この、深く立ち込める厭世観に突き立てられた、ナイフのように鋭利なオプティミズムはなんだ? この、苛立ちと疲労に滲んだ眼差しが纏う、聴く者を静かな安堵に導くメロウネスはなんだ? 昨年11月にリリースされた江沼郁弥の2ndアルバム『それは流線型』は、彼が音楽家としての新たな地平に到達したことを指し示す、あまりにも鮮烈な作品だった。

ソロ活動開始から1年。
2019年はアルバムのリリースに加え、ワンマンツアーを成功させた江沼。ツアーでは、音源・ライブ共にサポートを務めるバンド「木」のメンバーと、音源とはまったく違った形のインプロビゼーションをも展開していたという。今、江沼郁弥の中で、一体なにが起こっているのか。その現在地を捉えるべく行われたインタビューをお送りする。

・今までより自分のやっていることに責任を持つようになったかもしれない。

—2019年は、アルバム『それは流線型』のリリースがあり、それに伴うツアーもあり、かなり精力的に動かれたと思うんですけど、振り返ってみて、どんな1年でしたか?

江沼:とにかく忙しい1年だったんですけど、楽しかったし有意義でした。ひとつずつ目標を立てて、短いスパンでクリアするっていうのを繰り返しながら、ちゃんと成果を出すことができて。ここまで充実した1年は珍しいかもしれないです。

江沼郁弥 - ”夢みる暇人” MusicVideo

—ひとつずつ立てていった目標というのは、具体的にどういったものでしたか?

江沼:2018年からソロで動き出したんですけど、木(木のメンバーのうち、オヤイヅカナル / Key、ナイーブ / Dr、テツ / Bが江沼のサポートを務める)っていう新しい仲間と作品を作るとなったときに、彼らに対して「ここはこうしたい」とか、「こういうテーマでやっていきたい」みたいなことを、1曲1曲、ライブ1本1本でちゃんと伝える必要があったんですよ。

—バンドの頃は、もっと「言わずもがな」でコミュニケーションが成立してきたわけですよね。

江沼:そう、甘えていたわけではないけど「バンド」というひとつの地続きの関係性でやってきたんですよね。でも、木のメンバーは僕のことは知らない。
だから、「こういう曲を作りたい」とか、「こういうアルバムを作って、こういうツアーにしたい」っていうことを、ひとつずつちゃんと確認しながら伝えてきて。僕はあんまり喋りが得意なタイプじゃないから、こういうことは避けられるものなら避けて通りたいと今までは思っていたんですけど(笑)。

—(笑)。

江沼:でもまぁ、ひとりになってもそれを避けていたら、それこそ甘えになっちゃう。だから、今までより自分のやっていることに責任を持つようになったかもしれないです。それが2019年の収穫だったかな。

—ツアーファイナルの恵比寿LIQUIDROOMでのワンマンでは、江沼さんと木のメンバーでセッションをやっていたんですよね? 僕はそのライブを観ていないんですけど、「江沼さんがライブでインプロをやってる」という話を聞いて驚きました。

この投稿をInstagramで見る江沼 郁弥 enuma fumiya(@enumaenumaenuma)がシェアした投稿 - 2019年11月月30日午前6時25分PST
江沼がポストした、ツアーファイナルの東京・恵比寿LIQUIDROOMでのワンマンの様子

江沼:やっぱり、僕は曲を作っている側だから、どこに着地したら美しいかは、ざっくりと把握していて。でも、木のメンバーたちは曲を渡されている側だから、最初は手探りなんです。そこで、お互いの感覚をわかり合うには言葉で説明するより、むしろライブや製作を積み重ねていくことが重要で。そうやって模索した先に辿り着いた場所として、セッションがあったと思うんですよね。セッションが始まったとき、「あ、来たな」と思って(笑)。


—「来たな」って感じだったんですね(笑)。

江沼:うん(笑)。自然とセッションする流れになって、みんなで同じ方向を向いてできたのが、スリリングで楽しかったです。セッションって、めちゃくちゃ集中しているけど、頭空っぽみたいな、もう言語化不能な状態なんですよね。あらかじめ「こういう感じでやろう」って相談するわけでもないし、もはや「現象」なんです。そういう、ある種の偶然を誘い出すには、もちろん技術も必要なんだけど、それにむかうための思考についてずっと木のメンバーと話し合いながら模索して。それで、1年であそこに辿り着けた。「自分が目指していたのはこういう場所なんだな」って改めて思いました。

・ノリ方とか、お客さんとしての礼儀なんて、自分はライブを観るときに考えたこともなかった。

—それまでの江沼さんのライブの方法論とは別の場所に辿り着いた感覚があるわけですよね。

江沼:そうですね。なんというか、作品を出してライブをして……っていう、音楽活動の定型ってあるじゃないですか?

—リリースして、プロモーションして、ツアーを回ってっていう。


江沼:そうそう、僕もバンドの頃はそうだったし、非難するつもりはないんだけど、そのやり方だと、お客さんを決められたレールに乗せて走ってしまっている感じがして……「これでいいのかなぁ?」っていう感覚がずっとあったんですよね。plentyの頃に、お客さんに「江沼さんは、ライブ中にお客さんが声を上げたり、腕を挙げたりするのはイヤですか? どうしたらいいですか?」って訊かれたことがあったんです。それが、すごくショックで。「そんな思いをさせていたのか」って。

—確かに、それはちょっと考えてしまいますね。

江沼:「自分たちのやり方は、お客さんをレールに乗せてしまっているのか?」って。ノリ方とか、お客さんとしての礼儀なんて、自分はライブを観るときに考えたこともなかった。もし、僕がお客さんの立場だったら、まるで自分も一緒に演奏しているような感覚になって、スリリングな演奏が成功したら、客である自分も喜べるようなライブ体験をしたいなと思うんです。僕は作品の再現をしにツアーに出ているわけではないし、セットリストの組み方も含め、これまでの経験値を、木のメンバーに振りかざすようなこともしたくない。そういうところで感じる責任もありますね。

—一緒に演奏するメンバーに対する責任ですね。

江沼:気を遣っているわけではなく、彼らが自由になって爆発すると、自分にもいいエネルギーが返ってくるんですよ。
具体的にカッチリ指示してほしいタイプの人もいると思うんですけど、木のメンバーたちは、まったくそうじゃない。彼らを自由にさせてあげるために、自分が誘導していかなきゃいけないし、それが今の自分の責任というか、任務だと思っていて。

・今の時代に生きていると、自分の中に静かな場所や穏やかな場所を持つことが、本当に難しくなっている。

—「責任」という言葉が多く出てくるのが、やはり2019年の江沼さんを表しているんですね。

江沼:でも、いざセッションが始まると、もう完全に無責任な状態なんですけどね(笑)。曲が自分の手から離れて、まったく知らない状態になっていくのが、すごく楽しいです。

—「どうしたらいいですか?」と訊いたファンの人の気持ちに少し立つと、plentyの頃から江沼さんの歌には、集団から離れた場所にいる個人っていう感覚が強く滲んでいたと思うんですよ。どこか、孤独を望んでいるように思えるというか。だからこそ、江沼さんがお客さんと一体となるような現象を求めていることを、意外に思う人もいるのかもしれないですよね。

江沼:あ~、いるでしょうね。でも、なんだろう……僕、最近、村を作りたいんですよ。

—むら?

江沼:村長になりたいんですよ、僕(笑)。
それは別に、むやみに繋がりたいっていうことではないんだけど、ただ、自分がものを作っているのはあくまで自己表現だし、やっぱりどこかで「人に届いてほしい」と思いながら作っているから、もっと深いところでコミュニケーションがとりたいというか……ちょっと話がズレるかもしれないですけど、僕、聴覚過敏らしくて。

—ほお。

江沼:東京の街にいるのが、うるさくて耐えられないんです。情報の多さにも耐えられない。だから最近、すごく静かなところに行きたくて。自分の中に、静かなものを持っていたいというか……「村」っていうのは、そういう意味でもあるんですよね。人が、自分の中の穏やかさを繋ぎとめておくためのハブみたいな場所としての「村」。だから、「村を作りたい」っていうのは、自分本位な気持ちから生まれているものではあるんです。でも、みんなにもそういう静かなものがあったらいいなって思うし、自分の音楽がそういう場所であったらいいなと思う。

-うん、わかります。

江沼:今の時代に生きていると、自分の中に静かな場所や穏やかな場所を持つことが、本当に難しくなっているなって思う。結局、自分にとって音楽を作ることは、自分の内側を見つめて、自分を知っていくことだから、僕の場合は、そういう静けさみたいなものを自分の中に見ていないと、パニック状態になってしまうんです。
自分が社会のどこに存在しているのか、わからなくなる。それがしんどいというか、頭おかしくなりそうなんですよ。

・自分の中の善と悪とか、それ以外の膨大なもの中で、ずっとバランスを取り続けている。

江沼:今、自分に起きていることって、現代病っぽいなと思うんです。例えば「リンゴとバナナ、どっち食べたい?」と訊かれて、どっちか選べないって、ヤバいじゃないですか。今起こっていることは、それのめちゃくちゃ情報量多い版っていう感じがして。自分が、なにを選択していくのか……それを選ぶ自分の基準って、30年も生きていれば自然に持てるはずなんだけど、それがバーッとなくなって時代に消されていくような感覚になって……すごく怖いんですよ。こういうことって、もしかしたらみんな直面しているんじゃないかなって思う。だから、自分の中に静かな場所、穏やかな場所は確保しておきたいんです。そうすることで、今を逞しく生きていくためのマインドセットになると思うんですよ。

—それこそ、僕は『それは流線型』を聴いたとき、「逞しいな」と思ったんですよね。

江沼:それは良かった。伝わってますね(笑)。

—厭世感とか、絶望感みたいなものはものすごく濃く漂っているんだけど、そのうえで「生きるしかない」って腹を括っている人の音楽に聴こえたんですよね。

江沼:それはもう、僕の性格ですね。手相占いしてもらったときに、「二重感情線がある」と言われて。最初はめっちゃ生命線が短いと思ってたんだけど、どうやら感情線がふたつあって人よりも感情が多いらしくて。だから、自分の中の善と悪とか、それ以外の膨大なもの中で、ずっとバランスを取り続けている感じなんだろうなって思うんです。基本的には怒り属性だけど、それと、今の自分が求めている「静けさの波」の間でバランスを取っている。このアルバムは、そういう状態で作った感じです。

—”偽善からはじめよう”とか、タイトルからしてすごいですよね。

江沼:これはもう本当に……。「偽善」って、ヤバくて(笑)。

江沼郁弥 - ”偽善からはじめよう” 2019.06.06 つくり笑いの合併症 at Zepp Tokyo

—ははは(笑)。

江沼:失敗したわけではないけど、この曲では、「偽善の底」みたいなものには到達できなかった。偽善って、突き詰めて表現しようと思うと、途中で偽悪っぽくなるんですよ。でも、そうすると偽善ではなくなってしまう。偽善から入って辿り着いた偽悪って、ウルトラマンのために登場してやっている怪獣みたいなもので、それはもはや善なんですよね。つまり、偽善を描こうと思うと、永遠に「偽」を追いかけ続けることになってしまって。

・無駄をどんどん削っていって、前に進んでいく、その逞しさが、すごく人間っぽい。

—例えば”うるせえんだよ”なんかも、終わりがない曲ですよね。1曲の中で、相反する感情が反転し合いながら描かれている。だからこそ、”うるせえんだよ”とか、”偽善からはじめよう”みたいに、タイトルは敢えて、聴き手に投げつける感じだったり、断定的になっていたりもするのかなと思って。やっぱり、作品を作ることはなにかを保存することだし、どれだけ曖昧なニュアンスを捉えようとしていても、最終的にはなにかを言い切らないといけないものなんだろうと思うんですよね。

江沼:うん、うん。”偽善からはじめよう”みたいな言葉は、ある種、看板として必要なんですよね。「こういう歌ですよ」って言わないと、なんの歌だかわからなくなる可能性があるから。別に「どっちかわらない」っていう状態を描きたい歌だったら、曖昧でもいいのかもしれないけど、僕の場合は「偽善を掘り下げたい」みたいな明確な目的があって始めていることだから。だから”偽善からはじめよう”は、視点が偽悪に移った時点で「これ、違うな」と思って、ブツ切りにして、最後のラインに<僕のイマジネーション>っていう言葉を足して、書くのをやめたんです。だから、まだ模索中なんですよね。

—なるほど。アルバム自体のタイトルにもなっている『それは流線型』という言葉は、江沼さんの中にあるどういうものを捉えているんですか?

江沼:流線型というものが「逞しいな」って思ったんですよ。流線型って、新幹線とか、飛行機とか、あと魚とか……どんどん加速して前に進んでいくために、あの形状になっているわけですよね。無駄をどんどん削っていって、前に進んでいく、その逞しさが、すごく人間っぽいなと思って。今回のアルバムはそういう作品にしたいと思ったし、そういう作品を作り続けたいと思った。そういう人間でありたいなとも思ったんです。今の時代はすごい速度で過ぎていくから、表層的なものを作っても、すぐに流される。だからこそ、時代を貫いていくものが必要だと思って。

・歌詞にいちばん時間がかかるし、いちばんやりたくないし、いちばん警戒する。でも、いちばん大事なものです。

—どこまでも人間の存在に触れようとするところが、江沼さんの音楽にはありますよね。その感覚って、ある種の「人間愛」みたいな言い方はできると思います?

江沼:どうだろう……これが「人間愛」なのかどうかは、よくわからないです。ただ、表現とかアートって、掘り下げていくと実存主義的なところに行きつくとは思います。みんながみんなそうかはわからないけど、僕はどうしても「僕らは、どこから来て、どこへ行くのか」っていうことになっていく気がする。その過程で、神が出てきたり、祈りが出てきたり、「踊る」という行動が出てきたり、いろんなもの経ながら「人間」を掘り下げていくのが、僕がモノ作りを好きな理由です。

—音楽で人の芯の部分に近づいていくというか。

江沼:うん、究極な話、自分の存在を突き詰めていくことは、その奥にある「なんのために、宇宙が生まれたんだろう?」みたいな話にも繫がっていくと思う。僕は科学者じゃないから計算や実験でそれを解き明かすことはできないけど、音楽家として、それを解き明かしたい。そういう気持ちはずっとあります。だから曲を作っていて、人の姿、本質みたいなものが見えてくると、「あ、見えてきた」って思うんです。でも、それが見えないところにいると、「まだだな、まだ浅いな」って思う。

—うん、うん。実存主義みたいな話でいうと、僕は最近サルトルを読もうと思って。『嘔吐』とか。

江沼:あ、ほんとですか。サルトル、面白いですよね。

—サルトルの場合は文学、言葉ですけど、歌という表現を通して人間の実存に迫ることにもまた、難しさはありそうですよね。

江沼:そうなんですよね。「自分の存在はなんだろう?」みたいなことを突き詰めようとすると、音楽の中に歌詞はいらないんですよね。でも、「それじゃあ、人に届かないじゃん」っていうことになってくるから、言語化していく。ただ、「言語って邪魔くさいんだよなぁ」ってずっと思って……(笑)。でも、邪魔な存在だからこそ、ちゃんと向き合わないと……言葉から逃げたらヤバいなって思います。だからいまだに、歌詞にいちばん時間がかかるし、いちばんやりたくないし、いちばん警戒するし。でも、いちばん大事なものです。

・「弱さ」って、「強さ」よりもみんなと共通しているものだと思う。だからこそ、そこから目を背けるとヤバい。

—今日話して下さった、自分だけの内側にある静けさを大事にしたいっていう感覚と、その静けさをもって、すごく深いところで、他の誰かとコミュニケーションを取ることができるんじゃないか? って信じている感覚と。それを繋ぐためにも、言葉はやっぱり重要になってきますよね。

江沼:そう、自分勝手にやってはいるんですけど、自分の奥深くに辿り着けば、そこにみんないるんじゃないかな? っていう。それこそ、木のナイーブが、僕の歌詞を読んで「俺もこれ思ってたんだよ!」とか言うんですよね。「嘘でしょ?」って思うんだけど(笑)……でもまぁ、きっと本当なんだろうなと思って。奥底にある言葉、概念というか捉え方みたいなものは、きっとみんな共通しているんじゃないかなって思うから、なるべくそこに近づいて、言葉にして並べたいです。

—今回のアルバムの歌詞の中に、「弱い」という言葉がよく出てくるなと思ったんです。江沼さんの中で「弱さ」とはどういうふうに捉えられるもので、それは、さっき言っていた「逞しさ」と、どう関係しているものですか?

江沼:「弱い」は、「逞しさ」と対のものだし、意味は違うけど同じっていう感じがあって。弱いから逞しい、みたいな。自分を見つめることって、絶対に弱い部分にぶつかるから、それを理解して抱えていくのもひとつの答えだと思うし、それをぶっ壊すのもひとつの答えだと思う。「弱さ」を持っていない人はいないと思うんですよ。そういう意味で、「弱さ」って、「強さ」よりもみんなと共通しているものだと思う。だからこそ、そこから目を背けるとヤバいよ? って思っています。

—もう時間なので、今日の取材はこれくらいにしましょう。めちゃくちゃ面白かったです。

江沼:大丈夫ですか? 足ぐねってる感じになってません?(笑)

—足ぐねっていても、それはそれでいいじゃないですか(笑)。

江沼:ははは(笑)。まぁ、そうですね。

Edited by Aiko Iijima

<INFORMATION>

江沼郁弥が語る、ソロになって1年で得た逞しさと弱さへの対峙

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