小西康陽によるソロ・プロジェクト「PIZZICATO ONE」のニューアルバム『前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン』がリリースされた。本作は2019年10月のビルボードライヴにおけるワンマンライヴの模様を収録したもので、ヴィブラフォン/ギター/ピアノ/ベース/ドラムスという編成をバックに、小西は楽器を一切弾かずヴォーカルに専念。
1988年~2018年の30年間で発表してきたオリジナル曲を、初めて自身の歌声で披露している。その背景を探るべく、旧知の間柄である音楽評論家の高橋健太郎がインタビュー。

2015年のPIZZICATO ONEのアルバム『わたくしの二十世紀』に収録された「ゴンドラの歌」を聴いた時から、小西康陽は遠からず、全曲、自分でヴォーカルを取るアルバムを作るのではないかと思っていた。なぜなら、それは確実に、彼がまだやり残していることに思えたからだ。だが、それがライヴ・アルバムという形で届けられるとは、思っていなかった。

この取材の話をもらった時、『前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン』の音は未聴だった。二つ返事では引き受けられない仕事なので、音を聴いてから、判断させて下さいと返信した。少し聴くのが怖かったのだ。でも、送ってもらった試聴リンク先で2曲目を聴かないうちに、やらせて下さい、できればリモートよりも対面で、と返信している自分がいた。彼に会うのは2012年のスクーターズのレコ発以来だから、8年ぶりだった。

小西康陽が語る、自分の曲を自分で歌う意味「OKと思えるのに40年かかった」

Photo by Shiho Sasaki

—今回のコロナ禍って、仕事や生活にどんな影響がありました?

小西:まず、DJの仕事が全部がなくなってしまったのと、プライベートではそれまでほとんど毎日、映画を観に行っていたのですが、それが行けなくなって、久しぶりにレコードばかり聴いている日々です。

—何年前から映画を毎日のように見るようになったんでしたっけ?

小西:7年前からですね。
NHK-FMの「小西康陽 これからの人生。」という番組が終って、その喪失感から映画に観に行っていたら、はまってしまって。

※近年、年明けに「映画メモ」を公開するのが恒例となっている小西。2019年に鑑賞した映画は510本。

—大学時代の生活に戻ったということですよね?

小西:そうですね。

—作曲家としてプロデューサーとして、幾らでも仕事できるのに、そういう毎日、映画観に行く生活になっていったことと、今回、自分で歌うアルバムを出したということは、どこかで繫がっています?

小西:いやあ、どうでしょう? 直接は関係ないと思いますけれどね、でも、何か都合良くそうなった気はする。

『前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン』の1曲目「めざめ」、オリジナルはピチカート・ファイヴの1995作『ロマンティーク 96』収録

—僕もそうですけれど、世代的にシンガー・ソングライター文化の中で育っていますよね。もともとはシンガー・ソングライターになりたいと思っていた?

小西:あのね、シンガー・ソングライターのレコードが僕がレコードコレクターになるきっかけだったんだけれど、シンガー・ソングライターになりたかったというと違う。当時、土曜日の夜にやってた「イン・コンサート」って番組憶えてます? 海外のコンサートをそのまま流す番組で、そこでケニー・ランキンのライヴが2曲だけ流れたんですよ。ケニー・ランキンとエレキ・ベースと2人だけの演奏で。そのベースを弾く人になりたいと思った。シンガー・ソングライターの後ろで演奏するミュージシャンになりたかった。

—ああ、僕もまったく同じで、ジェフ・マルダーの横にいるエイモス・ギャレットとか、ジャクソン・ブラウンの横にいるデヴィッド・リンドレーになりたくて、ギターを弾き始めました。
それはなぜかな?と考えてみると、当時の日本にはキャロル・キングやジェームズ・テイラー的な、シンガー・ソングライターのロール・モデルになるような人がいなかった気がするんですよ。

小西:僕が最初に買った日本のシンガー・ソングライターのレコードは、遠藤賢司さんの『満足できるかな』(1971年)でした。

—ああ、僕も遠藤賢司さんは大好きでしたけれど、日本では文化としてはロック・バンドの文化とフォーク歌手の文化に二分されている感じがあって、細野さんにしてもシンガー・ソングライターというよりは、ベースを弾くミュージシャンですよね。で、憧れとしては、そっちに憧れた。

小西:そうかもしれないですね。でも、今回のアルバムで一番意識したレコードは小坂忠とフォージョー・ハーフの『もっともっと』(1972年)なんですよ。何十回も聴いたし、マスタリングの日にも聴いた。歌詞カードも同じ丸ゴシックのフォントにしようと思ってたくらい。

—へええ、フォージョー・ハーフのカントリー・ロックと今回のアルバムのラウンジ的なサウンドって、あまり結びつかないですけれど。

小西:でも、スティール・ギターが入っているのと、ヴィブラフォンとピアノが入っているくらいの違いとも言える。

自分の人生を歌にしてきた「作曲家・小西康陽」

—2015年の『わたくしの二十世紀』で1曲、「ゴンドラの歌」を自分で歌いましたよね。あれを聴いた時から、次は自分で歌うアルバムを作るんじゃないかとは思っていたんです。
でも、それがライヴ・アルバムという形になったのは、なぜだったんですか?

小西:最初に全曲歌うライヴをやったのは、そのアルバムが出た年の暮れに、サニーデイ・サービスの曽我部(恵一)さんが誘ってくれたんです。リキッドルームでツーマンでやりましょうと。ただね、ヴォーカリストを誘う予算がなくて、それで全曲、自分で歌ったんですね。

—予算がなくて、仕方なく?

小西:そうですね。でも、今回、ゲスト・ヴォーカルを入れてたら、アルバムとして成立しなかったとは思う。

—ピチカート・ファイヴ時代も何曲かは歌っていましたよね。あの頃から、いつかは自分で歌うアルバムを作ると考えていました?

小西:いや、まったく考えてなかった。最初に歌ったのは『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)ですけれど、田島(貴男)くん、高浪(慶太郎)くんが歌う中に1曲くらい入っているのもいいかなという。リンゴ・スターが1曲歌うくらいの。

小西康陽が語る、自分の曲を自分で歌う意味「OKと思えるのに40年かかった」

Photo by Kenju Uyama

—今回のアルバムは選曲は、作曲家として、自身のマスター・ピースを選んだと言っていいですか? それとも自分が歌手として歌うことを前提に選んだ?

小西:う~ん、そのふたつの合体かな。自分で歌うには似合わない曲は外して、今回、贅沢したピアノとヴィブラフォンとギターのアンサンブルを生かしやすい曲を選びました。自分のキャリアの中から傑作を選んだというのではないですね。
「東京は夜の七時」とかさ、自分では最初のところが歌えないですから。

—僕が小西康陽という作曲家に対して抱いていた印象は、ポップでスタイリッシュな音楽を作っているように見えながら、特にピチカート・ファイヴ時代の後半はそうですけれど、その中にしばしば、プライベートでエモーショナルな曲が含まれている。こんな歌詞を野宮真貴さんに歌わせるんだと思ったことも、しばしばあるんだけれど、そういう曲と今回のアルバムの選曲は結びついているように思いました。

小西:まさにそうですね。

—シンガー・ソングライターになろうとは思わなかったけれど、結果として、自分の人生を歌にしていた。これは意図的なものだったんですか?

小西:意図的ではなかったです。野宮さんと最初に作った『女性上位時代』(1991年)の頃には、野宮さんという対象をみて、どんどん曲が湧き上がってきた。でも、そういう風にいられたのは、アルバム3枚くらいだった。年に一枚アルバム作るという契約で、最初にシングル向きの曲を書いて、それからアルバムの曲を揃えるという時に、もう野宮さんのイメージだけでは書き切れない、となっていった。で、その時にぱっと自分の中から出てきたのは、歌詞はほとんど自分のプライベートなことに近いもので、一人称も「ぼく」になってたりするんですけれど それを野宮さんに歌ってもらったら、割と面白かったんです。それで中盤からそういう曲が増えて、後半はそういう曲ばかりになった。野宮さんの素晴らしいところは 渡した曲に対して、絶対、これはどういう意味なのとか、どういう風に歌ったらいいのとか、一切聞かないところですね。
とにかく渡されたら歌うという人だったので。

—そういう野宮さんの歌唱によって、プライベートな部分やエモーショナルな部分が無化される?

小西:そうそう。

「また恋におちてしまった」のオリジナルは、1999年作『ピチカート・ファイヴ』収録

君の曲は簡単だけれど良い曲だね

—ソングライターの中には、年齢とともにテーマが歌詞内容が変わっていく人と、歳を取っても歌世界の中では変わらない、ボーイ・ミーツ・ガール的な曲を作り続けていく人がいるように思うんですが、自分ではどちらだと思いますか?

小西:ソングライターとしては若い頃は完全にサウンド志向で、歌詞はどうでも良かった。でも、今は完全に歌詞ですね。そういう風に変わりました。

—でも、僕と小西くんは若い頃から個人的つきあいもありますけれど、当時から小西くんの恋愛観は非常にペシミスティックで、今回の曲でいえば、「神の御業」の頃からそういう諦観、絶望というものを強く湛えている。そのへんはどうでしょう? 30年、40年が過ぎて、歳を取ると、テーマは変わってきますよね。実人生においては。

小西:そうですね。

「神の御業」のオリジナルは、1988年作『ベリッシマ』収録

—でも、ソングライターとしての世界観みたいなものは、あまり変わらない?

小西:自分を取り巻く状況は変わりましたが、そのへんは変わってないかもしれないですね。基本、同じ世界。でも、老化した分、絶望感よりも、もう少し受け入れる感じ。


—若い頃はみんな暗いですからね。

小西:そうですね。

—歳を取ると、諦めとともに明るくなる。

小西:そういうことですかね(笑)。

小西康陽が語る、自分の曲を自分で歌う意味「OKと思えるのに40年かかった」

Photo by Shiho Sasaki

—今回のアルバムで過去の曲を聴き直すと、小西康陽作品の核になる響きがよく分ると思いました。逆からいうと、もっとヴァラエティーに富んだ作品があったように思ったんだけれど、すごく核の部分だけが集められているとも。

小西:ああ、そうかもしれない。意図的ではないですけれど。

—ピアノのコードがよく分るからかもしれません。キャロル・キングのシティ時代とか、ローラ・ニーロとかフィフス・アヴェニュー・バンドとか、1970年前後のニューヨークの香りがする。

小西:ハーモニーに対する感覚は非常にストライクゾーンが狭いんですよ。ボキャブラリーが少ない。もう一言でいえるくらい簡単なんですよ。CメジャーのキーでいうとCキーとE♭キーと…。

—短三度転調する。

小西:そう、ほとんど、そのヴァリエーションなんですよ。

ローラ・ニーロの1968年作『イーライと13番目の懺悔』収録曲「Stoned Soul Picnic」

—でも、他の技法も知っているけれど、使わないわけでしょう?

小西:そうなのかどうかは分らない。

—ディミニッシュ使って、こう進行すると、ビートルズっぽくなるとか、そういうのは捨てているでしょ?

小西:それはあると思う。それはあるんだけれど、メロディーメイカーとしては本当にワンパターンだと思いますね。一回だけ、窪田晴男くんに曲を褒められたことがあって、君の曲は本当に簡単だけれど良い曲だねと。

自作自演文化とヴォーカル・レコード

—スクーターズの「かなしいうわさ」を歌っていたのは意外で、嬉しかったです。

小西:あれはたまに歌うと、気持ち良いんですよ。

—名曲ですね。スクーターズのオリジナル・ヴァージョンは僕がミックスしたんで、思い入れのある曲です。

小西:あ、そうですか。スクーターズのは最高です。健太郎さんがミックスしたのはアルバム・ヴァージョン?

—そうです。

小西:素晴らしい。オレのまわりのDJはあのアルバム・ヴァージョンが好きですね。

「悲しいうわさ」のオリジナルは、スクーターズの2012年作『女は何度も勝負する』収録

—今回のアルバムは、ライヴでセルフ・カヴァーを披露という形でしたけれど、スタジオ・アルバムの計画はないんですか?

小西:実はあって、ずっと考えているんですけれど、なかなかフォーカスが定まらない。ひとつは自分が歌う曲の歌詞がなかなか出来ない。それとね、今回のアルバムをトラックダウンしていて、音楽的なミスを一杯発見しちゃったんですよね。普通、スタジオでプロデューサーとして仕事するときはすぐ気づいて、言うじゃないですか、でも、歌ってるから気づかない。そこまで頭がまわらない。そういうことが一杯あって、だからスタジオで自分が歌うというのは……。

—他のプロデューサーを立てないと難しい?

小西:そうかもしれないですね。そもそも、自分で歌うアルバムに予算出してくれるメーカーがあるどうか。

—僕は小西くんの歌声、好きなんですよ。だから、すごく聴きたかった。逆から言うと、素敵なゲスト・シンガーを揃えた『わたくしの二十世紀』には、ちょっと反感のようなものを抱いていた。死とか絶望とかをこんなに素敵にパッケージされても、何度も聴けないよみたいな。で、「ゴンドラの歌」で救われて、そればかり聴いた。

小西:すべての人が健太郎さんみたいじゃないから。大半の人は(僕の歌を聴いても)これっていい訳?って思うんじゃないかと。逆に言うとね、僕、たまにベース弾くともっと弾けばいいのにと言われるけれど、ピチカート・ファイヴ時代に弾いてるくらいのことだったら、高校時代から弾けてるんですよ。ただ、自分のハードルだと、それではOKにならないので、弾かなかった。ヴォーカルに関しても同じで、このくらいだったら高校時代から歌えている。それでもOKと思えるのに、40年かかったということですかね。

小西康陽が語る、自分の曲を自分で歌う意味「OKと思えるのに40年かかった」

Photo by Shiho Sasaki

—僕は自作自演文化に強く影響されてきたとは思います、キャロル・キングの曲はキャロル・キングが、ローラ・ニーロの曲はローラ・ニーロが歌うのが一番良いという。でも、小西くんの声にはそういう以上の何かがあると思います。あとね、声って、だんだん出なくなっちゃうじゃないですか、この年齢になると。

小西:そうなんですよ。今回、リハーサルした時に自分の歌のウィークポイントに気づいて、若い時は全然なかったリップノイズが出るようになって。自分の歌を聴いていて、フランク・シナトラのリプリーズ時代を思い出したり。若い頃からリプリーズになってからのフランク・シナトラがまったく駄目だったんですよ。

—僕は若い頃はフランク・シナトラなんてまったく聴きませんでした。ここ10年くらいですね、キャピトル時代のアルバムを聴くようになったのは。

小西:キャピトル時代はまあ許せる。戦中のコロムビア時代が素晴らしいですよ。リプリーズになってからは音程が甘い、リズム甘い、立ち上がり遅い。人間、ああまで変わってしまうんだと思う。そのリプリーズ時代のシナトラの反対を行くのが、野宮真貴さんだったんですよね。そういえば、映画に行けなくなって、今はまってるのがヴォーカルのレコードなんですよ。これまではDJでネタとして変わったカヴァーがあると、アンディ・ウィリアムズのレコードを買ったりしていたんだけれど、今は歯抜けのアルバムは全部買いたいみたいになって。

—それはヴォーカルを聴いているんですか? それとも選曲とかプロダクションを聴いてるんですか?

小西:正直言うと、あの時期のレパートリーを聴いている。もっと言うと、ああいう世代の歌手がビートルズやジミー・ウェッブを歌うようになった時期があって、ボビー・ラッセルって分かる?

—いや、分らないです。

小西: 「リトル・グリーン・アップルズ」を書いたソングライター。あと、「ハニー」とか。で、「リトル・グリーン・アップルズ」って、いろんな人が歌っている。それを全部聴きたいと思って 久しぶりにレコードに買いまくった。

—同じ曲をほとんどすべてのシンガーがカヴァーするという文化がありますよね、アメリカには。

小西:そうなんですよ。それで今、自分であの時期の、そういう8大名曲というのを決めて、「リトル・グリーン・アップルズ」やブレッドの「メイク・イット・ウィズ・ユー」、あれもいろんな人が歌っている。そういう8大名曲も探しまわっている。

フランク・シナトラの1968年作(リプリーズ時代)『Cycles』収録の「リトル・グリーン・アップルズ」

—僕はアレサ・フランクリンが「ジェントル・オン・マイ・マインド」を歌っているのが好きなんです。グレン・キャンベルでヒットした。もともとはジョン・ハートフォードが書いたカントリーの曲なんだけれど、アレサのヴァージョンはラテン・ジャズ・ゴスペルみたいになっている。で、YouTubeに当時、アレサがアンディ・ウィリアムズのテレビ・ショーに出て、それを歌った時の録画があるんだけれど、アンディ・ウィリアムズも「ジェントル・オン・マイ・マインド」を歌うんですよ。それで同じ曲には思えないね、と笑うんだけれど、これをテレビで見ていたのがアメリカ人なんだと思いました。

小西:まさにそうですね。「ジェントル・オン・マイ・マインド」は8大名曲の中に入ってます。

楽器を持たない、ディープなシンガー・ソングライター

—ヴォーカリストはマイクを持って歌うけれど、シンガー・ソングライターは楽器を弾きながら歌う。小西くんの曲は基本、ピアノで作っている?

小西:『カップルズ』(1987年)の時は全曲ギターで作っていた。だんだんピアノになっていって、『女王陛下のピチカート・ファイヴ』の頃からはピアノですね。ピアノは習ったことなくて、大学浪人時代に伯母さんの家で暮らしていた時に、そこにピアノがあって、ローラ・ニーロの曲のコードを探して、覚えました。

—そのピアノ弾き語りは聴けないんですか?

小西:ピアノ弾き語り? それはなぜできないかというと、Cのキーでしか弾けないから。歌う時はそれをFとかに移さないといけない。そこにハードルがあるんですよ。

—いつか自分で歌うだろうというのは、『ホーギー・シングス・カーマイケル』(1956年)みたいなアルバムを思い浮べていたんです。

小西:まさにホーギー・カーマイケルのことはずっと考えていましたね、半年くらい前。細野さんもホーギー・カーマイケルにすごくこだわっていた。

『ホーギー・シングス・カーマイケル』収録曲「わが心のジョージア」

—ホーギー・カーマイケルは間に合ったんですよね、自作自演文化に。もっと時代を遡ると、ピアノの弾き語りというスタイル自体がないんですよ。

小西:ないですね。

—あれは録音できなかったからなんですよ。電気録音の時代になって、マイクを口元に置けるようになる以前は、ピアノの音が大き過ぎて、歌を録音できなかった。ファッツ・ウォーラーはすごく大声のはずだけれど、彼も初期はピアノのレコードしか残していない。ピアノと歌になるのはマイクロフォン以後なんですよね。だから、アーヴィン・バーリンはもともとはシンガーだったのに、『アーヴィン・シングズ・バーリン』はない。

小西:ああ、卓見ですね、素晴らしい。今日はまた、どうせまた健太郎さんに怒られるんだろうと思って、いやいや来たんだけれど、思わぬ発見が。あの、その意味で、さっき岡村詩野さんにインタヴューされながら(Mikikiに掲載)、自分で気づいたことがあって。職業作家がいて、歌手がいるという時代があったじゃないですか。

—ティン・パン・アレイの時代。

小西:そう。それがビートルズやディラン以降の自作自演のカルチャーがあって、そこで分断があったように思うんだけれど、今回のアルバムのスタイルって、自作を歌っているけれど、楽器を持っていないんですよ。そういう歌手って、自分の中で考えてみたら、ひとりしかいないと。

—誰だろう? ハリー・ニルソン?

小西:ロッド・マッキューンなんですよ。彼の「ジーン」という曲も8大名曲のひとつなんですけれど、マッキューンはおびただしい数のアルバムがあって、ライヴ盤もおびただしい数あるけれど、楽器を持たずに歌っている。でも、ロッド・マッキューンはシンガー・ソングライターと考えられていますよね。

ロッド・マッキューン「ジーン」(1969年発表)のパフォーマンス映像

—なるほど、楽器を持たないシンガー・ソングライター。例えば、今回のアルバムで歌った「子供たちの子供たちの子供たちへ」や「メッセージ・ソング」は自分の人生に関わりのある、特定の誰かに向かって、歌いかけている歌ですよね。

小西:まあそうですね。「子供たちの子供たちの子供たちへ」は最初の奥さんと子供と別れる直前に書いた曲。「メッセージソング」というのは離婚調停が終って、何ヶ月かぶりにまた会える日程が決まった時に書いた曲です。

—ディープにシンガー・ソングライター的ですね。

小西:ほとんど日記、クロニクルみたいな。ただ、それは自分のプライベート・ライフを切り売りしても、締め切りに追われて、それを出すしかなかったから。もっと言うと、「美しい星」という曲があるんですけれど(『わたくしの二十世紀』収録)、それは奥さんと別れて、しばらくして、仕事場で仕事してたら、電話がかかってきたんですよ。その電話の向うの喋り方が変わってて、当時、彼女は茨城県の水戸に引っ越してて、もともとは東京の人なのに、そっちの喋り方になっていた。それが凄いショックで、ああ、完全に遠くへ行っちゃったと思って、そうしたら、「いつか僕を想い出して」っていう歌詞が出てきた。

「子供たちの子供たちの子供たちへ」のオリジナルは、1996年のミニ・アルバム『フリーダムのピチカート・ファイヴ』収録

取材が終ってから、数日間、歌を書く人と、歌を歌う人のことをいろいろ考えていた。僕は小西康陽がシンガー・ソングライターとして歌うことを待ち望んでいたのだが、それは彼の自作自演が聴きたかったからだけなのだろうか?と。

が、『前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン』を聴き返しながら、あらためて思ったのは、僕は彼の声のトーンに好ましさを感じているということだった。そのトーンは彼の普段の喋り声、あるいは彼の文章ともひと繫がりになっている。好ましさの最大の理由は、そこにあると気づいた。たぶん、彼のラジオ番組や彼の文章に触れてきた人々は、同じ感触を抱くのではないだろうか。このアルバムに当日のMCも収録されているのは、小坂忠&フォージョー・ハーフの『もっともっと』の影響かもしれないが、それも彼のヴォーカル・スタイルからすれば、必然的なものに思われる。

普段の喋り声と歌声の間に距離がない。そういうシンガーの系譜を考えてみると、まず思い浮かぶのはビング・クロスビーだ。彼のラジオ番組の実況盤を聴いてみると、よく分る。ビングはホストとして、様々なゲスト・シンガーとトークするが、歌う段になると、ゲスト・シンガーは歌手の声になって、歌い上げる。ところが、ビングは喋りと歌がシームレスで、どららも変わりなく、滑らかで、控えめなトーンを保っている。それがリスナーに親密さを感じさせ、ビングはラジオ番組を通じて、大人気を獲得していったのだ。

ラジオ番組「ビング・クロスビー・ショー」の音源

アート・ジルハムの1925年の録音

では、ビングのそんな歌唱法のルーツは?というと、これはシンガー・ソングライターと繫がってくる。ビング・クロスビーはマイクロフォンを効果的に使ったクルーナー唱法の創始者と言われるが、彼以前にもクルーナーな唱法を聴かせるシンガー達はいた。そして、彼らは楽器とともに、小さめの声で弾き語る自作自演歌手だった。ピアノ弾き語りならアート・ジルハム、ジーン・オースティン、ギター弾き語りならニック・ルーカス、ウクレレ弾き語りのクリフ・エドワーズもいた。

ホーギー・カーマイケルもその系譜に数えることができる。しかし、もう少し世代が上のソングライターになると、彼らの自作自演の録音を聴くことはできなくなる。ジョージ・ガーシュウィンもアーヴィン・バーリンもピアノに向かって、歌いながら曲を作っていたに違いないが、彼らの歌声を知ることはできないのだ。

小西康陽も僕も1950年代の生まれで、1970年代のシンガー・ソングライター文化に強い影響を受けているのだが、今回のアルバムで聴けた彼の歌唱は、もっと時代を遡ったソングライター達の声のようにも思えた。僕はそれに震えた。このライヴがあったことは知らなかったのだが、その場に居合わせていたら、間違いなく泣いていたと思う。

小西康陽が語る、自分の曲を自分で歌う意味「OKと思えるのに40年かかった」

PIZZICATO ONE
『前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン』
発売中
試聴・購入:https://jazz.lnk.to/GKnipPR

※アナログ盤は2020年9月26日(土)リリース
12インチLPと7インチ・シングルの2枚組
スリーブに小西康陽の直筆サイン入りカードが封入
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