音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年8月の特集は、番外編"。
今回は、1956年と1957年のエルヴィス・プレスリーの作品を語っていく。

こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのはエルヴィス・プレスリーで「Anyway You Want Me (Thats How I Will Be) 」。「どっちみち俺のもの」という邦題がついております。1956年9月に出たシングル盤です。
甲斐バンドに「どっちみち俺のもの」という曲があるんですけども、こちらは1981年の曲。その曲名を見た時に、甲斐さんもエルヴィスが好きなんだと思って嬉しくなった記憶があります。今日の前テーマはこの曲です。

「J-POP LEGEND FORUM」2020年8月の特集は、番組始まって以来初の洋楽。番外編"全てはエルヴィスから始まった"。エルヴィス・プレスリーは1977年8月16日に42歳で他界、今年は45回忌です。
先週まで2ヶ月連続でライブ盤特集を続けてきましたが、今月は何をやろうかな? と考えておりました。あれだけ振り返ってきたわけですから、自分の原点に行ってみようかなということで、恐る恐るこの特集提案のお伺いを立てたら、すんなりとどうぞと言われたんですね(笑)。ようし、ということで始まりました、"全てはエルヴィスから始まった"。意味は二つあります、一つはもちろんロックの歴史、もう一つは私の音楽体験です。彼の名前を知らない音楽ファンはいないでしょう。でもどんな曲を歌っていて、どんな影響があったのか、何が変わったのか、どんな人だったのかということはあまり知らない方も多いかと思いますので、5週に渡ってやります。
曲が短いですから何曲かかるだろうと思っております。もし存命であれば85歳なので、目指せ85曲。今日の1曲目は私が初めて買ったレコードです、1957年発売の『Jailhouse Rock(監獄ロック)』

初めて買ったレコードなんですが、実はシングル盤じゃなかったんです。コンパクトEPというのがありまして、33回転シングル5曲入り。映画『監獄ロック』のサントラの曲が入っておりました。"しゃれた看守のはからいで かんごくでパーティーがあったのさ"と平尾昌晃さんが歌っておりました。


1956年1月27日発売『ハートブレイク・ホテル』。RCAレコードから出た最初のシングルですね。全米チャート1位が8週間も続きました。これを聴いたのが小学校の時で、なんだこれっていうのが最初の印象でしたね。聴いたことがない音楽なんだけど、身体がざわざわして。大袈裟に言うと血が逆流している感覚があったんです。
私の3つ上の姉が映画ファンで、「スクリーン」という雑誌を読んでいたんです。その中にアメリカのファンがその歌を聴くとパンティーを投げるというコラムがあって、それが食卓の話題になったんですね。そんなのがいるんだなあ、と思っていたんですが、ある時にFENか何かで聴いた時にこの曲か! と思ったのが最初でしたね。でも、その時にはこの音楽がいいとはまだ思えていませんでしたね。今聴いてもざわつく物があります。小坂一也さんが「恋に敗れた若者たちでいつでも混んでいるハートブレイク・ホテル」と歌っておりました。
メジャー1枚目がこの曲なのですが、RCAレコードはその前のサン・レコードのものも再発していたんですね。サン・レコードでのデビューシングルのAB面をお聴きいただこうかと思います。



1954年7月に発売になった「ザッツ・オール・ライト」、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」。エルヴィス・プレスリーがローカル・レーベルのサン・レコードで出した最初のシングルのAB面、そしてサン・レコード最後のシングル「ミステリー・トレイン』でした。『ミステリー・トレイン』は、1989年にジム・ジャームッシュという映画監督が同タイトルの映画を作りました。あの映画は、エルヴィスが住んでいたメンフィスが舞台だったんです。そしてエルヴィスの住んでいたグレイスランドという家も登場しておりました。サン・レコードはメンフィスにあったローカル・レーベルで、R&B系のレコードを作っていたところなんです。エルヴィスは18歳、母親の誕生日に4ドルで自分の歌をプレゼントしようと思った。いわゆるアセテート盤というやつです。それをレコーディングしようと立ち寄ったところで、サン・レコードの社長のサム・フィリップスさんという方がたまたまそのレコードを聴いて、なんだこの若者は! ということで始まりました。「ザッツ・オール・ライト」は、アーサークルダップという黒人の古いブルースです。これはたまたまエルヴィスがスタジオで遊んでいた時に、もう1回やってみろ、ということでレコードした曲なんです。曲調はカントリーですけど、歌っている原曲はブルースなんです。これが、エルヴィスが開いた新しい扉ですね。そして、『ミステリー・トレイン』が出た後に『ハートブレイク・ホテル』をRCAレコードから発売、相手が全世界になっていったというヒストリーですね。続いては、1956年の3曲をお聴きいただきます。

自分に落ち着けと言い聞かせながらお送りしております(笑)。「トゥッティ・フルッティ」は、今年お亡くなりになったリトル・リチャードが歌ってヒットしておりましたね。「ローディ・ミス・クローディ」はブルース歌手ロイド・プライス、「シェイク・ラトル・アンド・ロール」もブルース歌手のビッグ・ジョー・ターナーの曲です。エルヴィスはブラック・ミュージックを歌う白人だったんですよ。カントリーのようなギターでブルースをシャウトするという、当時のアメリカのポップス史上に無かったスタイルだった。生まれたのはミシシッピ州のトゥぺロという小さな町で、今でも生家が残っております。部屋が2つしかなく貧しい家庭で、近くにある黒人のゴスペル教会があってそこに通っているうちに、こういう音楽が身についた。エルヴィスがサン・レコードで「ザッツ・オール・ライト」を吹き込んだ当時、彼は電気会社のトラック運転手だったんです。運転手をしながら電気技師の勉強をしていた。その時の給料は週給35ドル。そんな若者が先ほどの『ハートブレイク・ホテル』で、一躍世界的なスターへの道を駆け上がるようになった。これがアメリカのポップミュージック史上、最初で最大のサクセスストーリーだったわけです。「ハートブレイク・ホテル」よりも、次の2曲が世界を席巻し騒然とさせました。1956年7月発売のシングルのAB面で、「ハウンド・ドッグ」、「冷たくしないで」。



1956年7月発売の「ハウンド・ドッグ」と「冷たくしないで」、シングルのAB面です。「ハウンド・ドッグ」が全米チャート10週連続1位、「冷たくしないで」は11週間1位を獲得しました。アメリカのチャートはジャンルで分かれているのですが、ポップチャートとカントリーチャートとR&Bチャートの3つのカテゴリ全てで1位という歴史的なヒットだったんですね。当時は洋楽のラジオの番組なんて日本では無いに等しかったので、先ほどの3曲はアルバムの中の曲だったんで、ほとんど日本では流れなかったと思います。この「ハウンド・ドッグ」あたりからラジオでもエルヴィスがかかるようになった。「ハウンド・ドッグ」という曲のインパクトは大友康平さんがバンド名にしたり、吉田拓郎さんが広島時代に組んでいたバンド、ダウンタウンズがよく演奏していました。まさにここから始まったと言ってもいいでしょうね。



1956年9月発売の『ラヴ・ミー・テンダー』。予約の段階で100万枚超えでした。これはレコード史上初めて、こういうことも全く当時は紹介されていなかったと思います。エルヴィスは、アメリカでも保守層からは総スカンを食らっていましたからね。悪魔の音楽と言われていたんです。エルヴィスのレコードのシングル盤を割るシーンがニュースで紹介されたり、教育委員会の人がエルヴィスを追放しろというキャンペーンをやったりする、主婦と子供に悪影響を与える、そう言われるような音楽だったんです。その中でサンフランシスコのDJは、エルヴィスの音楽はそうじゃないんだと言って、この「ラヴ・ミー・テンダー」を10何回もかけた、そのDJはすぐにクビになったそうです(笑)。「ラヴ・ミー・テンダー」は初の主演映画の西部劇の主題歌だったんです。最後は亡くなってしまう役柄だったんですが、エルヴィスを殺さないでというファンからの嘆願が殺到して、最後は生き返ったように歌うシーンというのが付け加えられていました。こんな話してていいのかな(笑)? と思いながらお送りしております。MTVというのはまだ無かったんですからね。動く姿は映画でしか見ることができなかったんです。でも、この「ラヴ・ミー・テンダー」は音楽映画の主題歌じゃなかった。この後、音楽映画が公開されるようになります。それでは1957年の全米年間チャート1位だった曲、イギリスでも1位になった曲、大滝詠一さんもポール・マッカートニーも、ビリー・ジョエル、ライ・クーダーもカバーしている曲ですね。「All Shook Up(邦題:恋にしびれて)」、2作目の映画『さまよう青春』の「Mean Woman Blues(邦題:ミーン・ウーマン・ブルース)」、2曲続けてお聴きください。

お聴きいただきましたのは1956年「All Shook Up(邦題:恋にしびれて)」、そして2作目の映画『さまよう青春』の「Mean Woman Blues」。「All Shook Up」は30週間もトップ100に入っていたというエルヴィスの中でも一番息の長いヒットになりました。「Mean Woman Blues」は最初の「I got a woman means as she can be」という部分でやられましたね。これは1963年にロイ・オービソンが歌ってヒットしていて、山下達郎さんがロイ・オービソンで好きだと言っていました。でもエルヴィスの映画『さまよう青春』はヒットしなかったんです。これがビートルズとの違いでしょうね。エルヴィスの映画は2週間ほどで公開が終わってしまったりしました。『さまよう青春』は1957年7月にアメリカで公開されたのですが、日本で公開されたのは1958年4月なんです。配給会社がなかなか腰をあげなかった。この映画の中では、彼は食料品店のトラックの運転手になっていて、歌手として大成功するというサクセスストーリーなのですが、主人公としては貧しくてなかなか恵まれず、ちょっと不良っぽい若者というのが多くかった。音楽もそういう風に見られていましたからね。その中でトム・パーカーさんというマネージャーがいて、エルヴィスの良さを保守的な人にも伝えないといけないという意図があったんでしょうね。この映画の後にアルバム『エルヴィス・クリスマス・アルバム』が作られているんです。その中から2曲お聴きいただきます。

1957年発売のアルバム『エルヴィス・クリスマス・アルバム』から、「ホワイト・クリスマス」、「サンタ・クロースがやってくる」の2曲をお聴きいただきました。「ホワイト・クリスマス」はビング・クロスビーの歌い方が世界中のスタンダードになっていますけど、これは全然違う歌い方でしょう、ロックン・ロール。クリスマスというやつですね。「サンタ・クロースがやってくる」のあの歌い方も、まあ気持ちいいこと。今回エルヴィスの特集をやりたいなと思ったのは、ビートルズはあれだけ語られているのに、エルヴィスはもうちょっと語られていいよなっていう想いがあったんです。ビートルズは4人メンバーですし、バンドですし、楽曲もオリジナルですから、作品論も人物論もバンド論も色々な語り方ができる。エルヴィスはそういう意味で言うと、歌っているだけと言うことになりますから語り方が少なくなるのはしょうがないんですけどね。でもエルヴィスにもうちょっと光を当てたいなっていう想いがあって、特集をお願いしたというのがあります。

この歌い方もそうですが、衝動・気分など、全てが身体で歌われているというのがポップス史上初めてだった。エルヴィス・プレスリーは、”ペルヴィス・プレスリー”というニックネームを頂戴したんです。ペルヴィスは骨盤の意味、腰で歌っているからですね。ニューヨークの人気番組『エド・サリバン・ショウ』に初めて出演した時に下半身を映してもらえなかった。これは有名なエピソードですね。でも、僕らは動く姿が見たかったわけです。音楽雑誌なんて無かったですし、写真も限られたものしか回ってこない。映画が公開される、あるいはされない、公開されてもすぐお蔵入りになってしまう。最初に買ったレコードが『監獄ロック』だって言いましたけども、アメリカで映画が公開されたのが1957年なんです。でも日本で公開されたのは1962年。あんな不良の映画は日本じゃヒットしないということで、公開されなかったんです。僕が見たのも1962年ですね。学校を抜け出して吉祥寺の映画館で見ました。今日最後の曲は映画『監獄ロック』の中の曲、「Treat Me Nice(邦題:やさしくしてね)」

この曲を歌っている時の格好がいいんですよ、私も真似しました。今週は1956~1957年が中心なんですけど、映画『さまよう青春』の撮影が始まった時に、彼に入隊の令状が来るんですね。1958年に入隊して、1960年代に全く違う姿を見せてくれるんです。『監獄ロック』が公開されたのは1960年代に入ってから。1961年に映画『ブルー・ハワイ』がヒットして、そういえば日本であの映画をやっていないじゃないかということで改めて日本で『監獄ロック』が公開されたという話は来週しましょう。

FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」番外編"全てはエルヴィスから始まった"。今年は亡くなってから45回忌、エルヴィス・プレスリーの軌跡を個人的に辿っています。今週はPart1、1956年と1957年を中心にお送りしました。流れているのは、番組の後テーマ曲で、竹内まりやさんの「静かな伝説」。1956年って相当昔ですよ。私は小学生でしたが、島倉千代子さんのデビュー曲「この世の花」、フランク永井さんの「有楽町で逢いましょう」がヒットした年です。どのくらい時代が今と違うかというと、東海道線が全線電化したのが1956年なんです。それ以前の東海道線は、SLが走っていたんです。東京から電気機関車で米原まで行って、米原から機関車がSLに変わって大阪に行く。絶句するくらい昔の感じがするでしょう。情報がどのくらい入ってこなかったのか、日本とアメリカがどれほど遠いのか、洋楽がどんな音楽だったのかっていうのが今の人にとっては全て想像の外でしょう。『ザ・ヒットパレード』という洋楽を日本語で歌うというテレビ番組もまだありません。日劇ウェスタンカーニバルが始まるのは1958年です。なぜ日劇ウェスタンカーニバルが始まったかというと、『ハートブレイク・ホテル』が出て、『ハウンド・ドッグ』が発売されて、「冷たくしないで」が世界的にヒットして、「監獄ロック」が流れるようになって、日劇ウェスタンカーニバルが始まった。ロカビリー3人男は、皆一生懸命エルヴィスを歌っておりました。すべてはエルヴィスから始まったというのは、そういう日本のポップミュージックの歴史にも関係があると思ってお聴きいただけたらと思います。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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月 21:00-22:00
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