●【画像を見る】追悼エディ・ヴァン・ヘイレン 伝説的ギタリストの勇姿(写真ギャラリー)
ヴァン・ヘイレンがデビュー作『炎の導火線』を発表するその前年、ロックにおける大きな要素といえば、長く重苦しいソロと、逆にセックス・ピストルズやラモーンズによる、黎明期への回帰を目指したようなリフだった。そこへ「暗闇の爆撃(Eruption)」が襲った。エディ・ヴァン・ヘイレンはたった102秒でロックギターという語義そのものを書き換えた。ちょうどジミ・ヘンドリックスや、あるいは彼自身のヒーローでもあるエリック・クラプトンが10年前にやりとげて見せていた通りに、だ。ひらひらと舞い踊るかのような旋律にレーザー照射のような打弦(リック)と、まさに海面をざわつかせる急降下爆撃さながらの一連だった。40年以上を経た現在でも、同曲は胸騒ぎを誘わずにはいない。たとえギターを弾かない人間でも、こう思わずにいられないはずだ。
「これはいったい、どうやってやってるんだ?」
ヴァン・ヘイレンは独学の神童だった。最初に始めたのはドラムだったが、兄のアレックスが彼の前にあったキットに、爪で”お払い箱”と刻み込んだ時、彼とパートを交代する形でスティックをギターへと持ち替えた。「暗闇の爆撃」は『炎の導火線』のレコーディングの際に、アレックスとエディが二人だけでライブの予行演習のつもりで即興で演奏していたものである。しかしプロデューサーのテッド・テンプルマンがこれはアルバムに収録するべきだと主張した。
「俺はやりたいと思ったことはなんでもやるんだ」
最初の大きな取材となった1978年のギタープレイヤー誌上でのインタビューで、エディはこのように言っている。
「あまり考え過ぎるといったことはしない。そこがこのバンドにいることの美点だよ。全部がのびのびと、勝手に出てくるんだ」
この開拓精神が、以後おおよそ40年にわたった彼の生涯のすべてにおいてエディを引っ張っていった。10月6日に癌による悲劇的な死を遂げてしまうまで、ということになる。彼がロックミュージックにもたらした革新は、枚挙に暇がない。楽器の奏法を、急進的ともいうべき勢いで先鋭化したのみならず、その製造方法や、あるいは音の鳴らせ方に至るまで、すっかり定義を改めてしまったのである。あの名高き”フランケンシュタイン”のギターは2019年にメトロポリタン美術館で開催された”喧しく鳴らせ(プレイ・イット・ラウド)”展において展示されることともなった。また、彼のギターのうちの別の一本は一度スミソニアンを飾ってもいる。これらもだが、彼が芸術と文化に及ぼしたその影響を表わしているたった二例に過ぎない。以下、彼が”ロックンロール”という言葉そのものにもたらした大いなる貢献について語ろうと思う。
1. 彼はあたかもピアノのようにギターを操った
もちろんクラシックの分野のギタリストたちにより、弾く方の手に、普段はフレットを押さえている手がやっている、音程を決める方の操作を担わせる方法は、すでに開拓されていた。フレージングの領域を音楽的に拡大することが目的だ。
「僕はジミー・ペイジのやるのを見ていたからね。(打弦(リック)による早引きの箇所を歌って見せる)こんな感じさ。片手だけのやつ。『ハートブレイカー』だ」
2008年の「ローリングストーン誌」のインタビューで、どうしてあんな奏法を始めたんですかと訊かれ、エディはこのように答えている。
「自分もこんな感じにできるなと思ったんだ。あと、聴く方には僕がこの指か、それともこっちの方の指を使ってこの音を鳴らしているかはたぶんわからないだろうな、ともね。
2. ギターに関してはマッドサイエンティストさながらだった
職人気質のエディは自分の楽器の力を最大限に引き出せるよう、改造・調整する方法をつねに探し求めていた。自分の頭の中にある音を出させるためこの楽器を最適化すべく彼が取り出したのは、紙ヤスリとノコギリである。最も有名な彼のギターは、その誕生の仕方にちなんで”フランケンストラト”か、あるいは”フランケンシュタイン”の名前で知られている。彼が50ドルで買ってきたシャーベルのボディに、80ドルでやはり別に買い求めたネックを自らの手で繋いで造り上げた楽器だったからである。さらに彼はよりふくよかな音を得るため、ボディにはハムバッキングピックアップを搭載する剛胆さも持ち合わせていた。レスポールなど、ギブソンのギターに典型的な仕様だ。
「とにかく何度も実験したよ」
やはり78年のギタープレイヤーのインタビューで彼はこう言っている。
「ピックアップをブリッジに本当に近づけちまうと三つの音がいっぺんに鳴ってるような響きになる。だから、やり過ぎるとリズムギターには相応しくない音になっちまうんだ。僕はもうちょっと離した方が好みだ。
フレットも自作で取り付け、当時のギターには標準仕様だったツマミやスイッチの類は全部要らないものとした。使ったのはヴォリュームコントロール一つきりだ。そして、楽器自体を鋭角的な縞模様に塗装した。
彼はまた、ギブソンエクスプローラーのコピーモデルを電動ノコギリで切り刻んでもいる。フライングVに似せたかったらしい。
「誰もギターをどう扱えばいいかなんて教えてくれなかったからね。試行錯誤で覚えていったよ」
同じギタープレイヤー誌の取材で彼はこうも語っている。
「だから僕はこんな具合にたくさんの素晴らしいギターをめっちゃくちゃにしてもきた。だけど今は自分のやっていることもわかっている。こうであって欲しいと思うような姿に楽器を近づけていくためならなんだってできる。店でただ買える、吊るしっていうか、既製品のギターなんてのは大嫌いでね」
もちろん彼は自分の楽器をいじくり回すことに飛び抜けていた最初のギタリストだった訳では全然ない。例を挙げればデイヴィッド・ギルモアには自分の”ブラックストラト”があったし、レス・ポールには最早お化けみたいな”レス・ポール”がある。
さらに彼はギターの世界全体に幾つかの技術革新を持ち込んでもいる。やはりギタリストのフロイド・ローズとともに、音程を安定させるビブラートユニットの開発にも取り組んだ。チューニングの狂わないようなブリッジにするようローズを促したのが彼なのだ。ギターを支え、タッピング奏法をより容易にする装置については自ら特許も取っている。特許はこれだけではなく、ギタリストが簡単に最低弦の音程を一音下げられるようになる「Dツナ」と呼ばれている装置も彼の発明だ。独自の形のギターヘッドと、やや膨らんだ形状のハムバック機能を備えたピックアップについてもやはり特許を取得している。フェンダーと共同で開発した特殊ハムバッカーについても申請は為されているのだが、こちらはまだ特許までは降りずにいる。
3. 職人業はギターの領域に止まらなかった
「サンシャイン・ラブ」のような楽曲で聴ける、いわゆる”ウーマントーン”を開発したエリック・クラプトンを擁したクリームの大ファンであれば、エディ自身は”ブラウンな音”と称するサウンドに狙いを定めていた。先のフランケンストラトの音を1968年型のマーシャルのスーパーリードアンプを通じて出し、ソロにハイエンドを加味するためのMXRのフェイズ90と、それからエコーとを繋いで、彼はこの音を実現した。ことアンプの調整に関しては彼は些細な嘘をついており、同じ事をしようと試みた数多のアマチュアたちの機械をダメにさせてしまったりといったこともあるにはあったのだけれど、実際に彼が使用していたのは可変AC変圧器(ヴァリアック)だった。アンプに通る電流の電圧を変えられる電子機器である。
4. ニューウェイヴの全盛期に、あえてキーボードのあるハードロックに挑んだ
ロックがエディ・ヴァン・ヘイレンによる、フレットから今にも火でも出てきそうなあの技術の模倣ばかりにすっかり身を浸していた時期は、ブロンディやデュラン・デュランといったバンドたちが、叙情的なニューウェイヴの楽曲群でチャートを席捲していた時期でもあった。ここで彼はシンセサイザーを基盤としたトラックでハードロックのヒットを放つという離れ業を成し遂げてみせる。「ジャンプ」には輝くばかりのギターソロがあるだけではない。今さらと聞こえるかも知れないが、こちらもまた、衝撃的なキーボードに全編を引っ張られているのである。
鍵盤の使用に関しては、ここまでに彼は「ロックン・ロール・ベイビー」や「ダンシング・イン・ザ・ストリート」のヴァン・ヘイレン・バージョンなどですでに実験を積み重ねてきていた。後者はバンドが最もディスコに接近した例ともなろう。しかし「ジャンプ」にはこいつにしかない独自の要素があった。楽しげで、かつタフなのだ。同じような気概で、やはりシンセをメインに据えていたジャーニーがやろうとしていたどの目標より、たぶん一番難しいところにまで届いている。そのうえ同じ『1984』のアルバムで彼は、ある意味ベースが全体を牽引するバラードだとも呼べそうな「ウェイト」で再びシンセを弾き、こちらもまたヒットにしてしまう。鍵盤は時代を下ったサミー・ヘイガー時代のヴァン・ヘイレンにおいて、たとえば「ドリームス」や「ライト・ナウ」に「ホエン・イッツ・ラヴ」といった辺りに明らかであるように、より大きな比重を占めるようにもなっていく。
5. 彼は曲そのものもソロと同じように発想した
「暗闇の爆撃」は自ずと湧き上がった奔流で、ピッキングハーモニクスに超早弾きに、タッピング奏法にどこまでも揺れて鳴り止まぬ弦と、もうすでにてんこ盛りだった訳だけれど、そこから先もヴァン・ヘイレンは、インストゥルメンタルの小品において一層の深化を見せていく。
『伝説の爆撃機(VAN HALEN II)』所収の「スパニッシュ・フライ」ではタッピング奏法と超絶光速運指とを、舞台をアコースティックギターに移して実践してみせる。『戒厳令』の「サンデイ・アフタヌーン」では、レッド・ツェッペリンばりの”ミスティ・マウンテン・ジャム”とでも称すべきものをアレックスを相手にキーボードを武器に繰り広げている。『ダイヴァー・ダウン』所収の「大聖堂」は、バイオリン奏法と呼ばれるボリュームの調節によるトリックだ。この手法が彼のギターをまるでキーボードのごとく聴こえさせている訳だが、同曲には古典の風格すらある。同じアルバムの「リトル・ギターズ(イントロ)」はガットギターのための練習曲(エチュード)だ。『F@U#C%K』の「316」は、もしサミー・ヘイガーがヴォーカルを載せていたならばアコースティックのバラードとして仕上がっていたかも知れないが、そのままで十分美しい。
そして『バランス』所収の「バルチテリウム」は、エディが、よし凌駕するまでではないとしても、自身の後を追う形で台頭してきたスティーヴ・ヴァイやジョー・サトリアーニといった、その分野の新たなギターヒーローたちとも同じ程、インストゥルメンタル・ジャズロックの世界をも揺さぶって、切り崩していけるだけのプレイヤーであったことの動かぬ証拠となってもいよう。それ以上に「パナマ」や「ライト・ナウ」といったロックナンバーでは、強度の動きとでも言うべき部分にある種の美が見つかる。しかもエディは、いつだって苦もなくこれらを成し遂げてきたのである。
6. 彼はヘヴィメタルを楽しくしてくれた
70年代初頭から中盤にかけての時期には、ヘヴィメタルとハードロックの分野は、たとえばブラック・サバスの陰鬱な挽歌やレッド・ツェッペリンの神秘主義、あるいはディープ・パープルやジューダス・プリーストに代表される、脇目も振らずに突っ走り続ける、男が惚れる男らしさ的な要素によって特徴づけられていた。ヴァン・ヘイレンはだが、ヘヴィメタルを踊れる音楽にしていった。
なるほどデイヴィッド・リー・ロスは、それこそ肩で風切るようなかつてのヴォードヴィル芸人を思わせる芸風で、当然のごとく衆目を集めていた。息子さんの上向き具合を見たことあるのかい?的なあれだ。だが、叩きつけてくると同時にノれてもしまうしなやかなリフを繰り出して曲のサウンドを決定し、軽やかでかつ明るいソロへと自然に雪崩込んでいっていたのはエディの方だ。軽くて明るくてなんてのは、ロックの重々しき翼の下では、こんな形ででもなければむしろ忌み嫌われていた二つの言葉でもあったものである。ラットやモトリー・クルーといったハードロックのグループが、このヴァン・ヘイレンのお祭りバンドぶりをどうにか真似しようとしていたものだが、同じ地平にたどりつけることはなかった。ヘイガー期になってもエディのギターは、よしそれ以上ということまではなかったとしても、ヴァン・ヘイレンという経験にとっては等しく重要な重さを担ったもう一つの声だった。誰もが引き込まれずにはいられなかった。
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