LOW IQ 01のインタビュー連載企画「イッチャンの青春時代」。1990年を振り返った前回に続き、第9回は「1991年編」。
イッチャンが過ごした1991年とは? 当時の世相とともに語り尽くします。

ー今回は1991年になります。イチさんは年齢でいくと20歳くらいですよね。音楽活動も含めて全般的にどういうことをしていた年ですか?

1991年4月にAPOLLOSというバンドに加入しているんですよ。初レコーディングをやったのもAPOLLOSで、ヤン富田さんがプロデュースのレゲエコンピ・アルバム『See Ya!』に参加させてもらった。ザ・クラッシュのカバーで「I Fought the Law」をレゲエ版でやったんだよね。
しかも、今でも忘れないけど、ビクタースタジオで。その時にびっくりしたのが、キョンキョン(小泉今日子)がヤン富田さんと仲良かったみたいで挨拶しに来たんだよね。俺、衝撃を受けちゃって未だに忘れないのはPUMAのスエードのスニーカーを履いてたのよ。

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ー今でもリバイバルで履いている人多いですよね。

そうそうそう。ビースティ・ボーイズとかが履いてたね。
キョンキョンがめちゃくちゃかわいくて衝撃を受けて、言葉が出なかったのを覚えてる。その後、もう1個1991年にトリビュート・アルバム『ア・トリビュート・トゥ・ゴジラ』にAPOLLOSで参加して。当時、フジテレビが曙橋にあった時、近くにスタジオがあって、そこでレコーディングをしたのよ。その時のエンジニアさんといろいろ喋ってて、フジテレビ近いから、食堂に結構行くって話を聞いて。それで、メンバーと「じゃあ行ってみよっか」ってなったんだよね。その時楽器を持ってたから、楽器持って「おはようございます!」みたいな感じで、関係者ヅラして入っていって。
今でも忘れもしないけど、入った瞬間に宮沢りえ。

ーそれこそ、とんねるずの番組とかに出始めた頃ですかね。

宮沢りえが1番すごい時で、「前、よくフジテレビの食堂に宮沢りえがいた」って話をエンジニアさんから聞いてて、「いたらいいね」なんて言ってたら、フジテレビ入って5秒くらいで前から歩いてきて。オーラが半端なかった。だから、『See Ya!』と『ア・トリビュート・トゥ・ゴジラ』は日本の大アイドル2人に会えたという思い出話ですね。この2枚のレコーディングをしてなかったら、会えなかっただろうな。
その話で続くと、1991年の出来事を見ると、若貴・外人力士ブームで、若貴、曙、武蔵丸とかが出てくる感じだよね。当時、貴乃花の人気が火ついて、若乃花があまり目立ってなくてちょっとかわいそうだった。弟ばかり追いかけられて、お兄ちゃんをインタビューしたら、「僕なんかいいですよ」みたいな様子がワイドショーで流れてたんだよね。後にお兄ちゃんが小さい体なんだけど実力で最後は横綱までいったというね。その繋がりで言うと、千代の富士ですよ。千代の富士が引退した。
ここで名言「体力の限界」。もともと引退を決意したのは、若乃花に負けたからなんだよね。そこにもドラマがあって、実はお父さんの貴乃花は、新人時代の千代の富士に負けて引退を決意したんだよね。話は変わるけど、1991年は芝浦にジュリアナ東京オープンだね。

ーイチさん、ジュリアナに顔出したりしてたんですか?

一回も行ったことがない。俺はインクスティック。
芝浦は1989年に閉館して、後に倉庫街の鈴江に場所が変わったんだよね。そこでAPOLLOSでも出たし、アクロバットバンチでも出てる。インクスティック芝浦時代なんだけど、ザ・コレクターズのローディーをアイゴンがやってたから、手伝いで付いていって。田無レーンでライブ前に古市コータローくんと一緒にビリヤードをやったんだよね。俺、その時調子よくて、「プールバーとか結構行ってんじゃないの?」とか言われたの、すげー覚えてる。あと覚えてるのは、東京の23区の電話番号の03の後に3がついて10桁になったというのが1991年1月。APOLLOSのバンドメンバーが電話番号が書いてあるTシャツを作ったのよ。当時バンドってカセットテープのデモで、コンタクトの取り方として平気で自宅の電話番号とか入れてた。Tシャツに番号を入れてるんだけど、まだ10桁じゃなくて、9桁の頃の番号を入れてて。その後にどんどん増えていったんだよね。あと、SMAPがCDデビューした年だね。SMAPってもっと前から結構テレビに出てたんだよね。慎吾ちゃんが柴田恭兵のモノマネで「関係ないね」って子どもの声でやってて、まだすげー背が小さかったんだよ。あとはファッションだよね。ジュリアナ東京スタイルってまさにワンレンボディコン、ジュリセンですよ。

ーよくテレ朝の『トゥナイト』でこのへんのムーブメントをオンエアしてた記憶がありますね。

それと、渋カジって1980年代のものだと俺は思ってるんだよね。どっちかと言うと、1991年はキレカジだよね。紺ブレなんだけど、この時代になってくると、アメカジは俺らぐらいの歳なのよ。結構うちの地元の後輩は自由が丘に溜まってて。キレカジっていうのは、もう渋谷じゃないんだなって感じはすごいした。

ーアメカジってちょっとストリート感があったけど、キレカジはそういうところから一線を画してる雰囲気がありましたよね。

ちょっとインテリ感があったよね。男の人はみんな髪の毛がセンター分けの長髪だった。60年代リバイバルっていうのはベルボトム。これ、前々回のガンズ・アンド・ローゼズとかから来てると思うんだけど、だんだんヒッピーな感じになってるのかね。Tシャツは古着のピタTだったような気がする。ストリート系インディーズブランドと言うと、すごい覚えてるのは雑誌『Fine』。前回言った『CUTiE』もそうだけど、『Fine』がサーフィンからストリートにだんだん移行してきたから、スケボーとかの文化になってきた。クラブキッズの間でSTUSSYのバケットハットがすげー流行ったの覚えてる。あとはアディダス。俺の中ではアディダスって永遠だからさ。80年代の中期にRun-D.M.Cが流行らして、しかもスーパースターを紐出しで履くというスタイルだよね。それこそ、ビンテージジーンズもそうなんだけど、Gジャンだね。1st、2nd、3rdで20万、30万円の世界になってきちゃったんだよ。俺はずっと3rdが好きだから、3rdしか着てなかったけど。服装とファッションは90年と91年ってそんなに大差ないんだよね。

ー次はヒット商品、新商品の部分ではどうですか?

携帯電話が出てきて、俗に言う芸人の平野ノラさんがやってる「しもしも~」だよね。あれが本当にリアルタイムで。俺の友だちに金持ちの社長の息子がいて、よく遊んでた時があって、彼の車の中に携帯電話があったんだよ。「何これ⁉︎」って衝撃的で、それをちょっと使わせてもらって、友だちの家に遊びに行く時に「じゃあ、この携帯で家の前から電話しようよ」って言って。当時、携帯なんてなかったから、大体一人暮らししてる人の電話って玄関にあったわけよ。だから、玄関のドアの前から電話しようってなって、中から音が聴こえてきたら出て、ピンポン鳴らして、ドア開けて「え⁉︎」って驚かせることをよくやってた。たしか『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で高田純次がやってたんだよな。

ーそれを真似して、遊んでたってことですね。

まだ全然ポケベル世代だとは思うのよ。でも、一応携帯電話ができた。1991年のヒット商品になってるけど、こんなもの一般の人には手が届きませんよ。あと、この時も結構有名だった女子プロのレジー・ベネットがやってた「ダダーンポヨヨーンポヨヨーン」のピップの栄養ドリンクCM。もともとピップエレキバンのCMって子どもの頃、樹木希林さんと会長が出てきたじゃない? そんな感じで続いてたんだけど、レジー・ベネットで衝撃だった。あとはもう俺、1991年の思い出って大ヒット商品のカルピスウォーターなのよ。カルピス原液をミネラルウォーターで割っても、あの味は再現することが出来なかった。聞いた話によるとバカ売れしたから、カルピスウォーターの社員旅行がハワイで、家族まで連れて行けたっていう、すごくいい時代だと思ったんだけど、よくよく考えたら1991年ってバブル崩壊って言われた年で、ちょうど湾岸戦争も始まったよね。それこそ、暗い画面にビュンビュン緑色のミサイルが飛んでる映像がテレビでやっててさ。

ーメディアが生中継する最初の戦争が湾岸戦争だったと言われていますよね。

そう、だからあんなミサイル初めて見た。ミサイルがビュンビュン飛んでるのを見て、ゲームみたいな世界で、ほんとに戦争が始まってるんだなと思って。この時の首相は海部俊樹だったよね。APOLLOSに入った年って、いろいろ忘れられないことがあるんだよな。あとは1991年で言うと、「バツイチ」って言葉が初めて出てきて。これは明石家さんまが最初なんだよね。言葉というか、記者会見で離婚体験としておでこにバツを1個書いたのよ。それでバツイチ。「それなんですか?」って訊かれて、「ここにバツがつきました」ってさんまが言って、そこからバツイチって言葉ができた。

―そうだったかもしれないですね。

じゃあ、次いきましょうか。さっきも話に出たけど、宮沢りえの写真集『Santa Fe』ですよ。当時、俺は宮沢りえの大ファンで、周りもみんな俺がファンなのを知ってるから、朝一で地元の友だちから電話がかかってきて。「いっちゃん大変、新聞見て」って言われて。読売新聞の真ん中に一面で載ってて、衝撃だった。全新聞でやって、しかも告知なしの全盛期のトップ中のトップが突然写真集。今で言う広瀬すずが写真集出すみたいなものだろうね。もう友だち皆で写真集を片手に試写会みたいなのしたもん。でも、これって篠山紀信じゃない? ヘアヌードだけど、この前にちょっと話題になったのが、樋口可南子。

ー樋口可南子さんでヘアヌードが問題になったんですけど、徐々に黙認され始めた状況ですね。

昔、雑誌は必ず黒い墨みたいなもので塗ってたもんね。男はバカだから、バターを塗ると落ちるよとか言ってた(笑)。でも、それは1980年代の話だからね。そういうのもなくなってきて、これが解禁っていうわけじゃないけど、コンビニとかでも、普通に見れるようになっちゃったしね。次は「じゃあ~りませんか」だよね。これもある意味衝撃で、東京の人間だから新喜劇を知らないわけよ。どちらかと言うと、フリーキーな感じがしておもしろさより恐怖を感じた。これはポケ飯のCMなんだよね。ベストセラー書籍だと、もちろんさっきも出た『Santa Fe』ですよね。当時の高校生男子は必ず持ってたもん。それはベストセラーになるわ。何百万部が、宮沢りえの記録だよね。あとは本だと、『タモリ・ウッチャンナンチャン世紀末クイズ』も入ってるけど、お笑い第3世代、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンがゴールデンに来るわけよ。その話の続きでいくと、『宜保愛子の幸せを呼ぶ守護霊』で宜保愛子の時代がきて、とんねるずが宜保たか子ってモノマネしてた。

ー次は1991年のヒット曲だといかがでしょうか。

この年のヒット曲って全部ドラマじゃない? トレンディドラマ、月9の金字塔ですか。歌の思い出というわけじゃないけど、「ラブ・ストーリーは突然に」は最初のギターのカッティングだよね。当時、俺はトレンディドラマというものが世の中に乗っかってるみたいで嫌で。『東京ラブ・ストーリー』も最初は観ないアンチだったけど、友だちの家で再放送しててハマった。トレンディドラマっておもしろいんだなと思って『101回目のプロポーズ』で大ハマリしたんだよね。「僕は死にません」は流行語だよね。『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』のコントとか、鶴瓶もよく「僕は死にましぇん!」のモノマネしてた。ヒット曲で言うと、「愛は勝つ」。これも同じく『やるならやらねば!』で内村が唇をすごい太く塗ったメイクして出て、ひどいモノマネをしてたの覚えてる。キョンキョンの「あなたに会えてよかった」もドラマ『パパとなっちゃん』の主題歌だよね。浜田雅功が初めてドラマに出たのを覚えてる。酒屋の兄ちゃんかなんかの役で、いつも軽トラ乗ってるんだよ。あとはもう、「しゃぼん玉」でしょ。これはもうすごいですよ。「とんぼ」以来の衝撃ですよ。長渕剛が演じる西新宿のポー先生。最後がすごくて、演説みたいになっちゃうんだよね。好きで観てたな。まだ西新宿が今みたいに都市開発されてない時なんだよね。結局、この時に売れた曲はドラマ主題歌なんだね。

―1991年の邦画で印象的だった作品は何かありますか?

『男はつらいよ 寅次郎の休日』。寅さんには詳しくなりましたよ。だんだん渥美清さんが歳をとってきて、満男の話になってくるわけよ。あとは『波の数だけ抱きしめて』は中山美穂と織田裕二が主演で、地方ケーブルラジオ局の話じゃなかったかな。ラジオの電波で「好きだ―」って織田裕二が言うのを覚えてる。それがトンネル入るか入らないかで、電波が届くか届かないかみたいな。洋画だと、俺の中でダントツ1位は『ゴースト ニューヨークの幻』。これはね、泣いた。

―テレビドラマはどうですか?

テレビドラマの話はさっき散々しちゃったな。でも、おもしろいのがあるよ。『もう誰も愛さない』。吉田栄作の全盛期だね。ジーンズにTシャツ1枚ですよ。ツーブロックでタバコをTシャツに巻く吉田栄作スタイル。その時に吉田栄作って熱い発言ばかりしてて、結構プスっと笑う感じだった。『とんねるずのオールナイトニッポン』で「熱いぜ栄作コーナー」っていうのがあって、それがすげーおもしろかったんだよね。「この間、栄作が言ってた、俳優は早食いとかそういうのやっちゃだめだよね」とか言って、当時って『笑っていいとも!』で峰竜太がすげー寿司の早食いを売りにしてて。「栄作、峰さんは悪いんか」って、ラジオのリスナーからハガキが来てた。そういうのもあって、吉田栄作がおもしろかったんだけど、『もう誰も愛さない』自体もすっげーおもしろいんだよね。山口智子と田中美奈子と薬丸裕英、観月ありさが出てて、みんな悪いんだよね。観月ありさだけいい子で、『アウトレイジ』と一緒で、出てくるやつほぼワルっていう。あと、『逢いたい時にあなたはいない…』ってドラマがあるんだけど、なんだよこれって思ったのが、中山美穂の相手役が大鶴義丹なのよ。親の七光りもいいところじゃねえかっていう思い出しかないね。今となってはおもしろいおじさんだけど、当時は一般人が出てきちゃったと思った。

ー他に印象的なドラマありますか?

『学校へ行こう!』かな。生徒役が中居正広と稲垣吾郎で、あとは島崎和歌子。これも結構おもしろいドラマだった。SMAPって1番最初に出てきたのはイメージ的に吾郎ちゃんなんだよね。木村拓哉じゃない。吾郎ちゃんは柳葉敏郎と陣内孝則が主演の映画『さらば愛しのヤクザ』にも出てて、最初のSMAPは吾郎ちゃんで火ついたと思う。他にはドラマじゃないけど当時、23時ぐらいの番組で、『カノッサの屈辱』があった。食べ物とか、商品とかを歴史上に置き換えて、戦争するんだよね。この時代の23時の枠っておもしろかった。時代的に『ダウンタウンのごっつええ感じ』も始まったのか。毎週放送になったけど、最初は火曜ワイドスペシャルで何回かやって、レギュラーになったんだよね。あとはバブルガム・ブラザーズの「WONT BE LONG」がめちゃくちゃ流行った。『オールナイトフジ』が91年3月に終わるんだけど、最終回が結構めちゃくちゃで、とんねるずとか出てきて。バブルガム・ブラザーズも出てくるんだけど、最後「WONT BE LONG」を何回も歌うくどい締めだったのを覚えてるなあ。あと、テレビだとなんだろう。意外なのが『ライオンのごきげんよう』が始まったんだよね。

ー『笑っていいとも!』の後の番組ですよね。

いいともが終わった後の30分って、そのままアルタで『ライオンのいただきます』だったじゃん。で、それが終わって、『いただきます』の2があって、1991年に『ごきげんよう』になった。だから、サイコロトークの「何が出るかな♪」っていうのも、ここからやっているわけよ。俺はスーパーニートだったから、いいとも放送の時間ぐらいから起き出して、ずっとダラダラと暮らす生活。でも、もうAPOLLOSやってるから、自分でやっとミュージシャンって胸を張って言える年になった。1991年はNUKEY PIKESのアルバムを聴いて、すげー衝撃を受けたかな。とにかくかっこよかった。

ー1991年はレッド・ホット・チリ・ペッパーズの『Blood Sugar Sex Magik』が出てる年みたいですね。

渋谷のタワーレコードでCD買って、そのままアイゴン家でみんなで酒飲んで聴こうってなったんだけど、「1曲目、どんな感じで来る⁉︎」ってなって、チョッパーベースで始まるかなあって思ってたら、全然違う感じで始まって、みんな予想が外れたっていう。すごいPバンド寄りになったなと思った。でも、このアルバムはレッチリの中で1位、2位を争うくらいの名作だと思ってる。もちろん、『Mothers Milk』が好きだったから、最初は地味に聴こえちゃったけど、聴けば聴くほどすごい。これでレッチリはスタジアムクラスのバンドになったんだよ。それこそ、「Under The Bridge 」とかじゃない? バラードみたいな曲をやって、前のギタリストの歌を歌ってるんだよね。1991年って、ちょうどザ・マイティ・マイティ・ボストンズが日本に紹介されて、1stアルバムの日本版を初めて聴いた。それで俺、今でも覚えてるんだけど、今はスカコア、メロコアが当たり前だけど、当時ザ・マイティ・マイティ・ボストンズはハード・コア・スカメタルって書かれてた。

ー世の中的な音楽の話だとニルヴァーナの『Nevermind』が出た年みたいです。

そうだね。俺はどっちかと言うと、レッチリ派だったから、最初は「サブ・ポップとか、グランジって何?」って感じだった。後に俺はフー・ファイターズを好きになってから、ニルヴァーナを好きになったタイプで。この時、みんなハーフパンツで、スニーカー履いてキャップ被ってスケボーをやる感じになってたけど。俺はグランジのボロボロのスニーカーにボロボロのデニムが、いただけなかったな。セックス・ピストルズのアルバムタイトルが『NEVER MIND THE BOLLOCKS』だから、どうしても受け入れづらかった。ちょうどロックという言葉が世代交代してきたんじゃない? 例えば、ビートルズだったり、ローリング・ストーンズは現役だったけど、第一期のロックじゃなく、第二期の俺ら世代のロックが来た感じがすごいするね。ロックンロールじゃなくなった。分かりやすく言うと、メタリカとかもめちゃくちゃ変わってきてるはず。

ー1991年はメタリカがブラック・アルバムを出してるんですよね。

ちょうどメタリカも速い曲じゃなくなってきたわけよ。メタルがグランジ系に寄ってきてしてきて、メタリカとかそういう感じになっちゃったんだよね。あとはパンテラとかだよね。かっこよかったもんなあ。

ー1991年は本格的に今のイチさんに繋がるターニングポイントになったんですね。

初めてレコーディングスタジオに入って、初めてレコーディングマイクの前で歌って、ヘッドホンをして、こんなに音が綺麗なんだって衝撃を受けた。ゲストミュージシャンとかじゃなくて、バンドで参加したから、自称ミュージシャンの自称が取れた元年。僕の音楽歴はここからじゃないかな。初めてCDを出した年が、1991年。だから、本当は30周年なんですよ。

ー1991年がイチさんの芸歴1年目ということですね。

そう、ミュージシャン歴1年目です。1980年代の時も、もちろんライブハウスでやったりしてたけど、デモテープだけで。レコード会社からCDを初めて出した1991年が俺のミュージシャン元年かな。