こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、ザ・チェッカーズの「Long Road」。オリジナルは1986年に発売になった4枚目のアルバム『FLOWER』に入っておりました。作詞が藤井郁弥さんで、作曲が藤井尚之さん。兄弟ソングですね。お聴きいただいているのは1993年に発売になった『FINAL』、1992年12月28日の解散公演、武道館のライブを収めております。今日の前テーマはこの曲です。
今月2020年6月の特集はライブ盤ですね。2月以降行われる予定だったツアーやライブがことごとく中止、延期になっております。音楽史上初のライブが行われない日本列島、日本のコンサート文化は大丈夫なのだろうか? 早くライブが再開される日が来てほしい、そんな心からの願いを込めてライブ盤特集をお送りしております。
1枚がこのチェッカーズの『FINAL』。もう1枚はさらに20年以上遡って行われたザ・タイガースの『ザ・タイガース・フィナーレ』。解散コンサート、この2枚のライブには客席が圧倒的に女子だったという共通点があります。そして涙涙だったことも共通していますね。1960年代後半のグループサウンドの中で最も女の子に人気があったのが、ザ・タイガースですね。そして1980年代にそういう存在だったのがザ・チェッカーズ。ビートルズの例を待つまでもなく、黄色い歓声が音楽の歴史を作ってきました。日本のそういうコンサートを、解散コンサートを舞台に聴き比べてみようというのが今日の趣旨ですね。ザ・タイガースの解散公演は1971年1月24日でした。ビートルズの武道館公演からわずか5年です。
僕のマリー / ザ・タイガース
1967年2月のデビュー曲「僕のマリー」。1967年2月というのは、ビートルズ来日から1年も経ってないわけで、メンバーは、あのビートルズの武道館公演の客席にいたわけですね。喋っているのはリーダーの岸部修三さんですね。このタイガースのフィナーレのライブアルバムは、ライブのオープニングから入っているんですけど、英語のアナウンスから始まってるんです。「Ladies and Gentlemen, Boys and Girls」そして客席に向かって「Say after me, TIGERS」と言っているんですけど、客席がキョトンとしている。これがとっても初々しかったですね。MCに英語で呼びかけられたことのないお客さんがたくさんいたんだなと思ったりしました。そして1曲目がローリング・ストーンズの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」なんですね。この辺が彼らの意地だったんだなと思いますね。
モナリザの微笑 / ザ・タイガース
花の首飾り / ザ・タイガース
1971年7月発売になったザ・タイガースの武道館解散ライブアルバム『ザ・タイガース・フィナーレ』から、「モナリザの微笑 」、「花の首飾り」をお聴きいただきました。歴史のおさらいをしましょう。ザ・タイガースの原型が結成されたのが1965年で、他のバンドにいた沢田研二さんが加わったのが1966年1月。この時はファニーズという名前でした。1966年ですから、ビートルズ来日の年です。そして彼らがエレキバンドになったのは、大阪で観たベンチャーズのコンサートがきっかけだった。そしてエレキバンドになってビートルズの公演を観に行った。さっきお揃いのユニフォームで見に来たっていう話がライブのMCでありましたが、そのユニフォームを作った資金というのが京都会館で行われた、全関西エレキバンド・コンテストで優勝した賞金でユニフォームを作って観に来たんですね。その時に演奏したのがローリング・ストーンズの「サティスファクション」だった。
青い鳥 / ザ・タイガース
銀河のロマンス / ザ・タイガース
君だけに愛を / ザ・タイガース
ザ・タイガースの「青い鳥」、「銀河のロマンス」、「君だけに愛を」。1971年の武道館解散コンサートのライブアルバム『ザ・タイガース・フィナーレ』からお聴きいただいております。
アイ・アンダスタンド / ザ・タイガース
「蛍の光」が入ってますね。このオリジナルはハーマンズ・ハーミッツで、ザ・タイガースは当時の自分たちのコンサートの中での重要レパートリーにしていた。これを解散コンサートで、こんな風に前説を入れながらやっております。グループサウンドは日本のポップスにとって革命だったと思うんですね。それまでカントリーバンドはあったわけですが、ビートルズやストーンズのようなロックバンドっていうのはなかったわけです。洋楽と同じバンドが日本のポップスの中に登場した。でも当時はロックファン自体がいなかったに等しいわけですから、彼らがやりたかった音楽というのがちゃんと理解されたといえないまま終わってしまった。沢田研二さんは、ザ・タイガースを解散した後に、ザ・テンプターズのショーケンさんとPYGというバンドを作るんですが、日比谷のロックコンサートでは帰れ帰れと言われる、憂き目にあっております。さっきMCをした岸部修三さんは当時24歳になったばかり、沢田研二さんは22歳。皆若かったですね。そしてロックで人生が変わった最初の世代がここにあるんだと思います。1971年7月に発売、ザ・タイガース武道館解散公演ライブ『ザ・タイガース・フィナーレ』から「アイ・アンダスタンド」でした。
1993年発売のザ・チェッカーズのライブ盤『FINAL』から「ギザギザハートの子守唄」。1983年9月のデビュー曲でした。ザ・チェッカーズは1980年に結成された7人組ですね。福岡市久留米市出身。藤井郁弥さん、武内享さん、高杢禎彦さん、大土井裕二さん、鶴久政治さん、徳永義也さん、藤井尚之さん。ボーカルが3人とバンドですね。サックスも入っておりました。アマチュア時代はドゥーワップ・ロックンロールをやっていて、1981年のヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストのジュニア部門で最優秀賞を受賞。徳永さんと尚之さんは高校生だったので、2人の卒業を待ってデビューしました。1984年の年間チャートのトプ10には、「涙のリクエスト」、「哀しくてジェラシー」、「星屑のステージ」に3曲が入っているんですよ。そして、客席が圧倒的に女子中高生でありました。1984年に音楽雑誌「PATi・PATi」が創刊されるんですが、「PATi・PATi」はザ・チェッカーズがデビューして創刊されたと言ってもいいでしょうね。それまでの「GB」という最大手の音楽雑誌が、ザ・チェッカーズはアイドルだからっていうことで扱えなかった。で、副編の吾郷さんが、新しく雑誌作るよと言って始めたのが「PATi・PATi」でした。1980年代の音楽雑誌を支えたバンドと言っていいでしょう。ちょうど10年がたった1992年、解散コンサート。その中から「涙のリクエスト」をお聴きいただきます。
ザ・チェッカーズの解散武道館ライブファイナルから「涙のリクエスト」をお聴きいただいております。アコースティックコーナーっていうのがあったんですね。全員前に出てきて、当時で言うとアンプラグド風に皆が楽しくやったというコーナーの曲ですね。ザ・チェッカーズとザ・タイガースを並べたのは理由があるとさっき申し上げましたが、共通点は女の子の人気が凄かったという点です。共通していたんだけども、やっぱり時代が違ったなと思ったのが、オリジナルに対しての拘り方ですね。ザ・チェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」はバンドのオリジナル曲じゃなくて、最初は俺たちはこういうのは歌いたくないっていって始まったんですけど、しばらくはオリジナルじゃないものを出していたんですね。その一方で、アルバムではオリジナルを書きつつ、1986年12枚目のシングル『NANA』から自分たちの曲にしていったんですね。アルバムは1987年の『GO』から全部オリジナルになっていきました。ザ・タイガースは、そういう作家たちの曲と自分たちの曲をうまく両立しきれず、ヒット曲は作家の曲で、でも自分たちは洋楽をやりたくてという狭間の中で行き詰まってしまったと思うのですが、彼らはうまくそこを乗り切りましたね。アイドル人気を楽しんでいた。当時のインタビュー、私は2枚目のアルバムで初めてインタビューしたんですけども、フミヤさんは「俺たちは週刊明星からディクショナリーまで」と言ってました。これは名言だと思いましたね。おれたちは自由なんだというのを自分たちのスタイルにしておりました。
これはちゃんと伝えなければいけないんですけど、ザ・チェッカーズは、メンバー全員が作詞作曲に関われた。とてもクリエイティブなグループだった、そういう面がありながらアイドル性が凄かった。武道館以外の色々な解散コンサートも見たことはありますが、こんなに客席もステージも泣いていた解散コンサートは思い浮かびませんね。武道館だけではなく、九段下駅の改札からずっとセーラー服の女の子の集団が並んでいて、皆抱き合って泣いている。コンサートが始まっても、客席も皆歌いながら泣いているというコンサートだったんです。ステージも客席の涙に引っ張られないように、どこか強がっているところもあったりして初々しかったですね。チェッカーズのコンサートは、お客さんもアルバムをちゃんと聴いて曲を覚えてきてる。そういうコンサートに来るお客さんは、こうでなければいけないというのをチェッカーズは説教しながら伝えておりましたね。お客さんを教育した。この解散コンサートは正にその集大成のようなライブだったわけです。最後の曲「Rainbow Station」をお聴きください。
ザ・チェッカーズの解散コンサート武道館ライブ「FINAL」から、アンコール最後の曲「Rainbow Station」をお聴きいただきました。最後のアルバム『BLUE MOON STONE』の最後の曲。このライブアルバムは、私も28年ぶりに聴いたんです。このライブアルバムはなかなかリリースされなかったんじゃないかな。出てもファンクラブ限定みたいな記憶があって聴く機会がなかったんですよ。今回ライブ盤特集をやるということで改めて聴いて、いやー、いいライブだなと思いました。実はこの後があったんです。収録は終わってたんでしょうけど、お客さんがなかなか泣き止まない。藤井郁弥さんが客席に向かって「お前らガキだな、エイズに気を付けろよじゃあな」と言って去った記憶があります。お聴きいただいたのは、1992年12月28日、ザ・チェッカーズ武道館解散ライブから「Rainbow Station」でした。
「J-POP LEGEND FORUM」ライブ盤特集Part4。今週はザ・タイガースとザ・チェッカーズ、2枚の解散武道館ライブアルバムをお聴きいただきました。流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。ザ・タイガースとザ・チェッカーズ、こんな風に同じ武道館で行われたライブ盤を一緒に聴く。これは自分でもいいアイデアだったなと改めて思いました。アイドル性と音楽性というのは、ポップミュージックの永遠のテーマですからね。ビートルズもストーンズも最初は女の子ですよ。あのシェエスタジアムのライブ映像を見れば、ビートルズがどういうバンドだったかよく分かります。『小さな恋のメロディ』という映画があって、主人公の女の子がミック・ジャガーのポスターにキスをするというシーンがありました。皆アイドルだった。そこから大人になって、バンドとして成熟して音楽性を高めていったわけですね。ザ・タイガースとザ・チェッカーズの間には20年間の時間があります。この間にコンサートの環境とか、音楽を取り巻くリスナーの意識とか、バンド自体の考え方とかやっぱり変わったんだな、音楽は成長したんだなということを感じさせる2枚だったのではないかなと思います。それぞれの時代の青春です。1960年代の終わりにロックに憧れたバンドに夢を描いたザ・タイガース、そして1970年代から1980年代、キャロルに刺激されてバンドを始めたザ・チェッカーズ。それぞれが皆時間を重ねております。ザ・タイガースは東京ドームで復活公演を行いました。郁弥さんは武道館公演の回数が歴代3位、矢沢永吉さん、松田聖子さんに次ぐんじゃないかな。今は無観客という新しい、止むを得ずの試みではあるんでしょうが、やっぱりライブにはこういう悲鳴のような歓声があって欲しい。これがライブだなという魅力が、解散公演にはよく刻まれております。一番美しいライブが解散ライブなのかもしれません。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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