のパンフレットには載っていない歴史が、まだいろいろあるでしょうしね。

菊本:先程も言ったけれども、昭和37年にフランク・シナトラが初来日したときも野音でコンサートをしたんですけど、その時来ていた写真家の方が当時の写真を送ってくれたんですよ。今年の12月にはCSでフランク・シナトラがその時に野音でやったコンサートの模様を映像で放送するんだって。それも知らなくて(笑)。逆に我々管理者が資料も情報も持っていないんだよね。情けない話なんだけどもね。

─100周年のタイミングが、1つのきっかけになっていろいろ資料が集まっていくといいですね。

菊本:100周年に向けて、まさにそういう動きがあるといいなと思っています。いずれにしても大きな節目の年なので、過去100年の歴史についてもう一度きちっと整理をして、野音の歴史をみなさんにお伝えしていきたいと思っています。100年という節目の記念の事業もやりたいですね。次の100年に向けての新しい方針も見出して、ソフトとハードとをリンクさせて、いい感じにしていければと思います。温故知新という言葉があるでしょ? 故きを温ねて新しきを知る。まさに100年間の過去の歴史を振り返って、それを踏まえた上で次の100年はどうしますか? ということを考えていくすごく大事なタイミングだと思うんですよね。都会の中でこれだけの野外施設は他にないから、野外音楽堂の次の100年へと継承してもらいたいですね。

日比谷野外音楽堂 HP
http://hibiya-kokaido.com/
編集部おすすめ