四半世紀以上にわたって日本のヒップホップ・シーンの業界を支えてきた唯一無二のA&Rが、この岡田麻起子だ。90年代前半から日本のヒップホップ・マーケットを開拓し、MICHROPHONE PAGERやRHYMESTERらと幾つものクラシック・アルバムを世に送り出した。
日本のヒップホップの原点を作り上げた彼女の発言に注目だ。

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ーヒップホップと出会った頃のお話から伺えますか?

岡田 大学受験の勉強をしているときにラジオを聴いていて、それがいとうせいこうさんと藤原ヒロシくんが喋っている番組だったんです。そこで、「今、NYではヒップホップというのがアツいらしい」と言って曲がかかっていて。それと、受験勉強のために図書館に通っていたんですけど、その図書館が原宿にあったんですよ。当時、原宿には「A store Robot」というお店があって、そこに高木完さんとか藤原ヒロシくんとか、そういう人たちがたむろしていたんですよね。私は普通に客として行っていたんですが、お店のお兄さんとかと喋る機会が増えてきて、お店の中でターンテーブルを使って曲を繋いだものがかかっていたんです。
それで初めてDJというものを知った。当時はカルチャー・クラブとかデュラン・デュランとかが流行っていたころだったんですが、私はニューウェーブやパンクが好きで、ラバーソールを履いて、イベント「ロンドン・ナイト」でも有名だった「TSUBAKI HOUSE」に通っていたんです。パンク・ミュージックが好き、という気持ちが根底にあって、最初にラジオでヒップホップを聴いた時も「これは新しいパンクだ」という風に勝手に解釈して。どちらかというと、マインドから入っていったのかもしれないですね。そこから、自分なりに情報集取したり、ターンテーブルを買ったりしていました。門限が厳しかったから、決められた時間だけ原宿のClub Dや西麻布のTools Barなどのクラブに行って。
その頃は、一部ですでにヒップホップがかかり始めた頃だったと思います。大学に入ったら、私同様に学校で浮いていたようなヒップホップ好きな学生たちともつながり始めて、一緒にレコード屋に通うようになりました。

ーその後、ソニー・ミュージックへ入社したと伺いました。

岡田 在学中、スタイリストのアシスタントなんかもしていたんですけど、なんとか大学を卒業してソニーに入ったんです。その時、すでにソニーではスチャダラパーや完ちゃんの作品をリリースしていたので、「ここだったらヒップホップに関わる仕事ができるんじゃないか」と思って。営業部に配属されたんですが、水が合わないというか、体質的にメジャーでやっていける気がしなかった。
「私、ここだとダメかもな」と思っていたら、地方への辞令が出たんです。そこで、「転勤してまでここにいる意味がないかな」と思って10カ月でソニーを退社しました。そのタイミングで、当時のエピックソニーの社長が「お前、ヒップホップやりたいんだったらFILEに行けよ」と言ってくださったんです。それで、FILE RECORDSに入社しました。

ー当時のFILE RECORDSというと、どんなラインナップをリリースしていたのでしょうか。

岡田 元々FILEからリリースしていた東京スカパラダイスオーケストラやスチャダラパー、高木完さんたちはもうソニーに行っていて、そのときは石田さん(ECD)を始めとしたMAJOR FORCEの他、モッズ系のレーベルがありました。
私の中では、「こんな性格だし、続くかどうか分からないから、やれるだけやってみます」という気持ちで入ったんです。ただ、その当時から自分の中では、MICROPHONE PAGERをやりたいと勝手に思っていた。ソニー時代も同じように思っていたんですが、なんだかそういう雰囲気じゃないな、と感じていて。FILEに入ったからやれるんじゃないか、と思って。その頃、MUROとは「DJS CHOICE」っていう当時あったレコード屋兼洋服屋で顔を合わせることがあって、そこで挨拶するような関係でした。

ーそれから、実際にMICROPHONE PAGERの制作に携わるようになった?

岡田 最初に制作をスタートしたのはキミドリだったんですよ。
プリプロダクションをやっているときに、MUROが、ペイジャーの活動に先駆けてMuro For Microphone Pagerという名義で12インチを出したい(「Dont Forget To My Men」)という話があり、それがほぼ同時進行だった気がしますね。RHYMESTERのプリプロも同時進行だった記憶があります。私自身も新入社員だったので、営業と制作を兼任みたいな。いろんな意味で、評価されるまで時間がかかったなという印象ですね。社内でも日本語ラップ容認はされていたけど、すぐに実績を出せたわけじゃないので。おもしろいアーティストやってるな、とは思ってくれていたと思います。


ヒップホップとメジャーレーベルとの関係性

ーMICROPHONE PAGERがFILE RECORDSから1stアルバム『DONT TURN OFF YOUR LIGHT』を発表したのが1995年ですが、その当時、どういったアプローチを行なっていたのでしょうか。日本におけるヒップホップのマーケットも、今に比べると未成熟な部分もあったのではと思うのですが。

岡田 「売れないわけがない」と思っていたんですよ。「この良さを分かんないヤツの方がイケてない」っていうか。アーティストも、「ヒップホップは売れてないから」と言いながらも、どこかにそういう意識があったんじゃないかと思います。勝手にみんなで「売れたらさ~」って話しながら、将来の絵図を描いていたこともあったし。今にして思えば、卑屈なことを言いつつも誇りを持っているという感じでしたね。自分たちが最先端なんだっていう意識もあったと思います。

ー「日本のヒップホップが上を向いてるな?」と、追い風を感じる瞬間はありましたか?

岡田 90年代半ばくらいまではなかったかな。細かく言えば、MUROの12インチが、その当時では破格の枚数が売れたというレベルの反響はありました。流れが変わったと感じたのは96年くらい。EAST END×YURIの「DA.YO.NE.」(1994年)が売れて、世間がラップというものに抵抗を感じなくなったあたりが手応えといえば手応えかもしれません。同時に、メジャーレーベルが(ヒップホップに)手を出してきたな、という印象はありましたね。

ー少し話が飛躍してしまうのですが、岡田さんはFILE RECORDSを離れた後も、一貫してインディペンデントのアーティストを支えてきたという印象です。メジャーレーベルと契約する若いヒップホップ・アーティストもどんどん増えていますが、ヒップホップとメジャーレーベルとの関係性をどのように捉えていますか?

岡田 昔は、正直言ってメジャーの資本を使わないとそこまで出来なかったという状況でもあったと思うんです。「我慢はするけど、言いたいことは言う。むしろ利用すればいいや、なおかつ、最終的に納得する形に落とし込めれば」と思っていました。今は「メジャーに行くメリットって何だろう?」と思うところもあって。TuneCoreを使って配信すれば、しっかり(利益が)入ってくるし、原盤権を渡すこともしなくていいですから。

ーメジャー/インディ問わず、ヒップホップのアーティストを支える裏方も不足しているのかなと感じることもあります。

岡田 裏方がいないのは永遠の課題なのかなと思いますね。そこは、30年前から変わっていないと思います。アーティストのなかには社会性が乏しかったりする人もいるけど、「次も仕事したい」と思わせるに越したことはない。そこをフォローできるのは裏方しかないわけで。本当は、私たちが裏方を育てていかねばならかったと思うんですが、振り返ってみるとそんな余裕もなくて。「自分でやった方が早い」とか、教えると言うよりは「見ながら覚えろよ」みたいなスタンスだったんですよね。ただ、FILE RECORDSでいうと、Jazzy Sportを立ち上げた小林雅也やSUMMITを立ち上げた増田岳哉みたいに、レーベルを立ち上げた仲間たちもいて。そう考えると、FILEには優秀なA&Rが多かったのかなと思います。

ー90年代初期から日本のヒップホップ業界にいて、何度かヒップホップのバブルというか大きな流行りの波を感じて来られたのではと思います。「これは一番デカい波が来たな」と思ったのはいつですか?

岡田 すごく個人的だけど、2018年にBAD HOPが単独で武道館公演を成功させた時ですかね。20歳そこそこの若者たちが、大人の力を使わずに武道館をあれだけの形に仕上げるというのは、やっぱりそうそう出来ることではないですし、ましてや彼らの生きてきた環境を鑑みると、「本当に情熱だけでここまで来たな」という事実を見せつけられましたよね。結構、ショッキングでした。

BAD HOPから感じた”おもしろさ”

ー岡田さんご自身も、FILE RECORDSを退職された後はZeebraさんが立ち上げたレーベル、Grand Masterとの仕事を経て、BAD HOPの制作面をサポートしていらっしゃいました。

岡田 私が独立する、というタイミングで、ZeebraがGrand Masterというレーベルを始めるという話になって。そこで、業務委託で手伝っていたんですよ。退社直後に、(BAD HOPの)T-PablowとYZERRから声をかけてもらったんですが、BAD HOPからは”大人が関わらないおもしろさ”を感じていたので、自分が入ることでつまらなくなってしまったら嫌だなと思って。迷いに迷って、手伝うことにしたんです。

ーBAD HOPと時間を共にして、改めて気がつく彼らの凄さ、みたいなものはありましたか?

岡田 常にフレッシュだし、YZERRが考えることや「こういうことやったらおもしろいと思うんですよ」っていうことは本当におもしろいんですよ。TOKONA-Xと近いものを感じたんですけど、この子が言ってることは全部本当になる気がするというか、嘘がないというか。「とにかく実現させる」と思わせるんですよね。これはBAD HOPに限らずだけど、おもしろいアーティストってユーモアのセンスも光っていて、一緒にいて喋っているだけで楽しいんです。シニカルなところも含めて。YZERRは本当に、今まで会ったことがないタイプですね。私にとっては、T-Pablowが太陽でYZERRが月、というイメージなんです。斬新さとかアーティストらしい繊細さとか、そこのバランスが今までにないですね。

ー今までのキャリアを振り返って、ご自身におけるキーパーソンはいらっしゃいましたか?

岡田 面識はないんですけど、Def Jam Recordingsを立ち上げたラッセル・シモンズとかJive Recordsにいたアン・カーリーとか、実際にアメリカのヒップホップ・ビジネスを切り拓いて来た人たちですかね。

ー女性という立場で、ヒップホップ・シーンを支えてこられた、という点においてはどうでしょうか。

岡田 私の時代は、ヒップホップが好きな女性自体が少ないという状況でしたし、「女にヒップホップが分かるの?」と言われたこともあって、そのときは「え? ヒップホップって性別があるの?」って言い返しちゃったくらいで。私は、女の人の方が、ヒップホップ・アーティストとの仕事に向いてると思っているんです。喧嘩しても後腐れがないんですよ。男性のスタッフとアーティストが喧嘩しちゃうと、もっとギスギスしちゃうし。だから、この業界にももっと女性が増えてほしいですね。疲れちゃったり、結婚したり、みたいなこともありますけど。

ー男女問わず、30年間、ずっとこの業界にいらっしゃる方もいないのではないかと思っていて。岡田さんは、まさにヒップホップ・シーンの裏方として、ずっと第一線でみんなを率いてきたのではないでしょうか。

岡田 2016年に「さんピンCAMP」が20年ぶりに復活して、「さんピンCAMP20」が開催されましたけど、どっちの「さんピンCAMP」にも行っている裏方は、私だけじゃないかという話になったんです。それくらい、30年近くずっといる人は少ないのかもしれないですね。

ーこれまで手がけてきたなかで、最も印象的に残っている瞬間は何ですか? 膨大な思い出の数があると思うのですが。

岡田 一つに絞るのは難しいですけど、いまだにすごく綺麗に覚えているのは、RHYMESTERが1999年に新宿のリキッドルームで開催したライブ『KING OF STAGE VOL.3』ですね。初めてチケットが即完したワンマンで。リハーサルのときにステージに立って誰もいない客席を見た時、あれほど広いと思っていたリキッドルームが狭く感じられて立ち尽くしてたんです。そこで、舞台制作をお願いしていたクラブチッタの本田さんに「どうしたんですか?」と声をかけられて。「リキッドルームってこんなに小さかったっけ、と思ったんです」と答えたら、厳しかった本田さんに「それだけアーティストが大きくなったってことですよ」と言われて、その場でブワーッと涙が出てきちゃって。その後に「今日、一番最初に入ってきてくれるお客さんの顔を絶対覚えておこう」と思って、開場の瞬間、エントランスにバーっと走っていったんです。そうしたら最初に入ってきたのは、でっかい花束を抱えたDJ YANATAKEだった。その時の、ニコニコしながら「おめでと~!」って言っているYANATAKEの顔も忘れられないし、あの日は本当に色々とうれしかったんですよね。

ーこの仕事をずっと続けられてこられた際に、大事にしていたマイ・ルールみたいなものはありますか?

岡田 意外と真面目なので、丁寧に仕事をする、ということですかね。突き詰めれば、クオリティを上げるということになると思います。やっぱり、音源ってずっと残るものですし、絶対に丁寧に作ったほうがいい。ライブも、ちゃんと丁寧に。あくまでも、お客さんはお金を払ってライブを観に来てるわけですし、アーティストはそこからギャラをもらうわけですよね。だから、ちゃんとしたものを観せなきゃいけないし、聴かせなきゃいけないと思う。もちろん、感覚的なものは大事にしつつも、”丁寧にやる”ということができていない人が結構多いんじゃないかな。

ーずっとこの業界で仕事を続けてこられた、一番の理由はなんですか?

岡田 最初はヒップホップが好きで、「私にもできることは何か」ということを考えた時に、表に立って人前で何かをする、というのが苦手だったので、「裏方だ」ということで入っていった。日本においては、まだまだ新しいジャンルだったので、「アーティストと一緒にヒップホップを作っていく感」がすごく楽しくて。結果、A&R業もすごく好きだなと感じるようになりましたね。正直「ヒップホップに疲れる」というような瞬間もありました。見ているところは同じはずなのにしがらみや派閥でぶつかったり、USの流行りに振り回されて本来ヒップホップにあるべき自由度を失っているなと感じたりしたときとか。でもやっぱり、作ることってものすごく楽しい。しかも、それがクラシックとして長く聴いてもらえるとなったときに、大きな達成感がありますよね。それと並行して、ライブで生でお客さんが楽しんでいるのを見ると、もうやめられないです。その繰り返しで、今まで来たという感じです。

ヒップホップ・カルチャーを担う女性たち「Makiko Okada」

Photo by Mitsuru Nishimura

岡田麻起子
東京都生まれ。高校生の時にヒップホップと出会い、大学卒業後メジャーレーベルに数カ月在籍するも、A&Rを目指しFILE RECORDSに入社。トータル20年弱在籍したFILE退社後はレーベルやプロダクションでのサポート等で、約30年A&Rとして活動。近年はSpinna B-ILL、BAD HOPのアルバム制作のサポート業務に携わっていた。

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